【1】
ここが重力のない世界だったなら。
馬鹿みたいな仮定だ。そんなことはわかっている。
でも人間誰しも、愚かだと分かっていながらもそれにしがみつくしかないときがある。
キャリーケースのチャックを閉めて、私は立ち上がった。
もうベッドと机しかないガランとした部屋を見渡す。今朝までここで人が生活していたとは思えないくらい、無機質な部屋になった。
私は明日の朝、この家を出ていく。恋人と三年という月日を共に過ごしてきたこの家を。
キャリーケースを部屋の端に寄せて、リビングへ向かった。
暖房なんて設置されていない廊下の床は、靴下を履いているのにまるで氷のように冷たい。自然と足取りが速くなる。
駆け込むようにリビングの扉を開けると、一気に暖かな空気が漏れてきた。
彼は窓辺に置いた揺り椅子にもたれて、いつものようにぼんやりと窓の外を見ていた。
「荷物の整理、終わりました」
私の声に彼は振り向き、にこりと優しく笑う。
「お疲れ様です」
そして、すぐに窓の外の景色に戻ってしまった。
私はソファに腰を下ろして、夕陽に照らされた彼の横顔を見る。
数年共に暮らしてきた人間を見送る人とは思えないほど、彼の態度は淡白だ。
それもそのはず。彼にとって私は、とっくに恋人なんかではなかった。きっと今だって、どうして一緒に暮らしているんだろうと疑問に思っているのに違いない。
わかってはいるけれど、その現実を突きつけられると胸が苦しい。
もしも。
ズルくて甘ったれた言葉が、また私の頭をよぎる。
もしもここが重力のない世界だったら。
ばらばらに堕ちていく私たちは、原形をとどめることができたのだろうか。
【2】
五年前、大学三年生の冬。
私は暖房がよく効いた大学の図書館で、課題のための本を探していた。
テスト前ということもあり、館内はいつもより人気が多い。カリカリとノートに何かを書き込む音で溢れる空間。それまでの大学生活の中で、一番大学生をしている感覚がした。
日が暮れるにつれて、人は少しずつ減っていく。
私はペンを握っていた右手を止めて、あたりを見渡した。図書館内にいるのは、残り十人ちょいといったところか。
時刻は十七時を回っていた。今から駅に向かえば、おそらく帰宅ラッシュは避けられるだろう。
私は区切りのいいところまでノートにメモを取り、帰り支度を始めた。
図書館を出ると、涙が出るほど冷たい風が容赦なく肌を刺してくる。まだ五時だというのにすっかり辺りは薄暗くなっていた。
私は首に巻いていたマフラーを軽く引き上げた。今からもう自宅のこたつが待ち遠しい。とりあえず駅に向かわなくては。
小さく覚悟を決めて足を一歩踏み出した、その時。
雪、だ。
私はようやく自分に降り注ぐ雪の存在の気づいた。
まさかここで雪が降るなんて。去年も一昨年も雪とは無縁の地域なのに。
私はカバンを漁る。
折り畳み傘は常備するようにしているのだが、その時はたまたま傘を忘れてしまっていた。私はこういうとき、つくづく運が悪いのだ。
さて、どうしたものか。
幸いなことに、雪はよく目を凝らして見ないと気づかないほどに小降り。かといって、ここから強くならないという保証はどこにもない。
この大学はアクセスが最大の欠点で、最寄り駅まで徒歩で二十分はかかることで有名だ。通学路にコンビニなんてないし、途中で本降りになってしまったら、凍えるほかに選択肢はないだろう。
よりによってどうして今日、傘を持ってこなかったのだろう。
そんな事を考えながら空を見上げていると。
「よかったらこの傘使います?」
その声に、はっと後ろを振り返る。
一人の男性が、ちょっとぎこちない笑みを浮かべながら傘を差し出していた。
「あ、大丈夫です」
深く考える前に、自然と口がそう動いていた。
「でも傘持ってないんですよね?」
「はい。でも」
「ここから駅まで二十分はかかるのに。風邪ひいちゃいますよ。だから、ね?」
ちょっとだけ強引に彼は私の手に傘を握らせると、早足で雪の中に飛び出そうとする。その手にはもちろん傘はおろか、雪を防げそうなものは持っていなくて。
「あの、だったら一緒に入ります!」
またしても勢いだけで言葉を発していた。
彼が足を止めて、こちらを振り返る。
「一緒にこの傘に入って駅まで行きましょう」
そのときの私は、一体どんな顔をしていたのだろう。
彼はクスッと笑い、「そうですね。そうしましょうか」と頷いた。
数年ぶりの雪の日、そうやって私たちは出会った。
【3】
「雪、降りますかね?」
あの時の、彼の人間味が溢れる笑顔が懐かしい。
今となっては、あなたはそうやって話しかけた私を見ようともしないけれど。
「天気予報では夜から雨らしいですよ。ここら辺で雪なんて滅多に降らないですからね」
大好きな彼の声なのに、その回答に心臓が抉られる。
「五年前の雪が降った日のこと、覚えてます?」
どうせ傷つくと分かっているのに、僅かな希望を抱いてしまう自分が嫌いだ。
「すみません。ちょっと覚えていないですね」
あなたの目に、もう私は映っていない。
【4】
大学を卒業する少し前から同棲生活が始まっており、お互いが社会人になった段階で正式に生活を共にするようになる。
