翌朝、目を覚ました私は読みかけの本を持って予定通り早朝に家を出て社へと向かった。休みの日に早くから出掛けたってお母さんは私を引き止めたりしない。どこに行くのかも気にかけない。

 私がいない方がお姉ちゃんは勉強に集中できるのだと思えば、お母さんにとっても幸いのことなのだろう。

 ほんの少しだけ、心の中に隙間風みたいなものが吹く。

 昼間は息をするのも汗をかくほどの暑さだけど、朝の空気は澄んでいて心地よかった。

 まだ寝静まっている町の中を抜けて森に入る。家よりもここの方がずっと落ち着いた。

 置くまで進むと小さな鳥居が見える。社の前ではいつものようにムーンが体を丸めていた。私の姿を見つけると、わずかに片目を開ける。私の姿を一瞥すると、体を起こした。満月のように丸い瞳が、私を見る。

「おはようムーン。今日からしばらくここで過ごさせてもらいたいんだ。後でみんなのご飯を買ってくるから、許してくれる?」

 私がそう尋ねると、ムーンはくるりと背を向けた。数歩歩みを進めてから振り返り、大きな丸い目で私を見てくる。

 まるで、ついて来いといわれているように感じた。

「ついて来いっていってるの?」

 私はムーンの後に続いて、社を離れる。もっともっと森の奥へ、鬱蒼とし木々をかき分けけもの道を通って、必死にムーンの後を追った。

 軽やかに先を行くムーンは時々振り返り、私がきちんとついてきているのかを確認しているみたいに見える。

 ムーンについて森の奥へと歩みを進めると、突然開けた場所に出た。降り注ぐ太陽を警戒したけど、不思議と日差しは柔らかく、暑さもそれほど感じない。まるで春に降り注ぐ陽気のようだった。

 視線を空から降ろすと小さな小屋のようなものが見えた。周りに小さな花壇があり、綺麗な白い花が咲いている。花に疎い私には名前がわからなかった。

 ムーンはそのまま小屋の方へと歩いていき、ひょいと階段の手すりに上って私を一瞥すると中へと入ってしまう。

「待ってよムーン。入って来いってことかな……いや、勝手に入っちゃだめだよね。お店、かな?」

 私は戸惑いながら小屋に近づいた。とても良い匂いがする。コーヒーの香りだ。
 少し離れた場所から中をうかがってみようと、窓から中を覗き込もうとすると、扉の方が開いた。

「わ!」

 思わず声を上げてしまう。扉の中から出てきたのは、私とおない年くらいの男の子だった。色素の薄い淡い髪が、ふわりと風になびいている。

「いらっしゃいませ」
「いや、あの……えっと、猫を追いかけて来たの」

 ここがなんなのか知らずに来たのだ。そもそもこんな場所に人がいるんなんて思いもしなかった。あがり症の私はうまく説明できずに困った。

 私が口ごもりながらムーンのことを口にすると、男の子は会得したような顔になる。どうやらムーンのことを知っているらしい。

「あぁ、ムーンだろ」
「え、どうしてその名前を知っているの?」
「どうしてって、ほら、それがあの子の名前だから。お月さまみたいだからって名付けられたんだ、良い名前だろう?」
 
 驚いた。私のつけた名前を知っているのかと思ったけれど、もちろんそんなはずはない。丸まった姿を見たらムーンと名付けたくなるのかもしれない。

「ムーンの後を追ってきたらここに出たの。ここは、何かのお店? コーヒーの良い匂いがするね」

 私がそういうと、男の子は嬉しそうにっと目を細めた。

「手作りケーキが自慢のカフェなんだ! 自慢のランチだって美味しいよ。特別にご馳走するから中に入って」
「でも」
「急いでる?」
「そういうわけじゃないけど、あんまりお金を持ってなくて。時間だけはたくさんあるんだけど」
「そう、なら良かった! お客さんはまだ誰も来ていないからさ、さぁ入って」

 私は促されるままお店の中に入った。一歩、足を踏み入れた時点で思わずため息がもれる。感動したときに出るため息なんか、いつぶりだろう。

 落ち着いた雰囲気の店内には、大きすぎない木製のテーブルが二つ、それぞれに椅子が四つずつ。カウンター席は四つあった。いたるところに観葉植物が飾られている。カウンターの内側壁に設けられた棚には、コーヒー豆の詰まった瓶がいくつも並べられていた。

