扉を開けるその静かな音に気づいたのか、ベットで上半身だけ起こしている河井さんはゆっくりとこっちを向いた。
手には今まで読んでいただろう本がある。

「あ……………………。なんでそんなにびしょ濡れなの」

初め河井さんはとても驚いていたが、驚きが落ち着くと僕を見て笑いがこみ上げたのか、本で口元を隠してくすくすと笑っていた。
僕は部屋に入って少しだけ河井さんに近づく。

近くの机のには、バキバキ割れて壊れた河井さんのスマホが置かれていた。

僕の不安を感じ取ったのか、病院服の河井さんは体ごと僕の方に向け本を脇に置くと、ぴょんという軽い感じでベッドから立ち上がり、ゆっくりと僕の方へ歩いてくる。

時々ステップも混ぜて近づいてくる。

「ほらね、大丈夫だよ。ちょっと気を失っていただけで大きな怪我もしてないし、今は全然平気っぽいよ」 

彼女の言うとおり怪我もなく元気そうだった。
僕は肩の力がすうっと抜け、ほっとしているのが自分でも分かる。

「ほんとにごめんね。待ち合わせ破っちゃったし、私が連絡もしなかったから」

僕の前で河井さんは本当に申し訳なさそうに言った。
僕の顔ではなく足下ばかり見ていた。

「河井が無事で安心したよ」

「しゃちは優しいね。もっと怒られるかと思った。あーあ、絶対岩屋さん私に怒っているだろうなあ。岩屋さんが走っているところを見るの、ほんとは私、少し楽しみにしてたんだ」

「身体の方は本当に大丈夫なのか?」

僕は似合わない病院服の彼女が不安で、彼女に事故の痕跡がないかともう一度確認する。

「うん。本当は私、待ち合わせしていた時間の30分前には着く予定だったんだよ。実はちょっと楽しみにしてた。でも私の不注意もあって車と事故しちゃって……。さっき検査して異常なかったんだけどもう少し安静してなさいねって。岩屋さんの走りはどうだった?」

僕は口で説明するよりも実際に見せた方がいいと思ってスマホで録画した動画を見せる。

「おおっ。しゃちはほんとに気が利くね。……岩屋さん、フォーム綺麗だし、すごく速くなったなあ。これから私、なんて言って岩屋さんに会えば良いかな」

か弱い声。
不安そうな顔で僕を見つめる。

「こればっかりは僕も分からないな。でも岩屋さんを見て思ったこととかこれから河井がどうしたいか素直に言うのがいいと思う。僕は河井の見方だから、自分に自信もってよ」

「それは心強いね。そうだよね、こればっかりは私でなんとかしないといけないもんね」

動画を見た後の河井さんは涙目になっていた。

そのくらい今この状況が悔しいのだろう。
解決しようと頑張り始めた矢先に、岩屋さんの気持ちを裏切ってしまうようなことが堪らなく悔しそうだった。
そんな河井さんを残しては帰れなかったので、僕はしばらくの間河井さんと一緒にいることにした。

午後5時を回る頃には河井さんがお腹すいたというので、僕は近くのコンビニまで行って二人分の弁当を買った。
ぱっと目にとまったハンバーグ弁当とデミオムライス弁当。
レンジで温めてもらい、冷めないうちに病室に持って行く。
河井さんはどっちも捨てがたいのか、ひとしきりうーーんと唸って迷った末に、ハンバーグ弁当を選んだ。

「本当は、今日はもっと美味しいもの食べにいく予定だったのにね」

少し気分が落ち着いたのか、まだ少し目は赤いもののいつもの河井さんに戻っていた。

「まあでもコンビニ弁当もまずくはないだろ。むしろ最近のコンビニはクオリティが高い」

「そうだけど。来週こそはだよ」 

河井さんは強く宣言する。

今週の僕の活動日は水曜と土曜か。休日に被っていてよかったと心の中で安心する。

どこからか祭り囃子が聞こえてくる。

あれから太陽は一度も顔を出すことなく夜になっていた。
窓を開けて空を見上げるとあれほどの雨を降らせた雲はどこへやら、空から姿を消して星がキラキラと輝いていた。

河井さんは医者に呼ばれて再度診察を受け、異常がないと診断されると帰宅の許可が下りた。

「ねえ、なんか近くで夏祭りやってるみたいだし、ちょっと寄ってみない? 今日は散々だったから最後くらいは楽しみたい」