バスを降りて地面に足をつけた途端、気持ちが深く沈んだ。夢から現実へ無理やり引き戻されたような感覚。足が、体が、鉛のように重たかった。
 学校が終わるまで、終わってからバスに乗り込むまで、彼には会えない。その姿を目に映すことができない。
 毎日毎日、バスを降りる度に同じことを考えていた。名前も知らない彼のことを。ずっと考えていた。
 彼は学校ではどんな生徒なのだろうか。持ち前の整ったルックスは目を引くものがあるから、きっと学校ではモテているに違いない。誰からも慕われているだろうし、彼女だっているかもしれない。彼女、だって。
 ああ、そうだ。その通りだ。彼は容姿端麗だから、大して可愛くもない地味な私では彼の隣に立つことすらできないのだ。好きでいることすら烏滸がましくて。遠い、遠い、どこまでも遠い存在だった。
 朝の生徒玄関は、登校してきた生徒たちでごった返すことが多かった。運悪くその時間帯にぶつかってしまうことがあるけど、今日は幸い少し落ち着いていた。徒歩や自転車通学の人たちがのんびりと歩いている。友達と挨拶を交わし、そのまま並んで会話をするその姿を見ていると、ここに話し相手すらいない自分がとても惨めに感じた。
 足元を見ながら歩き、何かに怯えるように肩を上げて。カバンの持ち手をぎゅっと握り締める。
 今日は、何事もありませんように。
 願った。願ってしまった。今日も。それが叶ったことなんて一度たりともないのに。願うだけ無駄なのに。期待しない方が身のためなのに。それなのに、もしかしたら、今日こそは、なんて祈りを捧げて。何度も現実に打ちのめされてきた。
 どこか息苦しさを感じながら、恐る恐る自分の下駄箱に手を伸ばす。どうして下駄箱に恐怖しなければならないのか。誰もが深く考えずに普通に開けて、当たり前のように中にある上履きを履いて廊下を歩いて行くのに、私はいつしかその普通が普通にできなくなっていた。
 下駄箱の前で不自然に手を伸ばしたまま立ち尽くす。今日は何をされているのだろう。上履きはちゃんとあるだろうか。なかったら、探さないと。前は教室のゴミ箱に捨てられていた。それを見つけて呆然とする私を、クラスメートは嘲笑った。恥ずかしかった。泣きそうだった。情けなかった。
 過去のことを思い出して胸を痛めながらも、意を決して下駄箱を開け放つ。上履きはちゃんとそこにあった。あったけど、まだ安心はできなくて。上履きの中が一番の危険地帯だった。
 冷め切って震える指先で、上履きの踵部分を持ち上げた。目に見える範囲では何もされていない。でも。爪先の方はパッと見では分からないから。トントンとその部分を軽く下駄箱に打ち付けて。落ちてきたものに心臓が跳ね上がった。思わず上履きを落としてしまう。落下したそれから床に飛び出したのは、細長い体を上下で真っ二つに裂かれたムカデの死骸だった。
 ドクン、ドクン。心臓が激しく脈打ち暴れている。何か入れられているのでは予想していたけど、死骸は想定外で。漏れなく虫が苦手な私は腰を抜かしてしまっていた。訳も分からず涙が溢れてくる。
 登校してきた生徒たちが不審な目で私を見るけど、無造作に床に落とされた上履きの近くにある黒い物体で何かを察したのか、誰も声をかけようとはしなかった。
 何事もありませんように。その願いは、今日もやっぱり叶わなかった。