子どもらしい泣きっ面に頭の奥が冷えていく。
 
「……お、お嬢様」

 とりあえず従者として置いて欲しいばかりに、お嬢様の気持ちをぞんざいにしていたと、今さらになって気がついた。
 必死になり過ぎて、俺はお嬢様のことを置いてけぼりしてしまっていたのだ。

「……わたくし、いやなの。契約の力で、あなたをずっとそばに置いておくのがっ。奴隷のあなたを引き取るには、契約をしないといけなかった。だからしただけよっ、本当は、主従契約なんて縛り付けること、したくなかった」

 えぐえぐと泣いているお嬢様は、鏡の破片が散らばる床にしゃがみ込み、さらに泣き声をあげる。

 救いたいと思った人を泣かせてしまったこと。その現状が思いのほか心に刺さった。

 泣かせたかったわけじゃない。
 困らせたかったわけじゃない。

 しかし、俺が必死に懇願することでお嬢様の負担になってしまったのは紛れもない事実だ。

「お嬢、様」

 伸ばした手が、ピタリと動きを止める。
 涙を袖で拭うお嬢様の指の先から、血が滴っていた。
 先ほど切ったところが深かったのだろう。
 いまだに血は固まらずに、とめどなくその白い肌を滑り落ちていた。

「――お嬢様、失礼します」

 女の子を泣かせた衝撃は大きかった。
 焦った末の行動ではなかったが、少し躍起になっていたのは認める。

「え……?」

 お嬢様は驚いた様子で顔を上げる。

 俺はお嬢様の手を取り、血が溢れる指先に、自分の指先を擦り合わせた。
 チクッとした痛みを感じたのか、お嬢様の肩が震えたのが分かる。

「これを飲めばいいんですね」

 自分の指先に移った少量の血。
 たしか主従契約をする際もこれぐらいの量だった。

「……泣かせてしまって、すみません」

 迷った末に、俺はお嬢様の血がついた自分の指先をぱくりと口に突っ込んだ。

 ……血の味が舌に広がる。
 たった少量ではあったが、効果はすぐに体に表れた。

「……んっ、ぐっ」
「に、ニア!?」

 背中の――おそらく契約印のある部分が焼けるように熱くなりはじめた。
 だが、奴隷市場で起こった異常なまでの激痛とは比べ物にならないくらい、拍子抜けするような軽い痛みだった。
 本当にこの痛みが軽いのか、それとも契約時の痛みが強烈だったからそう感じるのか、どちらだろうか。俺は後者だと思う。

 背中の疼きが続く間、お嬢様は俺の肩に手を乗せて心配そうに声をかけていた。
 さっきは俺との契約を破棄するために、あれやこれやと強気な発言をしていたが、やはり根の部分は変わっていない。

「……はぁ」

 ようやく背中にあった疼痛は治まった。
 耐えるために瞑っていた瞼を開くと、泣き腫らした少女の顔が視界いっぱいに広がる。

 ああ、よかった。本当によかった。
 変わらない。そこにいるのは、頬をぷっくりとさせた可愛らしいお嬢様だ。

「――」

 その表情に、怯えが浮かんだのを俺は見逃さなかった。

「……契約は、これで破棄されました? そういうのって主だった人にも分かるもの……なんですかね。クリスティーナお嬢様」

 息が切れそうになりながらも、俺は満面の笑みで問いかける。
驚きが一周してしまったのか、お嬢様は面食らったような様子で目を丸くした。

「どう、して……」

 その先の言葉の意味は悟れるものの、その問いには俺も正確に答えられそうにない。
 自分だってこれでもかなり驚いているのだ。

 宝石のアメジストに、黒いインクを垂らしたようなという表現は、本当に的確だなと自分を賞賛する。
 もっと言うなれば、その黒いインクは星空のような光の粒でいっぱいだ。
 こんな陳腐な例えも、その瞳を前にしては相応しくない気がする。

 まさに筆舌に尽くしがたい瞳と、同様の色を持った柔らかなうねりのある髪。
 それを変わらず綺麗だと思えたことに愁眉を開いた。

「よかった。俺は今も、綺麗だって思えてる」
「……ぇ」

 ほっと胸を撫で下ろした拍子に、俺は口を滑らせてしまった。
 彼女にとっては、その色に対して嬉しくもない言葉であるはずの「綺麗」だというのに。

「あなたも、なの……?」

 ところがお嬢様は顔を歪めるどころか、再びその目に涙を浮かばせた。

「どうしてあなたまで、この……みにくい色を綺麗だと言ってくれるの……?」

 大粒の涙が、一滴、また一滴と落ちていく。
 はらはらと流れる涙を、今度は指でそっと受け止めた。

「……お嬢様、俺を従者にしてください」
「……へ?」
「俺は誰かに仕えるなら、クリスティーナお嬢様がいいです」

 俺がそう言葉を並べると、お嬢様は顔をくしゃりと歪ませた。

「なんなの、あなたぁ……どれだけわたくしの従者になりたいのぉ〜……」

 もう訳が分からないと言いたげに、お嬢様は先ほどよりもさらに感情的になって泣き出した。

「安い買い物だとしても、俺はお嬢様に救われました」

 大人びたように見えて、本当の中身はまだ幼く涙をこぼすあどけない女の子。
 
 俺を思って突き放そうとした優しい人。
 自分が傷つくことに恐れるよりも、俺の将来が傷つくことを恐れるような人。

 きっかけはどうであれこの世界の俺を救ってくれたのは、クリスティーナお嬢様。
 だから今度は、俺を救ってくれた人の起こり得る未来を変えたい。

「やっぱり俺は、お嬢様を……救いたいです」 
「……っ?」

 その言葉の意図を知らないクリスティーナお嬢様は、俺に向かって愛らしく首をかしげた。


「――クリスティーナお嬢様! 時間になりましたので失礼致します!!」

 その時、扉が勢いよく開け放たれた。
 もうそれ絶対に足で蹴っただろうと言いたいぐらいの威力で開かれた扉は、若干だが形が変形している。

 扉が開けられる前に聞こえた焦り混じりの声は、クリアのものだった。
 時間がどうとか言っていたが……ちょっと待てよ、この状況を見られたら色々と誤解が……。

「おい、貴様……そこでお嬢様と何をしている」

 コツンと、足音が響いた。
 瞬きの暇もなくバルコニーに颯爽と現れたクリアは、割れた手鏡の破片やクリスティーナお嬢様の諸々の現状を目に映すと――青筋を浮かべる。
 またしてもブリザードを巻き起こすのが目に見えて分かった。

「貴様!!!」
「誤解です!!」

 俺は慌てて立ち上がり、クリアが思っているようなことはしていないと伝える。
 熱視線ならぬ凍えそうな冷視線を浴びながら、俺は無実を主張し続けた。

 やはり十一歳とは思えない気迫……にしても感情が昂ると「貴様」と呼び方を変えるその癖……びっくりするのでやめていただきたい。

 顔が良いやつの怒り心頭は、迫力が数倍ほど勝ることを身をもって実感した。