「いらっしゃい可愛いお客様」

 カウンター席の内側にもう一人男の人がいた。私のお父さんよりも少し若いくらいの男の人。男の子と同じ黒いエプロンをつけている。

「お、お邪魔します」
「ようこそ陽だまり亭へ」

 お店の名前は『陽だまり亭』というらしい。素敵な名前だなと思った。

「カウンター席に座って、コーヒーはブラックでいい? いや、カフェオレがいいかな? シフォンケーキは食べられる?」

 男の子に促されるまま、私はマスター風の男の人がいるカウンター席の一つに腰かけた。

「マスター、カフェオレ一つね。俺の分も淹れておくれよ。俺はシフォンケーキを切り分けてくるから」
「はいはい、小麦(こむぎ)は人使いが荒いねぇ」

 やっぱり、目の前に立つこの人はマスターらしい。男の子の名前は『小麦君』というのか、可愛い名前だ。そう思うと同時に、その響きにたとえようのない悲しさも襲いかかってくる。

「カフェオレでいいのかな?」

 マスターの声がして私ははっと顔を上げた。目の前ではコーヒーが抽出されている。

「はい、あ、あのおいくらになりますか? あんまりお小遣いがなくて……」

 恥ずかしさで声まで小さくなる。顔を赤らめながらいうと、マスターは優しい笑顔を見せた。

「あはは、お代は結構だよ。小麦が嬉しそうにしてるしね。今日はご馳走になってやって、今日のシフォンケーキはあの子が初めて焼いたケーキだから」

 マスターのご厚意に甘えて、私はカフェオレとケーキをご馳走になることにした。

「はい、当店おすすめの満月シフォン」
「あ、ありがとう。すごくおいしそう」

 私の目の前に小麦君がふんわりとした黄色いシフォンケーキを置いてくれる。
 すごく美味しそうだけど、ご馳走になったりして申し訳ないなと見つめていると、小麦君がフォークを手渡しながら笑った。

「そんな顔しないでよ、人の厚意は素直に受け取ってほしいな」
「うん、ありがとう」
「お代代わりに君のことを色々教えてよ。俺は小麦、特技はお菓子作り、一番得意なお菓子はこのシフォンケーキだ。で、こっちはマスターの野良(のら)さん」
「私は望」
 
 名乗ったところで他にどんな自己紹介をしたらいいのか悩んでしまう。

「高校一年生で、趣味は……猫と遊ぶこと、かな」
「とってもいい趣味だ! 高校一年生ってことは同い年だ。俺は学校には行ってなくて、ここで働かせてもらってるんだけど」
「働いてるなんて格好いいね、自立してる」
「学校に行ってるのだって格好いいだろ? 制服とかさ、格好いいじゃん」

 私は首を横に振る。少しも格好良くなんてない。自信を持ってこれが得意だっていえることもなくて、言葉にできないなにかに怯えながらなんとなく日々を過ごしているだけだ。

「そんなことないよ、私にはなんにもできることがなくて。夏休みなんか何して過ごそうかって悩むくらい」

 あははと乾いた笑いとともに吐き出した言葉に情けなくなる。

「望さ、もしよかったら夏休みの間だけでもこの店の手伝いとかしてくれないかな? な、いいだろマスター!」

 小麦君が私にそういってからカウンターの向こうを見る。

「そうしてもらえると助かるね、特にお盆は大盛況だからさ」
「決まりだ! そうしよう望、君がいてくれたら助かるから」

 突然の申し出に驚くよりも、二人の言葉に私が胸が熱くなるのを感じた。

「私がいたら、助かりますか?」

 私の問いかけに二人が「もちろん」と頷いてくれたときには、自然と目頭も熱くなっていた。

「よろしくお願いします」

 小麦君はパチンと指を鳴らす。

「やった! 決まりだ! 開いている席で宿題をやってもいいからさ」
「本当! ですか?」

 小麦君からマスターに視線を移すとコクンとマスターも頷いてくれる。

「お昼ご飯にまかない飯も出すよ」

 私は願ってもない提案にもう一度「ありがとうございます」と頭を下げた。

 夏休みの間、ここで過ごすことができたら、とても助かる。

 それ以上に、私のことを必要だといってくれたのが嬉しかった。

「よろしくお願いします」
「こちらこそ!」

 差し出された小麦君の手を遠慮がちに握るととても温かかった。

 こうして居場所を得た私は、いつも空っぽに感じていた心のなかに少しだけ温かなものが入ってきたような気持ちになった。