薄暗い廊下を進み、途中で左に曲がる。
初めて訪れる場所で心細さに駆られながらも、両手では砂糖がたっぷりまぶされたベニエを包み込んでいる。もう手のひらはベタベタだ。
やはり部屋に戻ればよかったと、早々に思い直す。屋敷を出歩くなと直接言われたわけではないが、深夜にベニエを持ってうろつく奴なんて怪しすぎる。
そんなことを考えていれば、月明かりが扉から漏れた部屋の前までやって来た。
「――」
中からまた、物音がした。
誰かしらがこの部屋にいるのは間違いなさそうだ。
俺はこの別邸に出入りしてる人間も知らない。顔を合わせているのは、クリスティーナお嬢様とクリア、そしてクリアの使い魔のシャル。
別邸といえどかなり広い建物だ。清掃するにも人手が必要だろう。
ということは、この部屋の中にいるのは、俺の知らない別の誰かという可能性もあるわけだ。
ごくりと生唾を飲み込み、扉に手を添える。
神経を研ぎ澄ませると、部屋の中の音がより鮮明に聞こえてくるような気がした。
開いた扉から、中を覗き込む。
薄暗がりの中に見えてきたのは、俺のよく知る人物だった。
「……お嬢、さま?」
驚きのあまり緩んでしまった口元を、自分の腕を使って乱暴に覆い隠す。
俺は一度、体を後ろに引き、見た光景を頭で整理した。
薄暗い部屋の中。
窓際に敷かれた小さなマットの上にぺたりと座り込むクリスティーナお嬢様の姿。
お嬢様が座る周囲には、大量の菓子が乱雑に置かれていた。
茶色の紙袋が数袋と、大皿がひとつ。
大皿には色んな種類の菓子が溢れるほどに積み上げられていて。
それをお嬢様は、無我夢中に頬張っていたのだ。
扉が開いていることで聞こえてくる、わずかな咀嚼音。
手に掴んだものを口に放り込んでは、また新たなものを手にして流し込む……その繰り返しだった。
「……」
しっかりと閉じられた片方の扉に背を預け、再び部屋の中に目をやる。
白いレースの寝衣に食べカスがこぼれ落ちようとも、お嬢様はまるで気にした様子はない。
それどころか瞳は心ここに在らずといったようで、暴食行為を無心におこなっているように思えた。
大皿の端には、粉砂糖がたっぷりまぶされたベニエがあった。俺の手にあるものと全く同じものだ。
心臓が、ばくばくと速度を上げ動いていた。
見てはいけないものを見てしまったからなのか、俺の動揺は凄まじい。
出会ってから今まで、あんなお嬢様を見たことがなかった。
俺といる時、お嬢様はいつも笑っていた。
優しくもどこか大人びた雰囲気があり、標準よりも少しふくよかな見た目をした、可愛らしい十歳の女の子。
それは俺が、出会った日から今日までに知った、クリスティーナ・エムロイディーテ。
その見る影もないほど、暴食の手を止めないお嬢様の姿は――異質だった。
「……ぁ」
震えた俺の手からベニエが床にころがり落ちる。
慌てて拾おうとその場にしゃがみ込み、丸いフォルムに手を伸ばした。
――その時。
「貴様、ここで何をしている」
低く響いた声とともに、背後から冷たく尖った何かが首横に当てられた。
背中に突き刺さる殺気のような空気が痛い。
息をするのもやっとで、初めはなにが起こっているのか理解が追いつかなかった。
「抵抗の意がないならば手をあげろ。さもなくば首を落とす」
首を斬られるなんて堪らない。
俺は大人しく従う。
背後にいる者が誰なのかは、相手の二言目で分かった。
本当に殺す気で刃を向けているのか伺いようがないが、俺も怪しまれる行動をしてしまったと自覚している。
それと……単純に怖すぎる。普段のあの冷めた対応の比ではない。
これは真のブリザードのような空気だ。
剣でやられるより先に氷漬けにあいそうだと本気で思った。
「……クリア」
俺はゆっくりと立ち上がり、手を肩の位置に固定したまま振り向く。
「……」
予想通り、うしろにいたのはクリアだった。