「ふんふんふ〜ん。ふんふ〜ん。ふふっふー」
 紅玉宮の白蛇妃に与えられた部屋にて。
 苺苺は少し調子の外れた能天気な歌を口ずさみながら、窓際に置かれた古盆器の寄せ植えから野苺の果実を手でちぎって収穫すると、きゅきゅっと優しく手布でぬぐう。
(う〜む。今夜も収穫なしでしょうか……)
 苺苺が三日三晩見張った結果、やはり『恐ろしい女官発見器』であるぬい様が裂けることはなかった。
 それからさらに四日が経ったが、お茶会には相変わらず呪毒が出ている。
 木蘭暗殺の意志は変わっていないようだ。
 しかし、いくらこちらを警戒して鳴りを潜めている犯人でも、作戦が遂行できないために相当な心的疲労(ストレス)を感じているはずだ。
 ――そろそろ、苺苺の存在を邪魔に感じている頃合いだろう。
(無期限なんて正気の沙汰ではない、必ず『白蛇の娘』を追い出さねば。決して自分の手は汚さずに。……そうお考えのはずですわ)
 白家の次期当主となる兄、静嘉(セイカ)が、
『頭の良い女官は決して自分の手は汚さない。後宮での事件はそうやって起こものだと、僕の読んだ小説に書いてあったよ』
と物知り顔で得意げに話していた。
(いくら妹妹(メイメイ)のためだからと言って、後宮小説にはまりすぎでは? と思っていましたが、お兄様のご助言が事件解明に役立ちました)
「……あらあら? 今朝まで元気でしたのに、一株分、しおれています……! なんということでしょう、うううっ、悲しいです。まさかご病気に!?」
 苺苺はしなびてしおれている株に手を添えて震える。
 そこには寄せ植えを毎日見ている苺苺だからこそ気がつける、不自然な切り口があった。
(……――こうなったら、形代をやめてみるべきでしょうね)
 真っ赤に色づいた果実を見つめ、あーん、と唇を開いた時。部屋の扉が無遠慮に開かれる。
「ちょっとあんた。そのまま食べる気?」
春燕(チュンエン)さん」
「白蛇娘娘、水盆を持ってきたなのです」
鈴鹿(リンルー)さん」
 苺苺はきょとんと目を丸くする。
 夕餉と湯浴みを終えた苺苺が、あやかしを警戒するために部屋を出るまでの間、静かに刺繍をしながら自ら育てた果実を摘むのを知った侍女二人は、頃合いを見計らって、果実を洗うための水差しと盆を持ってきていた。
「それ、洗ったら」
「ありがとうございます。わざわざすみません」
「別に。これくらいどうってことないわよ」
「白蛇娘娘、鈴鹿たちがお手伝いするのです」
 円卓に水盆を置いた鈴鹿が、「どうぞお座りくださいなのです」と窓際の苺苺を呼ぶ。
 春燕が引いてくれた椅子に苺苺がおずおずと腰掛けると、春燕は「ほら野苺」とぶっきらぼうに言った。
 苺苺が収穫したばかりの野苺の果実を差し出す。
 春燕はそれを受け取ると、意外にも丁寧な所作で水差しから清浄な水をかけた。
 丁寧に埃を洗い流し、鈴鹿が手渡した清潔な手巾で拭ってから透明な玻璃皿に盛り付けて、苺苺の前に差し出す。
 春燕は不機嫌そうな顔をしていたが、鈴鹿は少しだけ嬉しそうだ。
 苺苺は「いただきます」と食前の挨拶をしてから、玻璃の上できらきらと輝く果実を摘んで食べる。
「むむ。少し冷えていて、なんだか甘さが増した気がします。お二人のおかげか、いつもより美味しいですっ」
「馬鹿ね。いつもとおんなじよ。……あんたさえ良かったら、明日も出すけど。厨房でやってきてもいいわ」
「鈴鹿たちに野苺の管理を命じてもらえたら嬉しいなのです」
「お言葉に甘えて、と言いたいところですが。ふふっ、この子は水星宮で唯一のわたくしの家族でしたので。わたくしがお世話したいと思っています」
 お水を持って来ていただけるのは嬉しいです、と苺苺は微笑むが、春燕はぷいっとそっぽを向く。
「ふんっ。じゃあ知らない」
「春燕は『明日も持って来ます』と言っているのです」
「言ってないわよ!」
 ぎゃあぎゃあと春燕が鈴鹿に噛みつく。
