それから三十分ほど、シャルと教本の初級編を読み進めていた。
「ふんふん、聞いてはいたけど言語の理解に関しては全然問題ないよ。やっぱりこれまでの過酷な環境下にいて、まともに喋れてなかったせいか舌の機能が劣化してるんだね。それと……」
「……?」
「ニア、ちょっと舌を出してみて」
「こう?」
医者の診察のようだなと思いながら舌を出す。シャルは瞳をすぼめて何かを確かめていた。
「口内に傷がある。塞がってはいるけど……これ、話すとき無意識に庇ってる」
そうなのか……どおりで上手く喋れないわけだが、なんか嫌だなそれ。
口内を傷つけられたときのことなんて頭から抜けているし、出来れば思い出したくもない。
「で、これはクリアに言われてたことなんだけど。ぼく、それぐらいの身体的劣化ならすぐに治せるんだ」
「ええっ……!?」
「ニアの様子をぼくの目で見て確認して、大丈夫そうなら治してあげて欲しいってクリアに言われてた。もし心の障害からきてるなら、きみ自身が乗り越えないといけない問題になってくるから難しかったんだけどね」
この歯がゆい言葉遣いから卒業できるの? それが本当ならば是非ともお願いしたい。
「どうする? やる?」
「やる!」
「わあ、元気な返事! なら話が早いね。ちょいと手を拝借」
シャルは椅子からひょいと降り、そばに寄って俺の片手を握りこんできた。
「さっきニアの頭に触れたとき、体内の魔力の流れを確認してみたんだ。屋敷に来てから十分な食事と睡眠が取れているおかげで、魔力の質や量も回復してる。これなら体も耐えられそうだね」
怪我を治すのに体力が必要ということと同じ要領だろうか。
「ニアの魔力はかなり質が良いみたいだから、そのうち幅広い魔法が使えるようになるかもね」
「まほー、おれが!?」
「わ、いきなりどうしたの?」
魔法が使えないはずの俺にシャルがそんなことを言うものだから、つい声が跳ね上がってしまった。
「まほー……おれ、が、つかえる?」
「使えると思うけど……ああ、人間が魔法を扱えるのは、王族や貴族が大半だからね。自分も魔法が使えるって知って驚いたんだ。だけど王族や貴族でなくとも魔法を使える人間はいるよね。ほら、希少種って呼ばれてる」
そうではなく……俺は貴族であったのに魔法が使えなかったのだ。
だというのに、どういうことなのだろう。
「ん〜? なにか疑念を感じているような顔してるね。詳しい話は、ニアの舌の劣化を治してからにしよ」
その時、シャルの周囲に漂う空気がたしかに変化した。
部屋の窓はどこも開いていないのに、シャルの髪の毛先がふわりと浮かんで動きを見せ始める。
「体の力は抜いていてね。すぐに終わるから」
にこりと笑ったシャルに握られていた手を引かれた瞬間、肌を通して温気が流れ込んでくる。
――魔法だ。クリアのようにロッドを持っているわけではないが、それはたしかにシャルによる魔法だった。
体全体が例えようのないなにかに包まれていくのを感じる。
じわじわと広がる安堵の力に思わずシャルを見返せば、髪によって隠れていた前額があらわになっていた。
……この模様みたいなのはなんだ?
シャルのおでこ全体には、不思議な模様のようなものがあった。
言ってしまえば刺青みたいな見た目だが、魔法と同調するようにその模様は光を放っている。
その光が段々と弱まり完全に消えた頃――シャルの手が俺から離れていった。
ふわふわと浮いていたシャルの髪も、元通り下がっている。
「はい、終わったよ。どう? 試しになにか喋ってみてごらんよ」
「……え、もう話せるの?」
そうして口からこぼれた言葉の滑らかさに、俺は驚愕した。
「え!? え! 俺、今すごい上手く喋れてる!?」
「あはは、当たり前だよ。ぼくはそのために治したんだから。元々言語力もあったし、それがきみの普通なんだよ」
「……へえええ」
本当に治ったのか確かめるように、俺は膝の上に置かれた教本を手に取って中の文章を音読してみる。
シャルはその様子をにこにこと楽しそうに眺めていた。
「凄い……つっかえたり、変な違和感もない」
シャルに治して貰うまでは感じなかったが、舌の動きが以前と全く違うことに改めて気がつく。
「治してくれてありがとう、シャル先生!」
「どういたしまして。ま、お礼はクリアにも言ってあげてよ。ぼくが力を使うと、召喚者であるクリアにも負担がかかるから」
「うん、わかった。帰ってきたら伝えるよ」
俺は力強く頷いて、しばしの間シャルと他愛ない会話を楽しんだ。
難なく自分の言葉が伝えられるのって、こんなに嬉しいものなんだな。