「今日も隣に座っていいですか?」
「あ、う、ど、どうぞ」
 吃る私に彼は柔らかく笑いかけ、私の隣の座席に腰を下ろした。心臓の音がうるさくて、彼の耳に届いてしまうじゃないかと不安になる。その鼓動を少しでも鎮めさせるために、私はカバンを胸に抱いて小さくなった。彼が近すぎる場所にいることに未だに慣れない。彼はいつも余裕そうなのに、私だけすぐ赤面してしまうし、話しかけられたら吃音を発揮してしまう。それでも彼は、優しすぎるほど優しかった。
 彼とはあの日から、いきなりキスをされたあの日から、徐々に距離が縮まってきているのを実感していた。彼は本気の目をしていたし、私も嫌だとは感じなかった。勘違いしそうだし、勘違いしてくれたらいいのに。それで、好きになってくれたらいいのに。
 でも、いじめられていることを知ったら、一気に冷めてしまうかもしれない。でも、隠し事はできればしたくない。でも。だけど。いつかはちゃんと伝えなければ。彼のことが好きだからこそ、そうしないといけない。分かってはいるけど、いじめを受けていることを打ち明けた時の彼の反応を想像すると怖気付いてしまい、結局何も言えなくなってしまう。
 幸い、彼があれこれと詮索してくることはなかった。明らかに気づいていることがあるだろうに、どうしてそうなったのか、何があったのか、など、非日常に目を光らせる人たちと違って深入りしてこないのが心地良くて。私はそれに甘えてしまっている。
 あの日、私は彼女たちに売られていた。どこで知り合ったのかわからないアウトローな人たちに私を売り飛ばし、それを真に受けた治安の悪い人たちが私の体を弄んだ。あまりの恐怖に泣いた。叫んだ。そうしたら殴られた。怒鳴られた。大人しくしてろと服を破かれた。舐められた。私なんかで興奮して挿れられた。痛かった。死にたかった。気持ち悪かった。それでも必死に堪えた。堪えるしかなかった。
 初めては彼がよかった。彼に全部をあげたかった。彼以外の濁った液に塗れた私は汚かった。彼に会いたかったのに、会いたくなかった。汚れた私を見られたくなかった。だから、逃げた。偶然か、必然か。いつもより一つ遅いバスに彼が乗っていたから。会いたかったのに会いたくなかったから、背中を向けて駆け出すしかなかった。
 追いかけてきた彼に捕まって混乱して、私の姿をしっかりとその瞳に映した彼が何かを察したようにすぐ手を離すと、不思議と足の力が抜けていた。彼の前で泣きたくなんてなかったのに、涙が溢れて止まらなくなった。
 唇を噛んで、息を殺して。必死に涙を止めようとする私を、彼は優しく包み込んだ。思いがけないことに驚きつつも、その温かさにどうしようもなく安心して。箍が外れたように感情が溢れてしまった。ごめんなさいごめんなさいと何も知らない彼に縋りつきながら謝罪を繰り返し、その勢いのまま貞操を捧げたい旨まで吐露して。
 支離滅裂で混乱している私に、彼は何一つ咎めることなくただ一言、自分に会いたかったかどうかを尋ねてきた。責めるでもなく慰めるでもなく。それだけが知りたいとでも言うように。彼の真剣な眼差しに嘘を吐けるはずもなくて。私は言葉を詰まらせながらも会いたかったと素直に伝え、それでも逃げてしまった理由を並べようと思っていたのに。容易く遮断されてしまった。自分も同じ気持ちだと話してくれた彼から目を離せずにいると、流れる涙を指先で拭い取ってくれた彼が。何の前触れもなく私の唇を優しく塞いだ。当時はもちろん、日が経った今現在も、反芻して赤面してしまうほど衝撃的な出来事だった。
「あの」
 不意に声をかけられ肩を揺らす。咄嗟に思考の渦から顔を出すも、キスを思い出して火照った顔を見られたくなくて。彼を一瞥しただけであとはカバンを抱き締めながら目を伏せた。無視されたと思われるんじゃないかとそうしてから気づいたけど、彼は特に気にした様子もなく続ける。
「今日、学校休めますか?」