あの雪の日からちょうどニ年が経った日。
私たちは水族館に行く予定だった。
「チケット持ちました?」
胸のあたりまで伸びた髪をヘアアイロンで内側に巻きながら、私は鏡に映る彼に答える。
「カバンの中に入れました」
ようやく髪の形が整い、私はアイロンの電源を切った。
今日は何のアクレサリーをつけようと、ポーチの中を漁る。
「一回止まってください」
背後からそう彼に声をかけられ、言われたとおり動きを止める。
彼が近づいてくるのが見えた。
「はい、一回目を閉じて」
またまた言われた通りに目を閉じた。
彼の熱を感じる。普段あまり恋人らしいことをしていないので、急に縮まった距離に心臓が跳ねた。
「いいよ。目を開けてください」
目を開き、鏡に映る自分を見る。首元に、何かがついていた。
小さな雪の結晶が控えめに光る、ネックレスだ。
「似合うかなと思って。ほら、今日はあれからニ年じゃないですか」
今日が記念日なことはもちろんわかっていたし、意識だってしていた。でも、一体だれがデートに行く前にプレゼントを渡すなんて予想するのだろう。
彼は少しずれている。
「嬉しいです、ありがとうございます」
でも、そういうところが好きなのだ。
「ほら、いきますよ」
ちょっと照れくさそうに玄関に向かう彼を追った。
出会ったときの、「どちらが年上かわからない」現象が原因で私たちは交際から二年がたった今もお互いに敬語で話している。
他人から見ればよそよそしく見えるであろうこの距離感が、私にはたまらなく愛おしかった。
【5】
ニ年前の、記念日。
「海に行きたいんです」
そう彼が口にしたとき、私は自分の耳を疑った。
だって、今は十二月の半ばだ。冬に海に行くなんて聞いたことがない。
「行ったとしても、今の時期は泳げないですよ」
思わずそう言ってしまった私に、彼はケラケラと笑う。
「わかってますよ。好きなんです、冬の海が」
相変わらず変な思考の持ち主だ。
でも、そんな彼が好きだということもやっぱり変わらないことで。
「あと二十分待ってください」
私は軽く化粧をして、髪を耳の上あたりで括った。
真冬の海に行くというのだから、持っている中でも一番分厚いセーターに身を包む。
もちろん最後にはあのネックレスをつけて。
私が姿見から離れる頃には、彼はコートまで着た状態で玄関に立っていた。
「そのネックレス、気に入ってくれたんですね」
私の首元に光る雪の結晶を見て、彼は嬉しそうに笑った。
私は一年前にネックレスをもらった日から、毎日それを身につけていた。
恥ずかしくていつも服の下に隠していたから、彼には私が全くネックレスを付けていないように見えていたのだろう。
「まあ、はい」
そんなカミングアウトはできず、私はコートを着ながらそう頷くしかなかった。
【6】
「こんなに寒いと、海も凍ってしまいそうですよね」
今日で終わりだからか、なぜかわたしの口は動きを止めない。
彼がめんどくさそうに答える。
「海は凍らないと思いますよ。波があるじゃないですか」
今のあなたは、冬の海に私を誘ってくれはしない。
だんだんと日が沈み、私たちの姿を宵闇が包み始める。
たったそれだけの出来事なのに、恐怖を抱いた。
ただでさえ彼から見えなくなってしまっている私なのだ。これ以上姿を濁らせないで。
私は部屋の明かりを灯した。
彼の方を見る。
彼は、さっきから少しも変わらない無表情で窓の外を見ていた。
彼には何が見えているのだろう。その視線を追うように、私も窓の向こうに視線を移す。
私に見えたのは、窓ガラスにうっすらと映る室内の影だけだった。
【7】
何の前触れもなく、彼が立ち上がった。
椅子がその勢いで軽く揺れている。
「ちょっと行きたい場所があるんです。一緒に来てもらえませんか」
そう言って、彼は穏やかな表情を私に向けた。
私は知っている。その笑顔が、余所行きのものだということ。
「はい、わかりました」
それなのに、私はどうして誘われたことを嬉しいなんて思ってしまうんだろう。
「玄関で待ってますから。用意ができたら来てもらってもいいですか」
そう言い残して、彼は廊下に出ていく。
彼の遠ざかる足音を聞きながら、私はまた胸元のそれに触れていた。
準備なんて、特にすることがない。
私はすぐに玄関に向かった。
そこにかけてあったコートを羽織り、マフラーをつけた。
「おまたせしました」
彼はチラリと私を見ると、またすぐに視線を外した。
「じゃあ、行きますか」
カチャリとドアを開けて、彼は寒空の下に出ていく。
昔はどこか愛おしさすら感じていた敬語の響きが、今はひどく痛い。
【8】
去年の記念日。
私たちは家から三駅ほど離れたところの遊園地に行っていた。
クリスマスが過ぎたからか、遊園地の人の数は予想していたよりも少なかった。私たちは、まるで小学生のように全力でアトラクションを楽しむ。
やがて日が暮れて。
遊園地の定番、観覧車でその一日を締めくくった私たちは、遊園地を出てすぐのバス停に並んだ。
まだ時間が早いからか、ほかに人はいなかった。
ひんやりと冷えたベンチに腰を下ろす。
彼は無言だった。観覧車を降りたあたりから、ほとんど口を開いていない。
