翌日、私の足取りは昨日よりもずっと軽かった。お母さんのそっけない態度も、お姉ちゃんの小言も気にならないくらい。心も軽い。

 住宅街を抜けて、森に入る。社に着くと日向ぼっこをしている猫ちゃんたちの背を撫でた。ムーンの姿はない。今日はお散歩に行っているみたいだ。

「また後でね」

 名残惜しそうに体を起こす猫ちゃんたちに別れと告げて、私は森の奥を目指した。木漏れ日の差す小道をかけると、小さなお店が姿を現す。
 私はためらわずにその扉を開けた。すぅっと心地よい空気と、コーヒーの良い香りが漂ってくる。

「おはようございます!」

 カウンターにはマスター、フロアには観葉植物に水をやる小麦君の姿が見えた。

「おはよう望、待ってたよ! マスター望にコーヒー淹れてあげてもいい?」
「いいよ」

 「待っていたよ」ということなが沁みた。自分を待つ人がいてくれる人がいることがこんなにも嬉しいだなんて思わなかった。

「マスターにお願いしてコーヒーを淹れる練習をしてるんだ」
「望ちゃんに毒味させたいんだって」
「毒味っていうなよ、味見だろ?」

 マスターと小麦君のやり取りがおかしくて、私はふふっと笑みを漏らした。

「そうだ望ちゃん、ここで働いてもらうんだから、君にも制服を着てもらおうと思ってカフェエプロンを用意しておいたよ。僕たちとおそろいだけど」
「本当ですか、嬉しい」

 自分のための洋服なんて、いつぶりだっけ。

「今日からはウェイトレスとして主にフードとドリンクの提供をしてもらおうかなって思うから、よろしくねぇ」
「はい、よろしくお願いします」
「さっそく奥で着替えておいで」

 カウンターの奥にあるロッカールームでエプロンを着けてから帰ってくると、カウンターの上にアイスコーヒーが用意されていた。たくさん入った氷が溶けて、カランと音を立てる。

「じゃーん、どうぞ召し上がれ!」
「美味しそう。外は暑かったの、いただきます」

 ストローですぅっと吸い込むと、程よい苦みが口の中に広がった。

「美味しい」
「本当!?」
「うん、めっちゃ美味しい。私、ブラックコーヒーってそういえば苦くて飲めないんだけど、これはめちゃくちゃ美味しいよ」

 そう伝えると、小麦君は顔をくしゃっとゆがめて笑った。

「そういってもらえるのいっちゃん嬉しい! もうすぐ満月シフォンも焼けるんだ、お客が来る前に味見してよ」

 そう小麦君がいったところで扉が開く音がした。振り返ると、エレガントな紫色のスカートを靡かせて、女の人が一人入ってくる。ふわふわの柔らかそうな髪の毛を、一つに結んでいる。お歳は五十代くらいだろうか?

「あぁ、いらっしゃいスミレさん」
「あら、今日は可愛い店員さんがいるのね」
「そうそう、望っていうんだ。俺とおない年なんだよ」

 スミレさんと呼ばれたその人は、切れ長の綺麗な瞳をにっと細めた。

「は、初めまして、望です。今日から一月の間こちらで働かせていただくことになりました」
「そう、私はスミレ。このお店の常連なの、よろしくね」
「はい」

 スミレさんは窓際の席に腰かけた。彼女のお気に入りの席なのだそうだ。

「お嬢さん、コーヒーを一つちょうだいな。ミルクはしっかりと泡立ててね」
「はい、わかりました!」

 私はスミレさんのオーダーをマスターに伝える。小麦君は手際よく牛乳を温めて、ミキサーで軽く泡立ててくれた。
 出来上がったコーヒーとミルクをお盆にのせて、スミレさんの目の前にコトンと置く。

「お待たせしました」
「ありがとう」

 スミレさんはにっこりとほほ笑むと、再び視線を私から窓の外に移す。まるで、誰かが来るのを待っているみたいに見えた。

 再び扉が開いて、今度は一人のおじいさんが姿を見せた。おしゃれなスーツい身を包み、頭に中折れハットをかぶっている。伸ばしたひげは綺麗に整えられていた。

「やぁマスター小麦、おや、今日はもう一人新しい子がいるね」
「望ちゃんっていうんですよ。八月は忙しいのでお店を手伝ってもらうことになったんです」
「望です、よろしくお願いします」
「そうかいそうかい、それはいい。毎日来なくっちゃね。あ、ホットコーヒーと小麦のケーキを一つおくれ」
「はい、ただいま!」

 ひげのおじいさんはみんなから「ノワルのじいさん」と呼ばれているらしい。立派なこんな風に訪れるお客さん一人一人が私のことを気にかけてくれた。みんな常連さんのようで、マスターや小麦君と仲良く話していく。
 私も一緒に話したりして、とっても楽しい時間が過ぎた。

「お疲れ望、ちょっと休憩にしよう。昼ご飯食べてないだろう? もう二時だ」
「あれ、もうそんな時間?」
「昼どきは混むから大変だったろう?」

 そういう小麦君に私は首を横に振る。

「大変だけど、めっちゃ楽しかった」
「それはよかった! マスター、まかないにルビートマトのナポリタン作ってくれよ」
「はいはい」

 カウンターの中からトマトの甘い香りが漂ってくる。ルビートマトのナポリタンだなんて、名前からしてすごくおいしそう。
 ひだまり亭のメニューはどれも名前が凝っていて素敵だ。例えば「白玉パールパフェ」に「朝採れ野菜のキラキラサラダ」「夕焼けジューシーハンバーグ」、どれも見ただけで食べたくなってしまう。

「はい、おまちどう」
「わぁ!」

 マスターが私と小麦君のために作ってくれたナポリタンはつやつやと輝いてとてもおいしそうだった。

「いただきます」

 声をそろえて手を合わせると、フォークを手に取る。つややかな麺をくるくると巻き取ってから口へ運ぶと甘い野菜とトマトソースの味が口いっぱいに広がる。

「おいしい……」

 私のとても好きな味だった。そっか、私、ナポリタンが好きなのだ。小学生のころ、お母さんが何度か作ってくれた。お姉ちゃんがソースで汚れるのを嫌がって、今は食卓に並ぶことなんかないんだけど。

「口に合って良かった」
「マスターの作る飯はどれも最高においしいんだ。食後には俺の作ったケーキもあるよ、望はケーキとか好きだろう?」
「大好き!」

 ナポリタンをすっかり平らげると、小麦君が冷蔵庫から宝石のような果物がたくさん乗ったショートケーキが出てきた。

「ふわふわスポンジのフルーツバスケット、召し上がれ」
「すごく綺麗! 食べちゃうのがもったいなくなるよ」
「あはは、ケーキは食べてなんぼだろ、飾っとくわけにいかないんだから。さぁ食べて」

 促されるままケーキを掬い取る。ゼリーでコーティングされた果実がキラキラとしてとても綺麗だ。一口口に運ぶ。

「おいしい!」
「だろう! 望に喜んでもらいたくて作ったんだ!」
「私に?」

 頷く小麦君はとても嬉しそうな顔をしていた。なんでだろう、嬉しいのは、私の方だよ。
 会って間もない小麦君が、こんなにも私を喜ばせようとしてくれているのがたまらなく嬉しかった。

 思わず目頭が熱くなる。ツーンとした鼻の痛みと一緒に、ケーキを飲み込んだ。こんなにおいしいケーキを、私は食べたことがない。