 予想だにしない質問に思わず顔を上げた。彼を見ると、どうですかとでも言うように小首を傾げていて。私は、あ、う、と目を泳がせながら、学校、学校、休める、と知能の低そうな思考を巡らせた。私を見下して嗤う彼女たちの姿が脳裏に浮かび上がってくる。どうせ行ってもいじめられるだけで。それを知っているのに朝起きてご飯を食べて歯を磨いて家を出ているのは、ただただ彼に会いたいからに過ぎなかった。彼がいなければとっくのとうに不登校になっていただろう。彼がいない学校に行っても辛いだけだ。そのため、学校を休めるか休めないかで言えば休めるし、寧ろ休んでしまいたい。彼と一緒にいられるのなら、そう即決する。
 私は彼を見てこくこくと頷き、全然、休めます。苦しみから逃げることを選んだ。学校なんて、本当は行きたくない。彼女たちに会いたくない。いじめられたくない。私は普通に生きていたい。彼と一緒に、生きていたい。そう思っているのは私だけだったとしても、彼と過ごす時間は何よりも大切で。彼といる時が一番幸福を感じる。
 初めて学校を無断欠席する決意を固めた私に、彼は息を吐くように笑った。カーッと頬に熱が集まって。私は誤魔化すように頭を下げる。いつも俯いてばかりいるから、その行動を彼が不思議に思うことはないはず。
 最近、彼はよく笑ってくれる。私の前だけで、なんてことはなく。きっと学校で彼を待っている友達にも同じように柔らかな笑みを浮かべているのだろう。その人たちの方が彼の静かな笑顔をたくさん見ているんだと思うと、胸の奥の方が黒くなる。他校生なのだから、仕方のないことなのに。
「今日はずっと、俺と一緒にいてください」
「え、あ、あ、ああ、わ、わ、私で、よ、よければ」
 緊張を隠せずに吃る私は、彼の目を一瞬しか見られなかった。心臓が暴れている。好きな人からもらう一緒にいてという言葉の破壊力は凄まじく、細胞という細胞が荒れ狂う。彼女たちには絶対に見せられない高揚した姿。彼のことも、彼と親密になりつつあることも、絶対に、絶対に、見られないように、悟られないように、細心の注意を払わなければ。それは自分のためでもあり、彼に飛び火させないためでもあって。私の問題に無関係な彼を巻き込みたくはない。ああ、まだ、しばらく、いじめのことを打ち明けることはできないと感じた。私は彼の纏う空気の柔らかさに沈み込み、肩を借りて安心してしまっている。私は自分と向き合えていない。彼にも本当の自分を見せられていない。
 生きていれば毎日出会う初めての今日を、恋い焦がれてやまない彼の隣で過ごすことに決めた私は、いつもの停留所では降車せずに彼に付いていくことにした。同じ制服を着た生徒が怪訝そうに私を見た気がしたけど、気づかないふりをする。どうせ何も言われない。言わないで。
 声をかけられるんじゃないかと内心ひやひやしながら俯いていると、ゆっくりと出口が閉まる音が聞こえスッと肩の力が抜けた。完全に杞憂だった。そもそも、少し考えれば分かることだ。いじめられていると影で馬鹿にされている私なんかに声をかけるはずがないと。
 それでも、何も咎められなかったことに安堵すると同時に、妙な背徳感が胸を覆い尽くす。ああ、もう、後戻りはできない。私は彼と、時間を共有するんだ。無色透明の今日を、彩っていくんだ。一目惚れした彼と。一緒に。
 今まで家と学校の往復しかして来なかったため、その先の道程に心なしか胸が弾んだ。彼がいるからより一層そう思ってしまうのかもしれない。彼は私の全てだと感じる。彼は。彼が。彼を。彼に。頭の中は、彼のことばかり。
 容赦のない暴言を繰り返す彼女たちのことも、それを我関せずといった様子で傍観しているだけの人たちのことも、全部、全部、余すことなく全部、忘れられる瞬間があるのだとしたら、きっと。彼の近くで、彼の側で、同じ色を見ながら息をしている今この時だろう。彼がいるかいないかで、私の世界は大きく変化していく。