機嫌が悪いわけではないと思う。どちらかと言うと、緊張。
今日はあの雪の日からちょうど四年だ。
わずかに抱いてしまう期待に、彼の緊張した様子が拍車をかける。
もしかしたら、今日彼は……。
遠くから、ライトが近づいてきた。
私は胸元のネックレスに触れる。
【9】
彼は私の数歩先を、コートのポケットに手を突っ込みながら歩く。
昔だったらその腕を取って無理やり腕を組んだり、一緒にそのポケットに手を入れたりもしただろう。
何が、私たちの関係を壊してしまったのか。私たちから愛を奪ってしまったのか。
彼がどこに行こうとしているか、確信をもってここだと言い切る事はできない。でも、頭の中でちらちらとある場所が浮かんでいる。
それは、私たちの終わりに相応しい場所。
自分の予想が当たってしまうのが怖くて、私は足元に目線を落とす。彼の足跡に自分の靴裏を重ねるようにして歩いた。
やがて、彼が足を止める。
私は顔を上げた。
───ほら、やっぱり。ここだと思った。
そこは、交差点。
そばにある電柱の下には、小さな花束が置かれている。
「ここを通るたびに、胸が痛むんです」
彼の口からこぼれた言葉は、白い靄になってゆっくりと空気に消えていく。私はそれをぼんやりと見ているしかなかった。
「あなたが定期的にここに花を持ってきているということを、あそこの店主から聞きました」
彼はそう言って、道路の向かいの寂れた床屋を指さす。
余計な事を言ってくれちゃって、と私は店主の禿げた頭を思い出しながら心の中で悪態をついた。
感情を読み取れない彼の目が、私を見つめている。
「電柱の下に置かれた花。それが何を意味するのかは、十分に分かっています。それでもあなたが出ていく前に、どうしても聞いてみたいと思った」
久しぶりに、彼の心の奥に触れている気がした。
「馬鹿らしいと思うかもしれませんが、あなたの話を聞かなくてはいけないという使命感のようなものを感じています」
そんなまっすぐな目でそう言われてしまったら、私は逃げるわけにはいかなかった。
「あなたはどうして、ここに花を添えるのですか?」
彼から目をそらし、足元の花を見つめる。
「ちょうど一年前の今日、ここで事故がありました」
【10】
私たち以外に乗客がいないバスの一番後ろの座席に、ちょっと余裕を持たせながら並んで座る。
そのふかふかな座席に腰を下ろすと、一気に眠気に襲われた。どちらからともなくもたれかかる。
車内の温かな空気も相まって、ゆっくりと瞼が落ちていった、その時。
なんと表現したらいいかわからない音がした。
それがブレーキ音だと気づく頃には、車体が大きく横に動いていた。何かに引っ張られるように、私の体が地面の方の吸い寄せられる。
彼の腕が必死に私の方に伸びてくる。
ガジャンッ。
強烈な痛みと、鼓膜が破けそうなほどの破壊音が体に響いてきた。どっちが上でどっちが下なのかもわからないくらい、体中が痛い。
それからのことはよく覚えていない。まるでカメラロールのように、ところどころを断片的に記憶している。
頭から血を流し、私の上に覆い被さるように横たわる彼。
彼を運んでいく救急隊員。
救急車の中で横になり見た天井。
手術室の電灯。
そして、いくつも管に繋がれながらベッドで眠る彼。
【11】
その事故の詳細を知ったのは、翌日の朝刊だった。
どうやら私たちは、隣の車線を走っていた大型トラックに潰されたらしい。飲酒運転だという。
私が体中の擦り傷と複数の打撲で済んだのに対し、彼は重症だった。
彼は、目を覚さなかった。
事故から一日が経ち、二日が経ち、一週間が経ち。
私のもとに病院から「彼が目を覚ました」と連絡がきたのは、事故から三週間が経った日のことだった。
連絡を受けてすぐに病院に向かう。
ホームで電車を待っている間も、電車に揺られている間も、病院に入って面会者用の名簿を記入しているときも、私の心臓はうるさいくらいになっていた。
知らず知らずのうちに乱れた呼吸を整えながら、エレベーターで彼のいる階に上る。
白い廊下に、自分の足音が響いているような感じがした。
彼の病室の前に立ち、大きく息を吸ってゆっくり吐いた。
コンコンコンと扉を三回ノックをする。
「どうぞ」
その向こうから聞こえてきたのは、少しくもごった男性の声。彼の声だと、はっきりとわかった。
緊張からか喜びからか震えた指をそのくぼみにかけて、ゆっくり扉を引く。
目の前にあるベッドに、彼が上半身を起こした状態でこちらを見ていた。
その名前を呼ぼうと口を開けて、でも言葉が出てこない。
そんな私を見て、彼の口がわずかに開いた。
「えっと、病室、間違えてませんか」
そう言って、ちょっと困ったような笑顔を浮かべる彼。
事前に看護師さんからそういう可能性もあると聞いて、前々から覚悟はしていたつもりだった。
でも、彼が目覚めたという事実に喜ぶあまり、そのことを私はすっかり忘れてしまっていたのだろう。
突きつけられた現実が、私の胸を抉ってくる。
彼は私を覚えていなかった。
【12】
本当に心から彼のことを愛していたのなら、私は喜ばなくてはいけなかった。たとえ彼が私のことを忘れてしまっていても、生きていてくれただけでいいのだと。