「春燕、あまり騒ぐとまた肺にゴホゴホ響くのです」
「もうずっと患ってる慢性のものだから、今さら急に悪くなったりはしないわ。……でも変ね? ここ数日は咳き込んだ記憶がないかも……?」
「もしや治ったのです?」
「……そうかも?」
(ふふふっ、春燕さんと鈴鹿さんは息がぴったりで羨ましいです。わたくしも木蘭様と息がぴったりの仲になれたら……)
 苺苺そっちのけで言い合う賑やかな女官たちを眺めつつ、夜食の果実を摘み終えた苺苺は、
(はっ! いえいえ、わたくしは紫淵殿下の〝異能の巫女〟です! 美味しいご飯にお茶菓子にお風呂、それからこんなにふかふかな寝台を用意してもらっているのですから、お給料分きっちり働かなくてはッ)
 水差しの水を使って水盆の上で手を清めてから、ぱっと立ち上がって夜警の準備を始めた。
 衣装箪笥から取り出した一張羅、金糸で蛇の鱗模様を刺繍した破魔の装束を広げて、寝台の上に並べていた白蛇ちゃんたちを覆うようにして掛ける。
「あんた、ちょっと目を離した隙になにやってるの? そんな上等な衣裳を寝台に敷くなんて」
「ふっふっふっ。今夜は白蛇ちゃんたちに上等な(しとね)でのびのびと眠ってほしくて。わたくしの一張羅(とっておき)をお貸ししているのです」
若麗(ジャクレイ)様が言ってたぬいぐるみ好きは本当だったのね」
「白蛇娘娘のぬいぐるみ、鈴鹿たちは好きなのです」
「私は好きなんてひと言も言ってないわよ!」
木蘭(ムーラン)様のぬいぐるみ、春燕もかわいいって言ってたなのです」
「言ってない!」
「白蛇ちゃんも木蘭様と一緒だと和むって言ってたなのです」
「言ってないったら!」
 再び言い合いを始めた春燕と鈴鹿。
 苺苺は心の中で『喧嘩するほど仲が良いとはまさにこのこと』と思いながら、「わたくしは夜警に出かけますので、どうぞゆっくりお過ごしくださいね」とにっこり微笑んで、部屋の扉に手をかける。
「ま、待ちなさいよ。主人のいない部屋にいつまでもいるわけないじゃない」
 弾かれたようにこちらを向いた春燕が、ばたばたと持って来ていた水盆を片付け、鈴鹿はぱたぱたと歩いて円卓を整える。
 急いで部屋を出てきた二人に「おやすみなさい」と声をかけた苺苺は、木蘭から預かっていた鍵で、しっかりと部屋を施錠した。

 ぬい様を手にした苺苺は、いつもと同じ時間にいつもと同じ道順を通って紅玉宮を巡回する。
 苺苺の異能は、人々の心に宿る悪意や口から出た悪意を眼で視ることができる。
 つまり意図的に隙を作って恐ろしい女官に謀を行う時間を与えることで、その尻尾が掴みやすくなるのだ。
 犯人を捕まえるために犯人に計画を練る時間を与えるとは皮肉だが、悪意で形代が裂けないということはすなわち、計画が思うように進んでいない証拠でもある。
(そろそろ勝負をつけなくてはいけません。わたくしたちが有利なのは相変わらずです。恐ろしい女官の方が動き出す前に、必ずや捕らえてみせます)
 いくら精神力のある女官といえど、邪魔者への苛立ちは募るだろう。今夜は『白蛇の娘』への悪意が、最大限に膨れているはずだ。
 女官たちの仕事が終わる頃を見計らって、苺苺は紅玉宮本殿の外側に造られた階段から二階へ上がった。
 本殿は紅玉宮の他の建物より高く造られており、四阿(あずまや)造りの楼榭(ろうしゃ)からは四方を観望できる。
 春の夜風が吹き抜ける星空の下、苺苺は欄干(らんかん)のそば近くに寄る。
 ひとり、またひとりと女官たちが紅玉宮内の宿舎に入っていく。
 上級女官は一人部屋を持っているが、他の女官たちは二人ひと組の相部屋だ。
 元西八宮出身の下級女官で、紅玉宮の現体制が発足してからあとに入った美雀(メイチェ)とは、推薦人であり血の繋がった姉妹である春燕が同部屋となり過ごしている。
(真夜中ともなると、ほとんどの部屋の明かりが消えていますね)
 宿舎から出ているのは本殿近くの控え部屋で、あくびをしながらお茶をしている中級女官の二人くらいだろう。