「どこで降りますか? もし希望があるならいつでもボタン押してくれて大丈夫です」
 私に選択を委ねてくれる彼は、どこまでも優しかった。それなのに私は、優柔不断で。どこに行きたいとか、何をしたいとか、そういった決断を下せずに困惑してばかり。目が泳いでしまう。上手く喋れない。上手く伝えられない。どこでもいい、なんて、そんな無責任なことは言えないし、言いたくない。私は。私の。行きたい場所。彼と一緒に、歩きたい場所。のんびりゆっくり、周りの目を気にせずに話ができる場所。私が、落ち着く場所。私が落ち着く場所は。
「い、家」
「ん?」
「わ、私の、い、家、に」
 そこまで言いかけて、ハッと口を閉じる。私は何を言おうとしていたのか。まさか彼を自宅に誘おうなんて、そんな。そんな魔が差したようなことを、この口は伝えようとしていたのか。バスは逆の方向へ走っているのに。
 自分の失言に気まずさを感じ、ごめんなさい、なんでもないですと今にも消え入りそうなか細い声で前言撤回する。彼はそうですかと言うだけで、何も追及してこなかった。ただ、誰もいない家みたいに静かな場所がいいですよね、とフォローするように私の言わんとする言葉を繋いでくれた。静かな場所。そうだ。私は音の少ない静かな場所がいい。人混みは苦手だし、さまざまな音が混濁しているような所も落ち着かない。雑踏に塗れるのが好きではないから、根本的に街中は合っていなかった。都会よりも田舎の方が好きなのだ。彼はどうなのだろう。彼も田舎が好きだったらいいのに。
 質問してみようか。都会と田舎、どっちが好きですか、と。いや、でも、タイミングがおかしい。今はどこに行くかを話しているのだから、突然都会と田舎どっちが好きかだなんて聞くのはあまりにも人の話を聞いてなさすぎる。だから、言えない。聞けない。また次の機会に持ち越そう。
「戻りますか?」
「え、え?」
「家がいいなら、俺、ついていきますけど」
 あ、でも、俺がいたら落ち着けないですよね。どうしましょう。あれこれと逡巡していた私の耳が、衝撃的な提案を拾う。彼は私の家に戻ろうという話をしてくれているのだろうか。でも自分がいたら落ち着けないんじゃないかと私に気を遣い、どうしようかと悩んでいる。私は彼を困らせてしまっている。進行方向とは逆のことを言ってしまったから。
「だ、大丈夫、です。もど、戻るって、いったって、ひ、昼頃、まで、バ、バス、ない、ですし」
「あ、そうでした。なら歩きながら話しませんか? どちらかの家まで」
「え、で、でも、それだと、さ、最低でも、じゅ、十数キロ、あります、けど」
「ああ、確かに歩く距離ではないですね」
 言いながら、彼はどこか楽しそうに小さく笑った。その笑顔に赤面しつつ、私もつられるように自然と笑みを浮かべていた。
 彼といると涙が出そうなほど安心する。ずっと癒えなかった傷が少しずつ回復していくかのようで。この時間が永遠に続けばいいのに。
 もういじめられる私には戻りたくない。彼の前では普通の子でいたい。彼のことがどうしようもなく好きで、好きで、たまらない。
「とにかく降りますか。バスに乗ってたら街中に到着してしまうので」
 それに、あそこは静かな場所とは無縁です。優しげな笑みを見せていた彼の表情が僅かに翳る。毎日通っている高校がある街を、彼はあまり好いていないのだろうか。少し不思議に思ったけど、私は何も聞かなかった。言いたくないことだってあるだろうし、聞かれたくないこともあるだろう。私がそうだから、あまり深入りはするべきではない。
 これまでも、お互いの学校での過ごし方や交友関係はほとんど話してこなかった。聞いたら聞かれる。聞いたら自分も答える必要がある。聞かれたくないから、軽い気持ちで話せないから、聞くことを、聞かれることを、無意識に恐れ、避けている。自分が聞かれたくないことは、相手にも聞かない。深く詮索しない。それが彼と私の暗黙の了解だった。
