翌日から、空いた時間にメニュー表を作り始めた。お店の前に出す看板もできたらいいなって思って、チョークと黒板も用意する。おすすめのメニューなんかを毎日書けたらいいなと思って。

 私のバイトが終わるまであと数日。夏休み中に完成できるように頑張らなきゃいけない。

 夏休みも残すところあと数日になった日、私のスマホに奈々子から連絡が来た。画面を開くと、明日一緒に遊ぼう! といった内容のメッセージが映し出される。行きたい気持ちもあるけど、お店にいたい気持ちの方が強い。

「どうした望、誰から?」

 浮かない顔の私を見て、小麦君が声をかけてくれる。

「明日友達が一緒に遊ぼうって誘ってくれてるんだけど、お店のお手伝いもあるし、看板も描きたいから断ろうかなって思って」
「そこは行っとけよ、看板なら俺ができるところまでやっとくし」
「でも」
「夏休み中ずっとここで手伝ってくれてたじゃん、一日くらい遊んで来いよ。遊んだ後ここに来てもいいし」
「いいの?」
「いいよねマスター」

 「もちろん、来てくれたら嬉しいよ」と快く応えてくれるマスターと小麦君の厚意に甘えて、明日は奈々子と会う約束をした。

 奈々子もバイトやデートで忙しくしていたので、会うのは一学期ぶりだ。

 翌朝、いつもより遅めに家を出ようとするとお姉ちゃんもちょうど出かけるところだった。慌ててリビングに戻ろうとして、足を止める。逃げない、逃げるのは、行動した後にしよう。

 私はそのまま玄関に向かった。

「おはようお姉ちゃん」
「遊びに行くの?」
「奈々子と約束してるから」
「高校生は気楽でいいね。私は塾で忙しいから遊んでる時間なんかないわ」

 なんでだろう、いつもはここでなんていったらいいのかわからなくて悲しくなるのに、今日の私は大丈夫だ。

「そっか、塾頑張ってね」

 私はそういってお姉ちゃんよりも早く家を出ようとする。その手をぐっと掴まれた。

「あんたばっかりどうして楽しそうなの。受験だって、私の方が出来がいいのに、受かるはずだったのに! あんただけ合格して得意な顔しないで、私のこと馬鹿にして腹が立つ、望のくせに生意気!」

 こんなに焦ったなお姉ちゃんの顔を、初めて見た。同時にお姉ちゃんの気持ちが理解できたような気がする。お姉ちゃんは悔しい気持ちを認めたくなくて我慢していたのだろう。

「してないよ、私。お姉ちゃんのこと尊敬してたよ。だから負けないでよ。一回失敗したくらいで負けないで。私はお姉ちゃんを目標にして高校を目指したんだよ。悔しいからって他人を馬鹿にするような恥ずかしいことしないで」

 いった。とうとう言葉にした。私は振り返らずに玄関から出る。お姉ちゃんが家から出てくる気配はなかった。大丈夫かなって思ったけど振り返らない。
 後悔しない。自分の気持ちを大切にしようって決めたから。

「望久しぶり~、あ、なんか可愛くなったんじゃない? さては恋に目覚めたな」

 開口一番、奈々子がいった言葉に私は少し動揺した。

「目覚めてない目覚めてない」
「そうかなぁ。生き生きしてる感じしたのに」
「それは間違ってないかも」
「なになに気になる、教えてよ! ついでに私の話も聞いてよ~彼氏と別れちゃったからさ」

 カフェに入って話すことになった。久しぶりに会った奈々子は少し大人びたようにも見える。

「なるほど、それは恋だよ。っていうか、その男の子、完全に脈ありじゃん」

 パフェのクリームを崩しながら、奈々子はそんなことをいった。陽だまり亭や小麦君の話を聞いた奈々子の感想なんだけど、思わず顔が熱くなる。

「ないない、小麦君お客さんにもめっちゃ優しいし」
「でも好きでもないのにお祭りに誘ったりしないよ。っていうかそのお祭りめっちゃ素敵じゃん。そんなのがあるなんて知らなかった。花火にも気が付かなかったし」

 私の話はそれで終わり。あとは奈々子がどうして彼と別れちゃったのかの話に花が咲いた。

「また学校でね!」
「うん、またね」

 奈々子と話した私は陽だまり亭に向かう道すがら自分に投げかける。もしかして、私は小麦君のことが好きなんじゃないだろうか。

 わからない。誰かを好きになったことなんか一度もないんだから。そうか、私も元カレのことなど好きではなかったのだ。だから振られたのだろう。

 だけど、小麦君のことを考えると、心が温かくなるのは間違いない。

「にゃぁ」

 森に入ると子猫がすり寄ってきた。初めて見る子だけど、人間に慣れているのかもしれない、迷子かな。

 ひょいと抱き上げて首元を見てたら首輪がついている。よかった、飼い主がいるのだ。私は安堵して、猫を連れて森を出た。飼い主を探すつもりだ。

 小麦色の毛色。小学生のころ、似たような猫を見つけたことがある。可愛い子猫だった。

 通学路になっている歩道橋の下に小さな段ボールが置かれていたのだ。中に小さな小麦色の子猫がいた。寒さに震えていたのでマフラーで包んで連れて帰った。

 飼いたかった。このまま外にいたら死んでしまうと、幼い私にもわかったから。だけど、私の家族は動物嫌いで、家で飼うことは許されなかった。周りを当たっても引き取り手が見つからなくて、仕方なく家の外で飼える場所を探したのだ。やっと見つけた場所も寒いことに変わりはなかった。雨や風くらいはしのげるだろう。

