そしてさらに数日後。
 いよいよ食っちゃ寝生活にも変化が訪れた。

「今日一日クリスティーナお嬢様は外出のご予定がある。私もそれに同行する。帰りはおそらく夕方頃になるだろう」

 その間に……と、クリアから渡されたのは本だった。
 言語の教本と思われるそれは、初級編から上級編の全三冊とある。

「これで、勉強、するですね」
「ああ、そうだ。これだけ渡しても効率が悪いだろうから『シャル』に色々と聞くといい」
「シャル?」

 そこでタイミング良く部屋の扉が開いた。

「クリア、ニア。お邪魔するわね」
「おじょーさま。おはよ、ございます……うしろ、誰です?」

 準備万端の様子でローブを羽織ったクリスティーナお嬢様の背後には、もう一人見覚えのない少女がいた。
 色素の薄いクリーム色の髪が、内側に柔らかなカールを描いている。両サイドから流れる横髪はへその下より長く、特徴的な髪型をしていた。

 外見からは俺と同じぐらいの年齢に見える。実際のところどうなのだろうと推測していれば、丸々と広がる青みがかった緑色の眼がこちらを捉えた。
 
「はじめましてだね、ニア。ぼくがシャルだよ。正式な名前はかなり長いから、気軽にシャルと呼んでね」

 シャルと呼ばれた少女は、人懐っこい仕草でにっこりと笑う。
 容姿は幼いが、どこか物腰の余裕さが見て取れた。

 ぼくって言っていたが、どう見ても女の子だ。ただ単に一人称が『ぼく』というだけだろうか。
 うん……女の子にしか見えない。

「ニア、です。シャル、よろしく」
「うんうん、よろしく。ふふ、ぼくはね、クリアの使い魔なんだ。今はこーんな可愛い見た目をしてるけど、ぼくに性別はないんだよ」

 顔に出してしまっていたのか、俺の疑問はすぐに解消された。

「つかいま」
「使い魔ではあるけど、この屋敷ではぼくも一応、従者ってことになってるんだ。だいたいはクリスティーナのお着替えとか入浴のお手伝いをしてるよ」

 とはいえシャルは、従者とは到底思えないような、袖や裾が余った衣服を着ていた。
 初めは長いスカートかと思ったが、ただ上着が腰から広がるように伸びているだけで、下には膝上とかなり短く膨らんだキュロットを履いている。
 太ももまではしっかりと黒いパンストで覆われているので目立った露出はないが、従者とは程遠い格好だった。
 デザインは何となく制服のように見えなくもないが……クリアの使用人服と比べると豪華を通り越し良い意味で奇抜だ。
 使い魔、ということで衣服はある程度許容されているのだろうか。
 
 
「なる……ほど」

 俺の知る『マジカル・ハーツ』でも、使い魔の存在はあった。
 アカデミー編入後に主人公も使い魔契約をしていたし、その他の登場キャラクターにもいた。
 が、チョイ役であったクリアの使い魔は聞くのも見るのも初めてだ。

 使い魔とは、契約により使役する絶対的な主従関係で成り立つ存在のことを示す。
 使い魔契約には、召喚魔法陣に自分の血を垂らすという一般的な儀式の手法が用いられていた。

 魔導陣から出てくる使い魔は召喚者の実力によって異なり、それこそ低級の魔物から神獣と呼ばれる高位の種族と様々だ。
 たしか『マジカル・ハーツ』の主人公も神話級の使い魔を召喚していたはずだが、どんな姿形をしていたのかは思い出せない。

「教本に記されている以上の知識をシャルは持っている。今日は言語練習を中心だが、他に分からないことがあるのなら聞いてみろ。おそらくお前の問いに大抵は答えられる」
「えへ、そう褒められると照れるなぁクリア。だけど頼りにしてもらえて嬉しいよ。そういうことだから、任せてねーニア」

 シャルは軽やかな足取りで俺の前にやって来る。
 広がった裾がふんわりと揺れる動きを目で追っていると、袖で隠れた手のひらが俺の頭の上に着地した。

「よしよし。クリスティーナもクリアもだけど、ニアもまだまだ坊やだね〜」

 訳が分からないままシャルに頭を撫で回される。
 この達観した言動といい、先ほどの姿を人型に変えられるという発言といい。シャルは高位な種族なのではないだろうか。

 というか坊やって言われた。十歳だし子どもではあるけれど、これではまるで赤子をあやすような対応だ。
 クリスティーナお嬢様とクリアを横目に見る。特に驚いた様子もなく、普段からこれなのだろう。

「ふふ、仲良く出来そうで良かったわ。二人の顔合わせも済んだことだし、そろそろ出ましょう、クリア」
「かしこまりました」
「あ、おじょーさま、クリア、いってらっさい、ませ。お気をつけて」
「……うん。行ってくるわね、ニア」

 クリスティーナお嬢様は嬉しそうに微笑むと、クリアを引き連れ部屋を出て行った。

 クリスティーナお嬢様とクリアは夕方まで帰って来ない。用事の内容を尋ねることはできなかったが、ますます小説に登場していた自信がなく引っ込み思案なクリスティーナ・エムロイディーテの印象とは遠ざかっていく。

 詳しい話しはまだ聞けていないが、俺が昼夜を過ごすこの場所は、エムロイディーテ侯爵家の別邸だ。
 その辺は俺が知っている通り、父親であるエムロイディーテ侯爵がクリスティーナお嬢様だけを別邸に住まわせているからだろう。

 つまりこの先、徐々にクリスティーナお嬢様は小説で登場したような性格に変貌していく可能性があるということだが。
 うーん、実際のところどうなんだろう。

「わからない……」
「まだ始まってもないけど、なにが分からない?」

 俺がうんうん唸っていると、シャルが横からひょっこり出てきて視界に割り込んできた。

「なんでも、ない」
「そう? それじゃあ、ぼくたちもお勉強を始めようか。あ、お勉強中はぼくのこと、シャル先生と呼んでくれたまえよー」

 堂々と胸を張ったシャルに、俺は思わず口を緩める。

「おねがいします、シャルせんせ」
「よいよい。素直な子はぼく大好きだよ」

 シャルという使い魔のキャラがいまいち掴めないが、このゆるい空気は安心できる。

 ようやくこの不自然な片言から抜け出せるかもしれない。
 置かれた立場やこれからのことは手探り状態だが、言語の向上に関しては遠慮なくシャルを思いっきり頼ることにしよう。