 ほう、ほう、とどこからか(ふくろう)の鳴き声が聞こえてくる。静かな夜だ。
 この時間帯になると決まって若麗の奏でる月琴(ゆえきん)の音が聞こえるが、その優雅な音色と相まって別世界に来たかのような錯覚に陥る。
 灰かぶりの水星宮とは違う、煌びやかな後宮の姿がここにはあった。
 今晩の音色は、雅やかに膨らむ音の中に憂いのような緩慢さが含まれていて、なおのこと幻想的である。
(もしかして、心配事でもおありなのでしょうか? そういえば今朝、若麗様から『紅玉宮で皇太子殿下をお見かけしませんでしたか? 最近皇太子殿下が木蘭様に会いに来られないので、御心が離れられたのかと心配です。苺苺様、なにかご存じではありませんか?』と聞かれましたね……)
 その時の若麗の瞳が、不安そうに揺れていたのを覚えている。
 あれはなにかを〝信じたくない〟と、〝そうであってほしくない〟と訴える目だった。
(紫淵殿下から木蘭様に向けられていた寵愛が失われたかもしれないと、筆頭女官としてご心配されているのやも)
 その心情が憂いとなって、月琴の音色にも表れているのかもしれない。
 そんなことを考えていると、どこからか風に乗ってふわふわと青黒い靄が流れてきて、ゆうらりと苺苺の周囲を取り巻来始める。
呪靄(じゅあい)です。それほど強いものではないですね。わたくしのことを思考している程度でしょうか)
 後宮に上がって形代を作ってからは、とんと視ていなかった自分へ向けられた悪意に触れる。
 そうして幾ばくか経ち、子の刻から丑の刻から差し掛かった頃。
 かたり、と机に物を置くような小さな音がした。
「な、なにやつです……っ!」
「なにやつとは、随分な言い方だな」
 苺苺ががばりと振り返ると、四阿の下には武官の姿に身を包み、見事な長剣を佩いた紫淵(シエン)がいた。
階段があったにも関わらず足音がしなかったのは、さすが武官の格好をしているだけのことはある。
「紫淵殿下でしたか。白苺苺、皇太子殿下に拝謁いたします」
「君からの礼はいらない。俺たちの仲だろう。それほど畏まってくれなくていい」
「はて? どんな仲でしょうか?」
「つれない人だな。こんなにも互いの秘密を共有し合う仲だというのに」
「確かにそうですね……?」
 紫淵は不機嫌そうに眉を寄せて、頬を膨らませる。
 今夜の紫淵は、紺青の長髪を結い上げてはいなかった。もしかしなくても、ここ以外の場所へ行く予定がないのかもしれない。
 明け方の黎明、あるいは黄昏の夜空、そして闇夜に流れる銀河のごとき艶やかな黒髪が、さらさらと風に揺れているのを眺めながら、苺苺は少々むっとする。
「時々こうして様子を見にいらっしゃいますが、来なくても大丈夫ですのに。悪鬼面もなさらずに軽率ですよ」
「裏から来たから問題ない」
 この楼榭は屋根が広いので、蝋燭が一本立っただけの燭台の光では影になる。宿舎側の欄干に近づきさえしなければ、人影すら見えないだろう。
「というか、君は俺が木蘭の姿ではなくなった途端に態度が変わるな」
「わたくしは木蘭様推しですので!」
 えっへんと苺苺は腰に両手を当てて胸を張る。
 その『推し』っていったいなんだ、と思いながら紫淵は少し不服そうな様子で苺苺の隣に立つ。
「だが中身は変わっていない」
「それは……そうかもしれませんが……。紫淵殿下と木蘭様では違いすぎます」
 成人間近の美青年と六歳の美幼女が隣同士に並ぶ様子を想像した苺苺は、その違いを頭の中で並べ立てて『不合格』の烙印を紫淵に押した。
「紫淵殿下は推しじゃないです。不合格です」
(木蘭様推しの同志ではありますが)
 苺苺は可愛いものが好きなのだ。
 そんな苺苺の言葉に、紫淵はなんだか……告白もしていないのに勝手に振られたかのような、妙な気分になる。
「たとえ俺が不合格だろうと、君は――」