 木の根の間に開いた穴の中にマフラーを敷き詰めた段ボールを入れた。水と食料を定期的に届けるようにしていたけれど、子猫は冬を越せなかった。

 今でも、あの子猫のことを思い出すと涙が出そうになる。

「きなこ!」

 交番に届け出たら良いのかなと住宅街を歩いていると小学生くらいの女の子が駆けてきた。どうやらこの子の飼い主らしい。

「連れてきてくれたの?」
「向こうの森の中で迷子になっていたよ」
「窓を開けたら飛び出しちゃって。ありがとうお姉ちゃん!」

 私は女の子に子猫を手渡した。よかった。

 辺りはすっかり暗くなっている。空にはほっそりとした月が浮かんでいる。もうお店に行ける時間ではない。私は家に戻ることにした。

 お姉ちゃんが怒っているかもしれない。そう思うと再び足取りは重くなる。

「大丈夫、私には逃げる場所がある」

 おまじないのようにつぶやくと、すっと心が軽くなった。深呼吸をして家に向かう。二階を見上げてから、私は玄関の扉を開けた。

「ただいま」
「お帰り」

 リビングから声が返ってきた。お母さんの声だ。少し鼓動が早くなる。

「お帰り望、奈々子ちゃん元気だった?」
「うん、元気だった」
「良かった、楽しかったみたいね」

 行きがけにお姉ちゃんと喧嘩をしたことを思い出した。楽しかったって、答えてもいいかな。

 なんとなく、鞄の中から温かさが伝わってくるような気がした。お守りだ。いいよっていってくれているのかもしれない。

「うん、楽しかったよ」
「そう、良かった」

 お母さんがほほ笑んだ。それから、少し困ったような顔をして私を見る。

「望、高校合格のお祝いしようね」
「え」
「お父さん、日曜日に出張先から一旦帰ってくるっていてるから、その時にお祝いしよう」
「でも、お姉ちゃんが」

 お姉ちゃんは嫌がる。絶対に。お母さん、どうしちゃったんだろう。

「お姉ちゃんもいい息抜きになるっていってるから」
「嘘、そんなこというわけないよ。お姉ちゃん、私だけが合格して怒ってるから」

 突然そんなことをいわれても困ってしまう。今まであんなに我慢しろっていわれてきたのに、どうしたんだろう。急にお祝いしようなんて、嬉しいって思う前に怖くなってしまう。

「あ、あの、私、ちょっと散歩してくる」
「望!」

 思わず逃げ出すように家を出てしまった。

 外の空気はまだ熱を持っている。空で浮かび始めた細い月を頼りに、私は森の方へ走った。
 社まで走ると立ち止まって息を整えた。しゃがみこむ私の足元に、ムーンがすり寄ってきてくれる。

「こんばんはムーン、こんな時間にごめんね」

 ムーンは私をじっと見つめてくる。思わず、ポロリと涙がこぼれた。

「私、わからないんだよ。どうしたらいいのかわからない。朝にお姉ちゃんと喧嘩したの、仲直りできてないし、できる気がしない。お母さんが急に私のことを気にかけてくれるようになったのも困惑してる。お姉ちゃん、また嫌がるかもしれない」

 丸いムーンの瞳が細い月に照らされ、私の顔を映し出す。情けない顔だ、だけど、これが私。

 ムーンは私を見つめると、くるりと背を向けて陽だまり亭の方へ駆けて行ってしまった。社にほかの猫はおらず、私は一人きりになる。

 涙が出てきた。悲しいのか、困惑しているのか、よくわからない。

「望」

 突然声がして私ははっと顔を上げた。

「小麦君」
「散歩しよう」

 小麦君は私の手を引くと、陽だまり亭の方へ歩いていく。夜の森の中は、不思議とほの明るかった。いたるところで蛍のような淡い光がふわふわと飛んでいる。幻想的な風景だ、とても綺麗。

「望、君はそのままでいい。ありのままの君でいいんだ」
「でも」
「姉ちゃんと喧嘩できてよかったな。母さんが君のことを気にかけるのは君のことが大切だからだ」
「でも、でも! 私、わからない。このままでいいのかわからないよ」
「望、約束したろ。君はそのままでいいんだ。もしもダメなら、俺が君を連れ出すから」

 小麦君が小指を差し出して、にっと笑って見せる。泣きじゃくっていた私は大きく息を吐いてからその指に自分の指を絡めた。

 小麦君は嬉しそうににっと笑ってから、指を離す。

「さぁ、送っていくよ。帰ろう」
「うん」

 右手が小麦君の手に包まれる。大きな手だ。私の手よりも、ずっと大きくて温かな手。急に心臓がドキドキと脈を打ち始めた。昼間にした奈々子との会話がよみがえる。

 私は、小麦君のことが好きなのかもしれない。