所詮私は、事故中心的な人間でしかなかった。
恋人が自分のことを忘れたという事実は、私から生きる力を奪っていった。
同棲していた部屋を去る決意をしたのは、それからすぐのことだった。
彼が退院する前にすべての私の欠片を消す。もう二度と彼には会わない。
そんな私を引き留めてくれたのは、彼の両親だった。
ここ数年の記憶が曖昧になっている彼があなたを思い出す可能性はゼロではない。あなたと彼が同居している理由は、遠い親戚とでも言って誤魔化しておく。だから、どうかそんな簡単に諦めないでほしい。
あの帰り道にきっと彼が私に渡すつもりだっったであろう指輪を渡して、二人は私に涙ながらにそう言った。
一年間の賭けだった。
一年、彼と今までのように共に暮らして、私のことを思い出してもらう。
もし思い出してもらえなかったら、その時は全てを捨てて彼のもとと去る。
この一年間、私は精一杯努力してきたつもりだった。
彼の少し緊張した目に見つめられるときも、よそよそしい態度で接せられるときも、私の心はいつだって悲鳴を上げる。
いつも身につけていたネックレスと、それに通した指輪だけが私の希望だった。
今日で、あの事故からちょうど一年が経った。
長くて苦しい三百六十五日。
結果、彼は私を思い出さなかった。
彼にとって私は今も、よくわからない同居人でしかない。
【13】
「その事故で、私の恋人はなくなってしまいました」
「亡くなって」はいない。でも、消えてしまったのは事実だ。
近くの埋め込みに近づき、そこに足を下ろす。サクッと霜柱の割れる音がした。
「私が定期的にここに花を持ってくる理由は、そういうことです。五年前、雪をきっかけに出会った私たちは、まるで雪解けみたいにあっさりと壊れた」
私が言ったのはそれだけ。あなたが私の恋人なのだとは口にしなかった。
彼はそっとそこにしゃがんで、その場で手を合わせる。
その姿を見た途端に、自分の中で何かが壊れた。急に目頭が熱くなって、視界が滲む。
それはきっと、彼の善意から起こった行動だ。でも、私にとっては残酷な光景でしかなかった。
あの頃の彼にはもう会えない。お前は賭けに負けたのだと、その背中が言っている。
「もしも重力がない世界だったら」
そんな言葉が、唇から溢れていた。
彼が顔を上げて、私を見上げる。
「もしも重力がない世界だったら。あの人が鉄の塊に潰されることもなかったのに」
私たちはずっと、その幸せな形を保っていることができたのに。
たらればは嫌いだ。
でも、「彼」に手を合わせる彼を見て、「もしも」を思わずにはいられなかった。
【14】
彼が立ち上がる。
「重力のない世界に行けたなら」
彼の目が私を捉える。
「たしかに、あなたの最愛の人は重力のない世界だったら亡くならなかったかもしれません」
やっぱりあなたは変な人。そんな馬鹿みたいな仮定を笑わない。
彼が空を見上げる。私もつられるように頭を上げた。
「でもきっと、その世界に雪は降らないですよ」
何かが空から落ちてくる。
ひんやりとした何かが頬についた。
雪だ。
あの日から、五年ぶりの雪。
「僕にあなたの恋人の気持ちはわかりません。でもきっと、そうやって世界を恨むあなたのことを、その人は喜ばないと思います」
そう言って、穏やかな笑みを私に向ける彼。
「はい」
私は、ネックレスに通してある指輪に触れる。
彼はもう、あの頃の彼とは違う。
それでもやっぱり、彼は優しい彼のままだ。ちょっと普通とはずれていて、でもそんな変わっているところがたまらなく愛おしい。
私はそんな彼のことが、やっぱりどうしようもなく大好きだった。
【15】
気持ちのいい朝だった。
彼がいつも座っていた椅子に近寄る。
そっとその背もたれを撫でると、冷えた木の感触が、なんだか少し温かく感じられた。
腰を下ろして、いつも彼がやっていたように、そこから窓の外を見る。
花も葉もない少し寂しい庭に、真っ白な雪が降り積もっていた。
胸元の指輪をそっと撫でる。
ピピピピピッ。
奥の部屋から、電子音が聞こえてくる。彼の部屋の目覚まし時計の音だ。
壁に立てかけてある時計を見ると、針は七時を指していた。
私は立ち上がって、玄関に向かった。
コートを羽織り、予めそこに準備してあったキャリーケースを手に取る。
カチャリと扉の開く音がする。彼が自室から出てきたのだ。
私は鍵を開けて、ドアを押した。冷たい朝の風が頬を撫でる。
【16】
人通りが少ない早朝の街並みに、カラカラとキャリーケースを引きづる音が響いている。
私はあの交差点を訪れた。
あれから、今日で一年と一日だ。
電柱の前にしゃがみ、そこに積もった雪をそっと撫でる。ひんやりとしたその感触が、指先に伝わってきた。
久しぶり。
心の中で、そう彼に声をかける。
私は今日遠くに引っ越します。もう簡単に戻ってくれないくらい、ここからかなり離れた場所に。
連絡が遅くなってごめんなさい。
もう、と少し不貞腐れた顔で私を見つめる彼の姿が目に浮かぶようだった。
私はネックレスを外す。
昨日、雪が降りました。あの日から五年ぶりの雪なんだって。
あなたは私たちが初めて会った日のこと覚えていますか?