 胸の内側をぎゅっと掴まれるみたいな切なさを感じ、思わず、『すでに俺の(もの)だ』と言いかけて、彼は閉口した。
 厳密には、まだ仮初めの妃にすぎない。
 そう思うと、さらに胸の中のもやもやが増した。胸の奥底で、そろりと独占欲の炎が燻る。
「……まあいい。それより、今日の収穫はありそうか?」
「呪妖は相変わらず確認できていません。けれど、わたくし宛の小さな呪靄でしたらいくらかは」
 白蛇ちゃんの形代はすべて一張羅の中だ。
 本来なら形代に集められるため、視界に入らずにいる呪靄や呪妖といった悪意がこちらへ向かってくる。苺苺は手慰みに持って来ていた絹扇に、異能を使わずに白の大蛇と木蓮を刺繍しつつ、それを観察していた。
 紫淵はその絵画のごとく繊細で見事な両面刺繍に視線を落とし、「また見事な作品だな。白蛇と木蓮、それから玄鳥(げんちょう)神鹿(しんろく)()とは縁起がいい」と口元を緩める。
「ここ最近は玄鳥神鹿図が多いな。新しい図案か?」
「はい。少々、思うところがありまして」
「ほう? それについては後で話を聞かせてもらうとして。温かい花茶を持って来た。少し休もう」
「ありがとうございます」
 紫淵は少し迷った末にそっと苺苺の手を取り、四阿の卓子に誘う。
 自分の大きな手に遠慮がちに添えられた小さい手は、強く握ると折れそうなほど儚い。指先は夜の寒さに冷えており、氷のように冷たかった。
 紫淵は眉をしかめる。苺苺を体調不良にしては本末転倒だ。
「君にあげた肩掛けはどうした? 身体を冷やさないようにと思って、薄くても上等な品を選んだんだが」
「あっ」
「西方の国使が皇太子への献上品に持って来た織物だ」
 純白の織物は燐華国において死を連想させるが、西方や東方では花嫁が身にまとう祝福と幸福に満ちた衣なのだという。
「白家は白蛇の加護を意味する白色をことさらに尊ぶとか。その……、君への贈り物に相応しいと思ったんだが、気に入ってもらえただろう――か」
 長椅子に腰掛けた苺苺は、明らかに動揺してサササッと紫淵から目をそらす。
 そんな彼女の隣に座った紫淵は、卓子の上に頬杖をついて、胡乱げに彼女を見下ろした。
「その顔、まさか……無くしたのか?」
「無くしたと言いますか、その……」
「なんだ、歯切れが悪いな」
 苺苺は両手の人差し指を合わせたり離したりしつつ、「ええっと、その……」と口ごもりながら、紅珊瑚の大きな瞳を紫淵に向ける。
「友情の証として、猫魈(ねこしょう)様と半分こにしちゃいました」
「……は?」
「え、えへへ」
「はあぁぁぁ。皇太子の下賜した品をあやかしに躊躇(ちゅうちょ)なく下げ渡す妃なんて前代未聞だ」
 紫淵は深いため息をついて顔を覆った。
「だんだんわかってきたぞ。君はそういう人だ。昔から……」
「昔ですか?」
「いや、いい。こちらの話だ。……ほら、そろそろ頃合いだ」
 玻璃の茶壺(ちゃふう)の中で工芸茶の蕾がふんわりと花弁を開き、大輪の黄花を咲かせた。
「菊花茶ですね」
「ああ」
「よい香りがします」
 菊花は漢方にも使用され、眼精疲労の回復や、解毒と消炎、鎮静作用があるとされる。
 紫淵がこれを選んだのは苺苺の体調を心配した結果だ。
 連日の長時間の刺繍や見張りで目を酷使しているだろうし、宦官に打たれた怪我やあやかしから守ってくれた時の傷もある。
 朝晩の薬湯も飲ませたいところであったが、必要ないと断られたので、せめて。
 まあ茶壺を用意し淹れたのは宵世(ショウセ)であるが。
 紫淵は隣に座る苺苺へ顔を向け、立ち上がろうとした彼女の手首を掴む。
「座っていてくれ。今晩は俺が給仕する」
「いいえ、紫淵殿下にお茶を淹れていただくわけには」
「こう見えて、皇太子妃の作法を学んでいるんだ。まずくはしない」
 ふわりと優しく口元を綻ばせた紫淵に、苺苺も思わずくすりと笑ってしまう。
 この白皙の美貌の青年が皇太子妃の作法の手習いとは、なんだか似合わなくて面白い。