 私が彼に隠し事をしているのと同じで、彼も私に言えない何かを内に秘めているのだろう。何でもかんでも他人の相談に乗りたがり、本人があまり口にしたくない苦悩を無理やり吐かせた割には全く身にならない助言を得意げになって繰り出すような人にはなりたくないし、そんなもの彼にとっては余計なお世話に違いない。質問攻めをされて辟易するのと一緒だ。
 重たい沈黙が続く中、押しますね、と彼が気を取り直すようにそう口にして。降車ボタンを押した。音と共に全てのボタンが光り、電光掲示板の文字が表示される。利用したことのない停留所だった。
 特にこれといった会話もないまま、バスがその場所へ停車する。定期では払えない分の残りの運賃を整理券と共にお金投入口に入れてから、彼の後に続いてバスを降りた。瞬間、ふわりと全身が生暖かい風に包まれる。暑い夏に近い春風。それは決して刺々しくなく、寧ろやんわりとしていた。
 風に髪を靡かせながら私を振り返った彼が、じゃあ、本当に家まで歩きますか、と冗談か本気か分からない声色でそう言って、小首を傾げた。背後でバスが走り去り、感じていた大型車特有の圧が消える。私は彼の言葉に、家までなんて、と戸惑うばかりでまともな返答ができず、縋るようにカバンの持ち手をぎゅっと握り締めていた。つくづくコミュ力のない自分に嫌気がさす。早く慣れなければ、つまらない人だと愛想を尽かされてしまうかもしれない。だから、早く。早く。彼に慣れないと。慣れて、上手く話せるようにならないと。でも、だけど、そう思えば思うほど焦りが募り、空回りしていくようだった。
「すみません。冗談です。でも、家を目標に少し歩きませんか?」
 俺は並んで歩けるだけで十分嬉しいので。付加された言葉に簡単に心臓が跳ねる。それと同じくらい、気を遣わせてしまったことに苦しくなった。冗談の通じない奴だと思われてしまったかもしれない。
 彼は私に優しいのに、私は彼に優しくできていない。それ以前に、全然会話を盛り上げられていない。大好きな人に誘われて、自分の意思で一緒にいることを選んだのに。これでは彼の時間を無駄にしてしまう。
 私を誘ったことを、彼に後悔してほしくなかった。だから私は、コンプレックスを晒け出してでも彼に伝えなければならない。彼は特別だから。私が一番大切にしたい人だから。彼の前では、私は私らしくありたい。
「あ、あ、ある、歩きたい、です。わ、私も、うれ、嬉しい、ので。と、隣、あ、歩かせて、もら、もら、える、だ、だけで」
 何度も何度もつっかえる。車内でもずっとそうだった。家族以外の人と流暢に話せたことのない私は、どう足掻いても喋るのが苦手だ。下手だ。そんな自分があまりにも不甲斐なくて嫌いだ。上手く言葉を紡げないことへの恥ずかしさによってすぐ赤面して俯いてしまう自分も嫌いだ。私は自分が大嫌いだ。
 彼は私の吃音をどう思っているのだろう。優しい声の裏でイライラしていたりストレスを感じていたりしていないだろうか。いや、でも、もし本音がそうなのであれば、私に話しかけること自体しないはずだ。私のことを避けるようになるはず。だから、私の吃音なんて彼は気にしてないんだと思いたい。
 風に吹かれながら足下を見て、緊張に肩を縮こませる私の耳に、同じ気持ちなんですね。ありがとうございます。彼の温かな声が届いた。安心する。柔らかい。優しい。まるで、自然の中に浮かび上がる春の木漏れ日のように。ああ、そうだ。彼を季節に例えるのなら、暖かさの中にある優しさを感じられる春だ。春は過ごしやすい。春は落ち着く。私は春が好きだ。穏やかな春が、好きだ。
 ゆるゆると顔を上げる。彼は私と目が合うと、ふわりと笑ってくれた。胸が大きく高鳴り、顔を紅潮させてしまう私を優しく導く彼に、戸惑いながらも黙ってついていく。バスが向かった先とは逆の方向だった。
