突き放すように細められていたお嬢様の目が、みるみると開かれていった。
 紫と黒が混じりあった独特な色合いの虹彩。そこに宿った儚げな影が、朝の光を浴びて変化していく。

「いま……あなたは、なんと言ったの?」
「嫌です、と言いました」
「わたくしの話をちゃんと聞いていた?」
「聞いていました。聞いたうえで、嫌だと答えました」

 口から出る言葉には冷静さがある。だが、内心気が気じゃなく動揺が荒波を立てていた。

 クリスティーナお嬢様には感謝しかない。奴隷だった俺を買ってくれて、体が回復するまで普通なら考えられないような待遇でこの屋敷に置いてくれた。

 短い間ではあったが、お嬢様と話す機会はたくさんあった。
 原作では詳しく語られたことがない幼少時代のお嬢様を目の前にして、クリスティーナ・エムロイディーテという一人の人間として接して俺が思ったこと。
 
 それはただ一つ。この人には、闇堕ちして(死んで)欲しくない。
 これはきっと、少ない時間の中で芽生えた彼女に対する情だ。

 それが仕えるものとしての考えかと聞かれれば即答はできない。
 だとしても、俺は偶然でも関わりを持ってしまったクリスティーナお嬢様がこれ以上悲惨な運命を辿ってしまうのが嫌だった。

 未来でお嬢様が闇堕ちする運命に立たされるのだとしたら、そうならないように今からお嬢様を救いたい。
 心に暗い影を落としていたとしても、今ならばまだ間に合うかもしれない。
 確証はないが見て見ぬふりをするくらいならば、俺は無理やりにでも彼女の人生に干渉して不安要素を片っ端から潰していく道を選ぶ。

 その選択が……許されるのなら。

「お願いします。俺を従者として、ここにいさせてください」

 正直この先のことはわからない。だがここでお嬢様と離れてしまっては、もう二度と戻れない気がした。

「……だめ。あなたはここを、出ていくの」

 戸惑いを含んだ声に、俺は首を横に振った。傍から見ればまるで駄々をこねる子どもだが、そもそも俺は子どもなのだ。
 人生の分かれ目に立っている時くらい駄々をこねさせて欲しい。

「なんでもします。お嬢様の従者として置いてくれるのなら、俺頑張ります」
「頑張りますって……」

 そばにいさせて欲しい、だから頑張る。
 とてもシンプルで単純な言葉に、クリスティーナお嬢様は呆れた様子を見せた。

「……あなたは何も分かっていないわ。ううん、分からないままでここを出ていくことが一番いいの」
「いいえ、俺はお嬢様の従者としてここにいたいんです」
「――ああ、もう」

 何を言ったところで俺の答えは変わらないと察したのだろう。
 お嬢様はさらに唇を引き締めて、強く言い放った。

「だったらはっきり言うから。あなた、いらないの。今まで優しくしていたのは全部うそ。奴隷だったあなたが可哀想で見ていられなかったから同情しただけ。あなたはわたくしを優しいお嬢様だと勘違いしてるみたいだけどね、そんなのはいくらでも作れるの」
「従者がだめなら、下男以下の存在でボロ雑巾のように使って貰って構わないので……」
「ちょっと! 少しは人の話を聞きなさいってば!」

 話を聞かない俺を前に、お嬢様の口調が随分と荒れている。

「ねえ、その執着心はどこからくるの? わたくしが奴隷のあなたを買ったことで恩を感じているの?」
「それもありますが」
「それなら感じる必要はないと言っているの! わたくしにしてみたら安い買い物だったのよ! 安い買い物よ! どう? こんなこと言う人間のそばにあなたはいたいの!?」
「いたいです。ここで働かせてください」

 そんなドヤっとして「わたくし最低なこと言っているでしょ?」みたいな顔をしなくても。
 本当の自分の素をさらけ出してまで、お嬢様はどうにか俺を追い出そうとしているらしい。

「あなたがわたくしのそばにいたいと思うのは、あなたがわたくしと主従契約を結んでいるからだわ。だからそんなことが言えるの。だからわたくしを前にしても恐れないでいれるのよ! 契約が解消されたら、あなただってわたくしに嫌悪を向けるようになるわ!」
「……?」

 そう断定するお嬢様に、俺はどういうことかと首を傾げる。

「そうよ、みんなそうだった。あなただってきっとそう。主従の縛りがなければ、わたくしのそばを離れたくなる。これまでもそうだった。クリア以外は……わたくしをまるで化け物のような目で……わたくしは、呪われているから」

 ぶつぶつと誰に言うでもなく、お嬢様は両手で髪の束を握りつぶやいた。

 呪われているから。
 そう言われる所以は、母親の原因不明の死と、両親の色を受け継がなかった髪と瞳。

 呪われた子と呼ばれるお嬢様は、屋敷の使用人たちからも避けられていた。
 ……避けられていたのは、その二つの理由だけではなかったということなのか?

 主従の契約が消えれば、俺はお嬢様の元を離れたくなる。それが決まっているような口ぶりに違和感が募っていく。

「そうよ……それがいいわ。あなたのその想いがまやかしだと、わたくしが今から教えてあげる」

 不意にクリスティーナお嬢様はバルコニーを出ると、部屋の中をきょろきょろと見渡した。
 何かを探していた視線が、一つの場所に集中する。

 それは、手鏡が置かれた丸テーブルだった。
 お嬢様はその手鏡を掴むと、もう一度バルコニーに戻ってくる。
 
「お嬢様、何をして――」
「こうするの!」

 俺の言葉とお嬢様の手に持っていた手鏡が固い床に叩きつけられるのは、ほぼ同時だった。

 強い衝撃によって四方八方に飛び散る鏡の破片。あんぐりと口を開ける俺をよそに、お嬢様は鋭く尖った破片の一つを手に取ろうとする。

「危な……っ」

 止めようと手を伸ばせば、お嬢様は素早く後ろに身を引いた。
 そのわずかな隙で、お嬢様は自分の人差し指に破片を滑らせる。

「なにをやっているんですか!!」

 お嬢様の白い指の先に、ぷっくりと赤い膨らみが表れた。
 瞬く間に起こった出来事に、予測して止められなかった自分を叱咤しながら声をあげる。

 お嬢様はそれすら無視して、目の前に指を突き出した。

「わたくしの血を、飲んで」