8、倉辻未奈 たとえ夢の夢だとしても


「……大丈夫」
 私はユキポンに小さく呟いて、そっと撫でた。
 フー、フーとピアニストの彼に興奮してたユキポンを、そっと撫でた。

 ピアノの前の彼は、呼吸を整えた後、優しくピアノを弾き始めた。
 歩く速度よりはやや速く、夢見るように。
 同じ繰り返しの伴奏に、キラキラとしたメロディーの旋律が揺らめいている。


 ドビュッシー 「夢」


 私の好きなドビュッシーの好きな曲で、最後に二人だけの時に弾いてもらった曲。

 波のはざまに漂うように、儚く揺れる。
 煌くような美しい波間も、また、儚く現れては消える。

 包み込まれる。

 ……ピアノって本当ずるいよ。一瞬で全ての心を持ち去ってしまう。


 ああ、私は消えるかもしれない。

 不安定な美しさに
 身を委ねながらそう思った。

 だけどユキポンの温もりが膝の上にあった。
 確かなものが、優しい気持ちが、ここにあった。

 私は、その温もりを感じながら、ピアノを聞いた。
 ドビュッシー 「夢」も優しい旋律を奏で、
 家に帰ってきたような安心感を受ける。

 この曲は生きているのかも、
 彼の弾いてくれたこの曲は
 例え夢の夢だとしても、
 この曲は、ここに生きている。

 そしてまた、
 私も生きている。
 ユキポンも心の中に生きている。

 消えることなく。
 ここに確かに。

 音の粒が光の粒となり、
 キラキラと揺れながら、
 ゆっくりゆっくり、消えていく……

 最後の音が儚く消え、
 余韻の静寂がいつまでも続いた。

 私は消えなかった。
 ユキポンと一緒に、私は消えなかった。

 彼はゆっくりと立ち上がると、静かに一礼して闇に溶けていく。
 儚い夢のように。

 それは夢だとしても、幻ではなく、私の体に沈み溶け込んでいた。
 彼は弾いてくれたピアノは、重なった色の一つとして、今はもう見分けがつかないけど、確かにここにある。

「僕にもわかったにゃ」
 ユキポンが顔をあげて呟いた。

 涙がこぼれ落ちて、ユキポンの背中を濡らしてしまった。

「ごめん。ユキポン」

「いいにゃ」

「ありがとう」

「いいにゃ……もし、消えるなら、僕も一緒にきえるにゃ」

「……」

 私は涙を拭うと、残ったピアノに手をかざして消し去った。

 そして、ゆっくりとユキポンの背中を撫でた。

「あったかくなってるにゃ」

「?」

「未奈ちゃんの手、あったかくなってるにゃ」

 そういってユキポンが頭を擦り付けてきた。
 私は、何度も何度も優しくユキポンの背中を撫でた。

「僕は役に立ったかな」

 ユキポンの呟きに、「うん」と頷いて、何度も何度も優しく背中を撫でた。

 そして
「一緒に、ご飯食べようか」と答えた。

「うん。それがいいにゃ」

 ユキポンが、顔を向ける。

 闇が晴れると、雨も上がり雲に切れ間が見えた。
 紫色の空にピンク色の雲、不思議な焼けた様な空が広がっていた。

「必要ににゃったら、必ずまたくるにゃ」

「拙者もいるでござる」

「……うん」

 私は空を見上げた。
 頼りない光でも、嬉しかった。

「帰ろう」

「にゃ〜」

「な〜に今頃。猫みたいに」

 ユキポンが、またゆっくりを頭を擦り付けてきた。

 フフフッと笑みが溢れる。

「帰ろう」

「にゃ〜」





たとえ夢の夢だとしても、
私の中では生きている。
確かに煌めき生きている。
たとえ夢の夢だとしても。

Fin