 まだ学校が始まっていない登校時間真っ只中だから、運悪く同級生や下級生に見つかってしまうかもしれない。そうなる前にいち早く危険を察知して逃げよう。特に、彼女たちには絶対に見つかりたくない。彼とのことも、彼のことも。見られたくない。視界に入ったら最後、どうしてお前なんかが他校の生徒、しかも男と一緒にいるんだと馬鹿にされるに決まっている。私が自ら打ち明ける前に、此奴は学校でいじめられているんじゃないかと彼に勘繰られるわけにはいかなかった。彼を信頼していないわけでないけど、それを機にもし敬遠されたり幻滅されたりしてしまったら、私は何を糧に生きていけばいいのか分からなくなる。嫌われたくない。私を捨てないで。
 彼の隣を俯きながら歩き、あれこれと逡巡して不安になっていると、ねぇ、と思わず鳥肌が立ってしまうような低い声と共に肩を強く掴まれた。強制的に振り向かされ、そこにいた人物と視線が交わる。刹那。ドクンと心臓が嫌な音を立てて。全身の血の気が引いた。自分の口から、あ、あ、と喘ぐような声が意図せず漏れ、見えない何かに首を絞められたかのように息ができなくなった。
 ああ、ああ。この人は。この人は。息が、できない、あ、あ、あ、あの時の。あの時の。息が、できない。は、は、あ、あの時の。あの時、の。息が、できない。は、あ、か、彼女たちに、売られていた、私を、息が、できない、は、は、襲った、一人。息が、できない。
 忘れたくても忘れられないトラウマが脳内を駆け巡る。襲われた。私はこの人に襲われた。やっぱり前にヤらせてくれた子じゃん。処女だったからきつかったけど気持ちよかったよ。またヤらせてよ。てか今から俺と遊ぼうぜ。学校なんかサボってさ。へらへらしながら卑しい目で私を見ているこの人に。襲われた。この人の連れにも、襲われた。
 目の前の男の人の手が、官能を煽るように肩から手に滑り落ちてくる。振り払おうにも、そうされることが分かっているみたいに力を強められた。手が震える。足が震える。唇が震える。やめて。嫌だ。離して。彼がいるのに。処女だったとか、ヤらせてとか。言わないで。私に構わないで。私のことなんか放って置いて。私は。私は今。彼と時間を共有しているのに。入ってこないで。お願いだから。どっか行って。気持ち悪い。気持ち悪い。私はずっと気持ち悪かった。少しも気持ちよくなんてなかった。痛くて痛くて。痛くて痛くて痛くて。最悪だった。最悪最悪最悪触らないで離して私は自分の体なんか売ってない売ってない売ってない全部彼女たちの仕業なんだよ私が誘ったんじゃない違うやめて私に触らないでお願いしますお願いしますお願いしますお願いしますお願いしま
 ボロボロと脆く崩れ落ちていく精神。お願いしますお願いしますお願いします。男の手を振り払えないほどの圧倒的な力の差に全身が粟立ち、お願いしますお願いしますお願いします。頭が狂った。息が狂った。お願いしますお願いしますお願いしますお願いしまあれあれあれあれ息ができませんできてますかできてませんかどうしたらいいですか。
 目の焦点が合わず、体が異常なまでに痙攣していた。極度の緊張や恐怖、不安、焦燥が、不随意に筋肉の急激な収縮を起こさせているかのようで。崩れ落ちそうになる。息ができない。痙攣と過呼吸に脂汗が流れ始めていた。
「人前でするナンパって、楽しいですか」
「あ?」
 それまで何も言わずに沈黙していた彼が、不意に口を開いて。優しかった目を鋭くさせた。場の空気が張り詰める。怖いほど温度のない低い声すらも、この場を切り裂く要因になっているかのようで。彼が、彼じゃないみたいだ。目の色が違う。
 邪魔をされた男が治安の悪い視線を彼へと向ける。私のことは捕らえたままで離してくれない。離して離して離して。
 依然として体の震えが止まらなかった。彼が。彼が。怪我をしてしまうかもしれない。私なんかと一緒にいたせいで、浴びなくてもいい火の粉を全身に浴びることになってしまうかもしれない。ああ、ああ。息が苦しい。頭が痛い。は、は、は。ズキズキズキ。息ができません。頭が割れそうです。