昨日の雪を見て、ぴったりだなって思ったんです。
雪で始まった私たちを終わらせるのに、これ以上ないくらい素敵な演出だった。
きっとあなたの仕業でしょ? あなたから私への、最後の贈り物。
残念ながらあなたの声はもう私には届きません。だから、都合よく解釈させてもらいますね。
右手に握ったネックレスは、その鎖も、それに通っている雪の結晶も指輪も、朝日を受けてきらきらと輝いていた。
私ね、口にしたら全てが終わってしまう気がして、怖くてどうしても言えなかった言葉があるんです。
それを、最後に伝えにきたの。
私からあなたへ。
「ありがとう」
感謝と。
「大好き」
愛と、そして。
「さようなら」
旅立ちの言葉を。
ネックレスを、雪の上に置いた。
最後にもう一度だけ雪に触れ、私はゆっくりと立ち上がる。
キャリーケースの取っ手を握り、駅に向かって歩き出す。
サクッと、軽やかで心地の良い雪の音がした。
ここが重力のない世界だったなら。
馬鹿みたいな仮定だ。そんなことはわかっている。
でも人間誰しも、愚かだと分かっていながらもそれにしがみつくしかないときがある。
キャリーケースのチャックを閉めて、私は立ち上がった。
もうベッドと机しかないガランとした部屋を見渡す。今朝までここで人が生活していたとは思えないくらい、無機質な部屋になった。
私は明日の朝、この家を出ていく。恋人と三年という月日を共に過ごしてきたこの家を。
キャリーケースを部屋の端に寄せて、リビングへ向かった。
暖房なんて設置されていない廊下の床は、靴下を履いているのにまるで氷のように冷たい。自然と足取りが速くなる。
駆け込むようにリビングの扉を開けると、一気に暖かな空気が漏れてきた。
彼は窓辺に置いた揺り椅子にもたれて、いつものようにぼんやりと窓の外を見ていた。
「荷物の整理、終わりました」
私の声に彼は振り向き、にこりと優しく笑う。
「お疲れ様です」
そして、すぐに窓の外の景色に戻ってしまった。
私はソファに腰を下ろして、夕陽に照らされた彼の横顔を見る。
数年共に暮らしてきた人間を見送る人とは思えないほど、彼の態度は淡白だ。
それもそのはず。彼にとって私は、とっくに恋人なんかではなかった。きっと今だって、どうして一緒に暮らしているんだろうと疑問に思っているのに違いない。
わかってはいるけれど、その現実を突きつけられると胸が苦しい。
もしも。
ズルくて甘ったれた言葉が、また私の頭をよぎる。
もしもここが重力のない世界だったら。
ばらばらに堕ちていく私たちは、原形をとどめることができたのだろうか。
【2】
五年前、大学三年生の冬。
私は暖房がよく効いた大学の図書館で、課題のための本を探していた。
テスト前ということもあり、館内はいつもより人気が多い。カリカリとノートに何かを書き込む音で溢れる空間。それまでの大学生活の中で、一番大学生をしている感覚がした。
日が暮れるにつれて、人は少しずつ減っていく。
私はペンを握っていた右手を止めて、あたりを見渡した。図書館内にいるのは、残り十人ちょいといったところか。
時刻は十七時を回っていた。今から駅に向かえば、おそらく帰宅ラッシュは避けられるだろう。
私は区切りのいいところまでノートにメモを取り、帰り支度を始めた。
図書館を出ると、涙が出るほど冷たい風が容赦なく肌を刺してくる。まだ五時だというのにすっかり辺りは薄暗くなっていた。
私は首に巻いていたマフラーを軽く引き上げた。今からもう自宅のこたつが待ち遠しい。とりあえず駅に向かわなくては。
小さく覚悟を決めて足を一歩踏み出した、その時。
雪、だ。
私はようやく自分に降り注ぐ雪の存在の気づいた。
まさかここで雪が降るなんて。去年も一昨年も雪とは無縁の地域なのに。
私はカバンを漁る。
折り畳み傘は常備するようにしているのだが、その時はたまたま傘を忘れてしまっていた。私はこういうとき、つくづく運が悪いのだ。
さて、どうしたものか。
幸いなことに、雪はよく目を凝らして見ないと気づかないほどに小降り。かといって、ここから強くならないという保証はどこにもない。
この大学はアクセスが最大の欠点で、最寄り駅まで徒歩で二十分はかかることで有名だ。通学路にコンビニなんてないし、途中で本降りになってしまったら、凍えるほかに選択肢はないだろう。
よりによってどうして今日、傘を持ってこなかったのだろう。
そんな事を考えながら空を見上げていると。
「よかったらこの傘使います?」
その声に、はっと後ろを振り返る。
一人の男性が、ちょっとぎこちない笑みを浮かべながら傘を差し出していた。
「あ、大丈夫です」
深く考える前に、自然と口がそう動いていた。
「でも傘持ってないんですよね?」
「はい。でも」
「ここから駅まで二十分はかかるのに。風邪ひいちゃいますよ。だから、ね?」
ちょっとだけ強引に彼は私の手に傘を握らせると、早足で雪の中に飛び出そうとする。その手にはもちろん傘はおろか、雪を防げそうなものは持っていなくて。
「あの、だったら一緒に入ります!」
またしても勢いだけで言葉を発していた。
彼が足を止めて、こちらを振り返る。
「一緒にこの傘に入って駅まで行きましょう」
そのときの私は、一体どんな顔をしていたのだろう。
彼はクスッと笑い、「そうですね。そうしましょうか」と頷いた。
数年ぶりの雪の日、そうやって私たちは出会った。
【3】
「雪、降りますかね?」
あの時の、彼の人間味が溢れる笑顔が懐かしい。
今となっては、あなたはそうやって話しかけた私を見ようともしないけれど。
「天気予報では夜から雨らしいですよ。ここら辺で雪なんて滅多に降らないですからね」
