日曜日。

僕は集合時間より30分早い8時30分に競技場の入り口に来て、河井さんを待つことにした。
周辺地区の学校生徒が既に集まり、競技場の外でもミーティングやらアップやらをしている。
僕の目の前をたくさんの人が通り過ぎていく。

少し遠くに自分の学校を見つけ、岩屋さんの姿も見つけた。
彼女は僕に気づいていないようだったが、アップに取り組む姿勢が真剣そうだったので、こちらから声をかけるのはやめておいた。

9時前になると選手たちは開会式のため競技場に入り始め、僕の回りは人が減り急に視界が開けた。
いつしか閑散となっている。
たまに応援のために駆けつけた家族連れとすれ違うだけ。

約束の時間の9時になった。

入り口のわかりやすい場所にいるので僕を探して迷っているなんてことはないと思う。

9時5分。

10分。

15分。

河井さんから何か連絡が来ているかもしれないと思いラインを開くが何も来ていなかった。

『何かあった? 競技場の入り口にいるから』 

とだけメッセージを送ってスマホをポケットにしまう。

10時30分のリレーに間に合えばいいと思っていたので別に焦ってはいなかった。
時折競技場内から偉い人たちの声が途切れ途切れに聞こえてくる。

9時30分を過ぎると競技が始まったらしく、急に歓声や声援で競技場内が騒がしくなる。

河井さんへのラインは未読のままだった。

彼女が直前になって陸上を見に行きたくなくなったという可能性もあるが、出来ればそれは考えたくなかった。

僕は心配になって電話をすることにする。

プルルルル。プルルルル。

しかしいつまで待っても呼び出し音が聞こえてくるだけ。
一度切ってかけ直すも同じである。
僕は岩屋さんにこのことを伝えようか迷ったが、本番前に別のことで気を遣わせない方がいいと思った。

今から河井さんの家に迎えに行って戻ってきてもリレーには間に合うとは思ったが、行き違いになるかもしれないと思い留まり、ただ静かに待つことにする。

やることがない僕は時間を忘れてただぼーっと青空に流れる雲を眺めていた。

競技場の音はBGMと成り下がる。
ふと時計を見るといつの間にか既に10時を少し過ぎている。

河井さんからの連絡は来ていなかった。
もう一度電話をするが結果は同じ。

僕は『観客席にいる』とラインを送って競技場内に入った。

客席に入った瞬間、照り付ける太陽の灼熱の世界がそこにはある。
赤土のグランドはここ以上だろう。
僕はいるだけで溶けそうな感じ。
隣では各学校の生徒たちが一斉に声援を送っている。

僕は近くにあまり人のいないところに移動した。
フィールド内にいる岩屋さんは比較的簡単に見つかった。
バトンパスの場所の確認をしているようだった。
白い肌のお腹が見える。ぎりぎりまで短いセパレート型のユニフォームはタイムへの執念のように見える。
もっと露出を抑えたらいいのにと陸上素人の僕は思った。

男子のリレーが終わると岩屋さんの出る女子4×400Mリレーの番だった。

僕はこの場に来なかった河井さんのためにもスマホで動画を撮ることにする。

選手が各位置に着き、スタート前の緊張感ある静寂が競技場内を支配する。

それは観客席にいる僕にまで伝わってくる。

第一走者がスタート姿勢に入ると、僕はスマホを握る力を少し強めた。

ピストルの音が2回鳴る。
フライングだと分かった瞬間、場の空気は少し緩むが、八人の選手たちがスタートラインに全員戻るまでには再び緊張が走っている。

今度は一度だけピストルが鳴り、選手たちはほぼ同時にスタートを切る。

岩屋さんはかつての河井さんと同じ第二走者だった。

彼女は5位でバトンを受け取る。

素人の僕が見ても分かるくらい岩屋さんは速く、前を走る選手たちを一人、二人、と追い抜いていく。
トラックの真ん中を過ぎても全くそのスピードは落ちないで、地面を蹴って軽やかに走る。

バトンを渡す頃には2位になっていた。

しかし後の走者でバトンパスのミスがあり、朝霧高校は予選三位と辛くも突破する。

岩屋さんはまだ地区大会だと言っていたが、僕にとっては十分ドキドキして見ていた。

もし河井さんが実際にここで走っていたらどんな風だろうか、とそんな例えばを想像してみる。

揺れる黒髪。
地面を蹴る力強い脚。
追い抜くしなやかな身体。

滅茶苦茶かっこよく見えるのは間違いない。

僕は録画を止めて競技場を後にする。

岩屋さんに『足速くて抜き去る姿、すごく格好良かった!! お疲れ様』とラインを送ると、河井さんの家に向かうことにした。

河井さんの方は相変わらず未読のままだった。


駅から河井さんの家へ向かう間に青空は消え始め、雲行きが怪しくなってきている。

僕は動画でいいから直接河井さんに見せて岩屋さんの頑張りをなんとしてでも伝えたかった。
僕は駅を出ると歩くのをやめて走り出す。

河井さんの家に着くとすぐさまインターホンを押した。
しかしどれだけ待っても応答はない。
部屋の明かりが付いていなかったので誰も家にいないようだった。
どこかに出掛けているのだろうか。

急にどどど、と音がし始め、視界がぼんやりと霞むほど辺りは土砂降りになる。
僕はどうしようか、と駐車場の屋根下で雨宿りしながら考えているとポケットのスマホが振動した。

今まで胸につかえていた不安が安堵へと変わる。

河井さんからだろうか。

一体今までどこにいたんだろう? 

とすぐさまポケットから取り出して見る。

しかし期待はすぐさま裏切られた。

メッセージの相手はライン友達の残る一人、片山だったからだ。

《今朝、河井が車とぶつかる交通事故に遭ったらしいぞ》