今日も薫る風が西の谷から届く。
 その中に少しの雨が混じったとき、セアラは今夜花の嵐がやって来ることを知った。
 傍らの草むらに寝そべっていたラベンダーも身を起こして、鼻をフンフンと動かす。大丈夫、気づいているわとセアラがラベンダーの頭を撫でると、ラベンダーは喉を鳴らしてご機嫌になった。
「洗濯物を取り込んで、夕食の用意をしましょ。少しだけ早めにね」
 セアラが立ち上がって家の方に足を向けると、ラベンダーも尻尾を一振りして後に続いた。
 小麦畑の中の道をたどり、古びた水路を渡ると、積み木のような小さな家がある。セアラとラベンダーが暮らすだけだから、格好も大きさもそれくらいでちょうどよかった。
 時々町の人たちが、セアラのなりわいである腹痛や擦り傷の薬を求めて恐々と訪れることはあるけれど、セアラとラベンダーが町に立ち入ることはない。それは昔からの決まり事だが、その理由を忘れてしまうくらいには、町の人たちはセアラたちを受け入れてくれていた。 
 籠を置いて洗濯物を入れている間に、日は暮れ始めていた。秋の暮れは肩を叩くのが遅く、気が付けば通り過ぎていく。
「ラベンダー、おいで」
 家に入って夕食を用意して、席につくときには、すでに外は暗がりに沈んでいた。セアラがラベンダーを呼ぶと、彼は自分の前の器を少し不思議そうに見た。
「今夜は遅くなるから、少し食べておきましょ」
 セアラはなりわいで家畜を飼っているわけではないから、食卓に肉が並ぶことは珍しい。セアラより大きな体を持つラベンダーはそれを不服に感じてもいいのだが、聡く聞き分けのいい彼がセアラに文句をつけることはなかった。
 テーブルに置いたカンテラの灯りの下、セアラも少しだけ肉を食べた。セアラが食べずにラベンダーだけに食べさせようとするとかえって彼は怒る。ラベンダーは先に食事を平らげてセアラの側に寄ると、セアラが食べ終わるまで待ってくれていた。
 セアラは皿を片付けて花瓶の水を替えて、寝る前というよりは夜更けの来訪者を待つように部屋を整えると、揺り椅子にかけてひとごこちついた。
 セアラの足元に座って彼女の手に頬を寄せたラベンダーは、犬というよりは家族そのもののような親しみを寄せて、セアラが眠りに落ちるのをみつめていた。



 セアラ、セアラと、青年が弾んだ声で繰り返し呼ぶのが聞こえた。
 目を開いたセアラの前には、初夏の野原で薫るあの紫の花のような、くしゃくしゃと可愛いらしい癖毛の青年が覗き込んでいた。
「外に出よう、セアラ。もう始まっているよ」
 青年は手を取ってセアラを助け起こすと、つないだ手をそのままにセアラを外に導いた。
 普段ならばそこには神聖な夜の静寂が満ちていて、誰もが息をひそめるような無音の世界に冷たい風だけが吹いているはずだった。
 けれど扉を開いた先には、にぎやかな宵闇と祭りのような燐光の渦と、懐かしい香りと初めて嗅ぐような新しい風が歩んでいる最中だった。
 西の谷と東の嶺の狭間、ここは風が通るように形なきものたちが歩んでいく。家を守ってきた妖精、野原で旅人を照らす光の精、湖で生まれて海に言伝を伝える精霊、彼らは花が渦を巻くような風の日に、連れ立って東へ旅に出る。
「ここに住んでいるの?」
「いい匂いがする」
 形なきものたちは人懐こく、セアラとラベンダーにフンフンと鼻を鳴らして笑いかける。
「東では冬に花が咲くのだって」
「見てみたい」
「行こうよ」
 彼らの声は綿のように柔らかくセアラたちを取り巻いて、魅惑の土地への旅を誘いかける。
 セアラは東の嶺を見たことがなく、そこが彼らの語るようなところなのかは知らない。けれど東の嶺から戻ってきたものたちもいないから、そこは本当に楽園のような土地なのかもしれなかった。
 セアラが傍らに立つ青年を見上げると、彼はセアラの視線に気づいたのか苦笑してみせた。
 彼の答えはずっと変わりがないけれど、いつか変わったとしても、セアラは受け止めるつもりでいた。
「いつかは行くよ」
 ただ今日の彼の答えはいつものとおりで、セアラはそれも心に受け止めてうなずきかえした。
 彼は形なきものたちに目を戻すと、セアラとつないだ手を確かめるようにして握りしめた。
「でももう少し、妹と過ごしていたいから」
 形なきものたちはその答えを、たぶん別れのあいさつのように少し寂しく聞いたようだった。
「いつかね」
「いつか」
 花の嵐は形なきものたちを急かして、風とともに遠い地へと誘う。彼らが立ち止まったのはほんのひとときで、行列はやがて野原の向こうに吸い込まれるように消えていく。 
 セアラは暗闇に落ちていく世界の中で、青年とつないだ手の感触だけを感じていた。
 青年は今も、生まれたときから側にいたセアラを妹を呼ぶ。いつか死の風にさらわれそうになったセアラを引き留め、今も手をつないで過ごしている。
「ラベンダー」
「うん」
 セアラは自分と彼を、化け物というより素敵なものだと思っていたい。彼を抱きしめたときに今も感じる香りのような、優しい気持ちとともに。
 大好きと言葉に伝える前に抱きしめられたから、セアラは胸いっぱいに想いを抱いて、風が行き過ぎるのを感じていた。