大好きな彼の声なのに、その回答に心臓が抉られる。
「五年前の雪が降った日のこと、覚えてます?」
どうせ傷つくと分かっているのに、僅かな希望を抱いてしまう自分が嫌いだ。
「すみません。ちょっと覚えていないですね」
あなたの目に、もう私は映っていない。
【4】
大学を卒業する少し前から同棲生活が始まっており、お互いが社会人になった段階で正式に生活を共にするようになる。
あの雪の日からちょうどニ年が経った日。
私たちは水族館に行く予定だった。
「チケット持ちました?」
胸のあたりまで伸びた髪をヘアアイロンで内側に巻きながら、私は鏡に映る彼に答える。
「カバンの中に入れました」
ようやく髪の形が整い、私はアイロンの電源を切った。
今日は何のアクレサリーをつけようと、ポーチの中を漁る。
「一回止まってください」
背後からそう彼に声をかけられ、言われたとおり動きを止める。
彼が近づいてくるのが見えた。
「はい、一回目を閉じて」
またまた言われた通りに目を閉じた。
彼の熱を感じる。普段あまり恋人らしいことをしていないので、急に縮まった距離に心臓が跳ねた。
「いいよ。目を開けてください」
目を開き、鏡に映る自分を見る。首元に、何かがついていた。
小さな雪の結晶が控えめに光る、ネックレスだ。
「似合うかなと思って。ほら、今日はあれからニ年じゃないですか」
今日が記念日なことはもちろんわかっていたし、意識だってしていた。でも、一体だれがデートに行く前にプレゼントを渡すなんて予想するのだろう。
彼は少しずれている。
「嬉しいです、ありがとうございます」
でも、そういうところが好きなのだ。
「ほら、いきますよ」
ちょっと照れくさそうに玄関に向かう彼を追った。
出会ったときの、「どちらが年上かわからない」現象が原因で私たちは交際から二年がたった今もお互いに敬語で話している。
他人から見ればよそよそしく見えるであろうこの距離感が、私にはたまらなく愛おしかった。
【5】
ニ年前の、記念日。
「海に行きたいんです」
そう彼が口にしたとき、私は自分の耳を疑った。
だって、今は十二月の半ばだ。冬に海に行くなんて聞いたことがない。
「行ったとしても、今の時期は泳げないですよ」
思わずそう言ってしまった私に、彼はケラケラと笑う。
「わかってますよ。好きなんです、冬の海が」
相変わらず変な思考の持ち主だ。
でも、そんな彼が好きだということもやっぱり変わらないことで。
「あと二十分待ってください」
私は軽く化粧をして、髪を耳の上あたりで括った。
真冬の海に行くというのだから、持っている中でも一番分厚いセーターに身を包む。
もちろん最後にはあのネックレスをつけて。
私が姿見から離れる頃には、彼はコートまで着た状態で玄関に立っていた。
「そのネックレス、気に入ってくれたんですね」
私の首元に光る雪の結晶を見て、彼は嬉しそうに笑った。
私は一年前にネックレスをもらった日から、毎日それを身につけていた。
恥ずかしくていつも服の下に隠していたから、彼には私が全くネックレスを付けていないように見えていたのだろう。
「まあ、はい」
そんなカミングアウトはできず、私はコートを着ながらそう頷くしかなかった。
【6】
「こんなに寒いと、海も凍ってしまいそうですよね」
今日で終わりだからか、なぜかわたしの口は動きを止めない。
彼がめんどくさそうに答える。
「海は凍らないと思いますよ。波があるじゃないですか」
今のあなたは、冬の海に私を誘ってくれはしない。
だんだんと日が沈み、私たちの姿を宵闇が包み始める。
たったそれだけの出来事なのに、恐怖を抱いた。
ただでさえ彼から見えなくなってしまっている私なのだ。これ以上姿を濁らせないで。
私は部屋の明かりを灯した。
彼の方を見る。
彼は、さっきから少しも変わらない無表情で窓の外を見ていた。
彼には何が見えているのだろう。その視線を追うように、私も窓の向こうに視線を移す。
私に見えたのは、窓ガラスにうっすらと映る室内の影だけだった。
【7】
何の前触れもなく、彼が立ち上がった。
椅子がその勢いで軽く揺れている。
「ちょっと行きたい場所があるんです。一緒に来てもらえませんか」
そう言って、彼は穏やかな表情を私に向けた。
私は知っている。その笑顔が、余所行きのものだということ。
「はい、わかりました」
それなのに、私はどうして誘われたことを嬉しいなんて思ってしまうんだろう。
「玄関で待ってますから。用意ができたら来てもらってもいいですか」
そう言い残して、彼は廊下に出ていく。
彼の遠ざかる足音を聞きながら、私はまた胸元のそれに触れていた。
準備なんて、特にすることがない。
私はすぐに玄関に向かった。
そこにかけてあったコートを羽織り、マフラーをつけた。
「おまたせしました」
彼はチラリと私を見ると、またすぐに視線を外した。
「じゃあ、行きますか」
カチャリとドアを開けて、彼は寒空の下に出ていく。
昔はどこか愛おしさすら感じていた敬語の響きが、今はひどく痛い。
【8】
去年の記念日。
私たちは家から三駅ほど離れたところの遊園地に行っていた。
クリスマスが過ぎたからか、遊園地の人の数は予想していたよりも少なかった。私たちは、まるで小学生のように全力でアトラクションを楽しむ。
やがて日が暮れて。
遊園地の定番、観覧車でその一日を締めくくった私たちは、遊園地を出てすぐのバス停に並んだ。
まだ時間が早いからか、ほかに人はいなかった。
ひんやりと冷えたベンチに腰を下ろす。
彼は無言だった。観覧車を降りたあたりから、ほとんど口を開いていない。