「ふふっ。ではお言葉に甘えさせていただきます」
「ああ」
 紫淵は美しい所作で茶壺を持ち、ゆっくりと茶器に菊花茶を注ぐ。とろとろと静かに注がれた茶から清涼な香りが漂い、夜半の空気に湯気が白く見えた。
 それからゆっくりとふたりで菊花茶を楽しむ。
(ほう……っ。あたたかいです)
 一息ついた苺苺を満足げに見やった紫淵は、「そういえば怪我の具合はどうなんだ」と問いかけた。
 女性に何度も聞くのはどうかと思って直接聞くのを避けていたが、白蛇妃投獄事件からもう一週間以上が経つ。宮廷医に見せるべきだと告げたが、これもまた拒否されていた。
 左手に手巾を巻いたままだが、そろそろ少しくらいは治ってきているのだろうか。
「よく効く傷薬もいただき、おかげさまですべての傷が治りました」
「そうなのか? 塞がってきたのなら良かった。そろそろ追加の軟膏が必要だろう? 宮廷医に託けて用意させる」
「いえ、新しいお薬は必要ありません。こちらは……」
 苺苺がするすると手巾をほどく。
「綺麗さっぱり跡形もなくなっているので」
「な……っ」
 苺苺は水仕事知らずの白磁のような手のひらを紫淵に見せた。予想通り、相手は絶句している。
(それはそうですよね。(はさみ)での切り傷で、あんなに血が滲むほど肉が裂けていましたから)
「これも『白蛇の娘』の異能なのか……?」
「わかりません。ただ、呪毒を宿したお茶菓子や燐火を封じて祓うことで、治癒の力を得たようです。治りが早いのは良いことですよね。元気はもりもりが一番です」
「そう、だな」
 頷いたものの、紫淵は畏怖を感じていた。
 これが『白蛇の娘』の力。これが――『白家白蛇伝』に描かれた白き蛇神の血を継ぐ、神の愛し子なのか、と。
「でも怪我の具合を知っている方をこうして驚かせてしまいますし、治癒の力があると恐ろしい女官の方にばれても得することはないと思いましたので。もう少し隠しておきます」
「言えてるな。賢明な判断だ」
 苺苺は再び左手に手巾を巻き直す。その時、視界の端にちらりと青黒い(もや)が映った。
 その色の濃さ、密度が、瞬きをした瞬間にどす黒くなる。
「この呪靄(じゅあい)は」
 立ち上がり、欄干に駆け寄った。紫淵もそれを追う。――刹那。
 苺苺の頭上にぶわりと黒い胡蝶が舞った。
「――っ、苺苺!」
 紫淵は視界に映ったありえない光景に目を見開き、苺苺をその(たくま)しい腕の中に素早く閉じ込める。
「ひえっっ」
(ひえええっ、紫淵殿下がご乱心ですっ! どどどどうしましょう!?)
「な、んだ、この蝶は」
「紫淵殿下にも視えているとは驚きですっ。これは、その、呪妖(じゅよう)と言って〜〜〜っ」
 数十匹はいるだろうか。
 黒い胡蝶は怪しげな青黒い燐光を振りまきながらひらひらと舞う。その姿は背筋がぞっとするほど美しく、聞こえぬ不協和音の羽ばたきが空気を震わせているようだった。
 (いびつ)なそれは、目が見えているのか見えていないのかも不明であるが、確かに苺苺を狙っていた。
 紫淵は片腕の中に苺苺をぎゅっと抱きしめ、腰に()いていた長剣を抜きざまに一刃する。
 じゅわりと()(ただ)れる音がして、途端に腐敗物が焦げた匂いが鼻を突く。
 この長剣は燐家の宝刀である〝破邪の剣〟だ。鎮護の懐剣と対とされ、千年以上昔から存在している。実際に悪鬼を封じた際に使われたもので、本来の姿が饕餮(とうてつ)である宵世も本能的に嫌っている、古代の名匠によって鍛えられた業物である。
 呪妖はこの世のものではない胡蝶だったが、あやかしでもなかった。しかし、どうやら通用したらしい。
 灼け爛れた胡蝶は灰となって、やがて風に攫われてさらさらと消えた。
「……苺苺、大丈夫か?」
(あわわわ! ぎゅっとしないでくださいっ! なんだか心臓がどきどきして、目が回りますぅぅ)
 紫淵に抱きしめられたままの苺苺は、頬がかぁぁっと熱くなるのを感じた。