機嫌が悪いわけではないと思う。どちらかと言うと、緊張。
今日はあの雪の日からちょうど四年だ。
わずかに抱いてしまう期待に、彼の緊張した様子が拍車をかける。
もしかしたら、今日彼は……。
遠くから、ライトが近づいてきた。
私は胸元のネックレスに触れる。
【9】
彼は私の数歩先を、コートのポケットに手を突っ込みながら歩く。
昔だったらその腕を取って無理やり腕を組んだり、一緒にそのポケットに手を入れたりもしただろう。
何が、私たちの関係を壊してしまったのか。私たちから愛を奪ってしまったのか。
彼がどこに行こうとしているか、確信をもってここだと言い切る事はできない。でも、頭の中でちらちらとある場所が浮かんでいる。
それは、私たちの終わりに相応しい場所。
自分の予想が当たってしまうのが怖くて、私は足元に目線を落とす。彼の足跡に自分の靴裏を重ねるようにして歩いた。
やがて、彼が足を止める。
私は顔を上げた。
───ほら、やっぱり。ここだと思った。
そこは、交差点。
そばにある電柱の下には、小さな花束が置かれている。
「ここを通るたびに、胸が痛むんです」
彼の口からこぼれた言葉は、白い靄になってゆっくりと空気に消えていく。私はそれをぼんやりと見ているしかなかった。
「あなたが定期的にここに花を持ってきているということを、あそこの店主から聞きました」
彼はそう言って、道路の向かいの寂れた床屋を指さす。
余計な事を言ってくれちゃって、と私は店主の禿げた頭を思い出しながら心の中で悪態をついた。
感情を読み取れない彼の目が、私を見つめている。
「電柱の下に置かれた花。それが何を意味するのかは、十分に分かっています。それでもあなたが出ていく前に、どうしても聞いてみたいと思った」
久しぶりに、彼の心の奥に触れている気がした。
「馬鹿らしいと思うかもしれませんが、あなたの話を聞かなくてはいけないという使命感のようなものを感じています」
そんなまっすぐな目でそう言われてしまったら、私は逃げるわけにはいかなかった。
「あなたはどうして、ここに花を添えるのですか?」
彼から目をそらし、足元の花を見つめる。
「ちょうど一年前の今日、ここで事故がありました」
【10】
私たち以外に乗客がいないバスの一番後ろの座席に、ちょっと余裕を持たせながら並んで座る。
そのふかふかな座席に腰を下ろすと、一気に眠気に襲われた。どちらからともなくもたれかかる。
車内の温かな空気も相まって、ゆっくりと瞼が落ちていった、その時。
なんと表現したらいいかわからない音がした。
それがブレーキ音だと気づく頃には、車体が大きく横に動いていた。何かに引っ張られるように、私の体が地面の方の吸い寄せられる。
彼の腕が必死に私の方に伸びてくる。
ガジャンッ。
強烈な痛みと、鼓膜が破けそうなほどの破壊音が体に響いてきた。どっちが上でどっちが下なのかもわからないくらい、体中が痛い。
それからのことはよく覚えていない。まるでカメラロールのように、ところどころを断片的に記憶している。
頭から血を流し、私の上に覆い被さるように横たわる彼。
彼を運んでいく救急隊員。
救急車の中で横になり見た天井。
手術室の電灯。
そして、いくつも管に繋がれながらベッドで眠る彼。
【11】
その事故の詳細を知ったのは、翌日の朝刊だった。
どうやら私たちは、隣の車線を走っていた大型トラックに潰されたらしい。飲酒運転だという。
私が体中の擦り傷と複数の打撲で済んだのに対し、彼は重症だった。
彼は、目を覚さなかった。
事故から一日が経ち、二日が経ち、一週間が経ち。
私のもとに病院から「彼が目を覚ました」と連絡がきたのは、事故から三週間が経った日のことだった。
連絡を受けてすぐに病院に向かう。
ホームで電車を待っている間も、電車に揺られている間も、病院に入って面会者用の名簿を記入しているときも、私の心臓はうるさいくらいになっていた。
知らず知らずのうちに乱れた呼吸を整えながら、エレベーターで彼のいる階に上る。
白い廊下に、自分の足音が響いているような感じがした。
彼の病室の前に立ち、大きく息を吸ってゆっくり吐いた。
コンコンコンと扉を三回ノックをする。
「どうぞ」
その向こうから聞こえてきたのは、少しくもごった男性の声。彼の声だと、はっきりとわかった。
緊張からか喜びからか震えた指をそのくぼみにかけて、ゆっくり扉を引く。
目の前にあるベッドに、彼が上半身を起こした状態でこちらを見ていた。
その名前を呼ぼうと口を開けて、でも言葉が出てこない。
そんな私を見て、彼の口がわずかに開いた。
「えっと、病室、間違えてませんか」
そう言って、ちょっと困ったような笑顔を浮かべる彼。
事前に看護師さんからそういう可能性もあると聞いて、前々から覚悟はしていたつもりだった。
でも、彼が目覚めたという事実に喜ぶあまり、そのことを私はすっかり忘れてしまっていたのだろう。
突きつけられた現実が、私の胸を抉ってくる。
彼は私を覚えていなかった。
【12】
本当に心から彼のことを愛していたのなら、私は喜ばなくてはいけなかった。たとえ彼が私のことを忘れてしまっていても、生きていてくれただけでいいのだと。
所詮私は、事故中心的な人間でしかなかった。
恋人が自分のことを忘れたという事実は、私から生きる力を奪っていった。
同棲していた部屋を去る決意をしたのは、それからすぐのことだった。
彼が退院する前にすべての私の欠片を消す。もう二度と彼には会わない。
そんな私を引き留めてくれたのは、彼の両親だった。
ここ数年の記憶が曖昧になっている彼があなたを思い出す可能性はゼロではない。あなたと彼が同居している理由は、遠い親戚とでも言って誤魔化しておく。だから、どうかそんな簡単に諦めないでほしい。
あの帰り道にきっと彼が私に渡すつもりだっったであろう指輪を渡して、二人は私に涙ながらにそう言った。
一年間の賭けだった。
一年、彼と今までのように共に暮らして、私のことを思い出してもらう。
もし思い出してもらえなかったら、その時は全てを捨てて彼のもとと去る。
この一年間、私は精一杯努力してきたつもりだった。
彼の少し緊張した目に見つめられるときも、よそよそしい態度で接せられるときも、私の心はいつだって悲鳴を上げる。
いつも身につけていたネックレスと、それに通した指輪だけが私の希望だった。
今日で、あの事故からちょうど一年が経った。
長くて苦しい三百六十五日。
結果、彼は私を思い出さなかった。
彼にとって私は今も、よくわからない同居人でしかない。
【13】
「その事故で、私の恋人はなくなってしまいました」
「亡くなって」はいない。でも、消えてしまったのは事実だ。
近くの埋め込みに近づき、そこに足を下ろす。サクッと霜柱の割れる音がした。
「私が定期的にここに花を持ってくる理由は、そういうことです。五年前、雪をきっかけに出会った私たちは、まるで雪解けみたいにあっさりと壊れた」
私が言ったのはそれだけ。あなたが私の恋人なのだとは口にしなかった。
彼はそっとそこにしゃがんで、その場で手を合わせる。
その姿を見た途端に、自分の中で何かが壊れた。急に目頭が熱くなって、視界が滲む。
それはきっと、彼の善意から起こった行動だ。でも、私にとっては残酷な光景でしかなかった。
あの頃の彼にはもう会えない。お前は賭けに負けたのだと、その背中が言っている。
「もしも重力がない世界だったら」
そんな言葉が、唇から溢れていた。
彼が顔を上げて、私を見上げる。
「もしも重力がない世界だったら。あの人が鉄の塊に潰されることもなかったのに」
私たちはずっと、その幸せな形を保っていることができたのに。
たらればは嫌いだ。
でも、「彼」に手を合わせる彼を見て、「もしも」を思わずにはいられなかった。
【14】
彼が立ち上がる。
「重力のない世界に行けたなら」
彼の目が私を捉える。
「たしかに、あなたの最愛の人は重力のない世界だったら亡くならなかったかもしれません」
やっぱりあなたは変な人。そんな馬鹿みたいな仮定を笑わない。
彼が空を見上げる。私もつられるように頭を上げた。
「でもきっと、その世界に雪は降らないですよ」
何かが空から落ちてくる。
ひんやりとした何かが頬についた。
雪だ。
あの日から、五年ぶりの雪。
「僕にあなたの恋人の気持ちはわかりません。でもきっと、そうやって世界を恨むあなたのことを、その人は喜ばないと思います」
そう言って、穏やかな笑みを私に向ける彼。
「はい」
私は、ネックレスに通してある指輪に触れる。
彼はもう、あの頃の彼とは違う。
それでもやっぱり、彼は優しい彼のままだ。ちょっと普通とはずれていて、でもそんな変わっているところがたまらなく愛おしい。
私はそんな彼のことが、やっぱりどうしようもなく大好きだった。
【15】
気持ちのいい朝だった。
彼がいつも座っていた椅子に近寄る。
そっとその背もたれを撫でると、冷えた木の感触が、なんだか少し温かく感じられた。
腰を下ろして、いつも彼がやっていたように、そこから窓の外を見る。
花も葉もない少し寂しい庭に、真っ白な雪が降り積もっていた。
胸元の指輪をそっと撫でる。
ピピピピピッ。
奥の部屋から、電子音が聞こえてくる。彼の部屋の目覚まし時計の音だ。
壁に立てかけてある時計を見ると、針は七時を指していた。
私は立ち上がって、玄関に向かった。
コートを羽織り、予めそこに準備してあったキャリーケースを手に取る。
カチャリと扉の開く音がする。彼が自室から出てきたのだ。
私は鍵を開けて、ドアを押した。冷たい朝の風が頬を撫でる。
【16】
人通りが少ない早朝の街並みに、カラカラとキャリーケースを引きづる音が響いている。
私はあの交差点を訪れた。
あれから、今日で一年と一日だ。
電柱の前にしゃがみ、そこに積もった雪をそっと撫でる。ひんやりとしたその感触が、指先に伝わってきた。
久しぶり。
心の中で、そう彼に声をかける。
私は今日遠くに引っ越します。もう簡単に戻ってくれないくらい、ここからかなり離れた場所に。
連絡が遅くなってごめんなさい。
もう、と少し不貞腐れた顔で私を見つめる彼の姿が目に浮かぶようだった。
私はネックレスを外す。
昨日、雪が降りました。あの日から五年ぶりの雪なんだって。
あなたは私たちが初めて会った日のこと覚えていますか?
昨日の雪を見て、ぴったりだなって思ったんです。
雪で始まった私たちを終わらせるのに、これ以上ないくらい素敵な演出だった。
きっとあなたの仕業でしょ? あなたから私への、最後の贈り物。
残念ながらあなたの声はもう私には届きません。だから、都合よく解釈させてもらいますね。
右手に握ったネックレスは、その鎖も、それに通っている雪の結晶も指輪も、朝日を受けてきらきらと輝いていた。
私ね、口にしたら全てが終わってしまう気がして、怖くてどうしても言えなかった言葉があるんです。
それを、最後に伝えにきたの。
私からあなたへ。
「ありがとう」
感謝と。
「大好き」
愛と、そして。
「さようなら」
旅立ちの言葉を。
ネックレスを、雪の上に置いた。
最後にもう一度だけ雪に触れ、私はゆっくりと立ち上がる。
キャリーケースの取っ手を握り、駅に向かって歩き出す。
サクッと、軽やかで心地の良い雪の音がした。