 狂いそうな私の目の前で、睨み合いが続いている。喧嘩が勃発してしまいそうだった。それでも彼は、どことなく落ち着いていた。目の色を変えながらも冷静に先のことを考え、相手を策略にかけるために事を運んでいるような。そんな策士的な雰囲気すら感じられた。怯えてばかりで何もできない私とは違う。
「すみませんが、こっちは全くもって楽しくありません。彼女も嫌がってるのに一人で興奮して、滑稽ですね」
「は?」
「聞こえませんでしたか。滑稽だって言ったんです。ナンパしてる俺かっこいい誘えば大体抱かせてくれる最高気持ちいい俺のもの今すぐ挿れて中に出してやりたいあー気持ちいい、とか妄想してるんですか」
「お前、馬鹿にしてんのか」
「そうですね。でも俺なら、いかにも遊んでそうなクズでも相手できますよ。俺、男がいいんで」
 遊び過ぎてるその陰茎、俺が咥えてあげましょうか。それとも逆がいいですか。俺が穴にぶち込んであげましょうか。思わず目を見開く。挑発と爆弾発言。彼の口から出る性を刺激する言葉の数々。なんだ此奴とでも言いたげに眉間に皺を寄せた男が、チッと短く舌打ちをして。きも。たった二文字を吐き捨てた。それから冷めたように私の手を乱暴に離し、再び舌打ち。日頃の鬱憤を晴らすかのように地面を強く蹴りつけて気怠そうに去っていった。
 緊張が解け、足の力が抜ける。大丈夫ですか、と咄嗟に私を支えてくれた彼は、いつもの優しい彼だった。先程の同性愛を匂わせる発言も、それによって男にきもいと拒絶されたことも、何一つ気にしている様子はない。あまりにもあっけらかんとしている。私はこんなにも動揺しているのに。彼に触れられていることにも。彼の恋愛対象が同性なんじゃないかということにも。彼の裏の顔を垣間見てしまったんじゃないかということにも。
 それでも、トラウマの元凶の男から解放されたことで、次第に落ち着きを取り戻し始める。彼は言葉少なめに背中をさすりながら、私を縁石に座らせた。近くに座れるようなベンチはなかった。ここは歩道だ。歩道で、あの男に声をかけられたのだ。
 背後で車が通り過ぎていく。都会ほど車の量は多くないけど、田舎の中でもそれなりに建物は多い地域だ。いつまでもここに座っているわけにはいかないだろう。
「怒鳴られて殴られるんじゃないかと内心ビビってました」
「え?」
 隣に座った彼が、ゆっくりと息を吐いた。ずっと気を張っていて、ようやく一息つけたかのように。一見平然としているように感じたけど、本当は底知れない勇気を振り絞って男に立ち向かってくれたんじゃないか。そう思うと、感謝するほどの嬉しさと同時に申し訳なさが募って。私は俯いてしまった。まだ、ありがとうを言えていないのに。
「挑発するのは得策ではないと思ったんですが、ちょっと我慢できなかったので。でも結果的に冷めてくれたので狙い通りです」
 同性愛を匂わせれば、ああいう女の子大好きー抱きたいー気持ちよくなりたいーって感じのちゃらんぽらんなプレイボーイは引くだろうなって思ったので言ってやりました。俺のこと知らない人で良かったです。それから俺、凄く下品なこと口走ってましたよね。すみません。完全に頭に血が上ってました。すみません。早口に喋って自分の発言を陳謝する彼に圧倒されて、あ、えと、と私は困惑しながら視線を彷徨わせた。とにかく、助けてくれてありがとうございますと伝えたいのに、口からは何も出てこない。その代わりに顔を出したのは。
「あ、あの、い、異性は、その、れ、恋愛、対象、じゃ、な、ない、ですか」
 彼は同性愛なんじゃないかという不安を感じた上での言葉だった。私は一体何を言っているのだろうと慌てて口を閉じるけど、彼の耳にはしっかりと届いてしまったのか、真剣な声色で返答された。思わず安心してしまう低めの声が、私の鼓膜を心地よく揺らす。
「俺の安易な発言で不安にさせてしまってすみません。男がいい、なんて嘘ですよ。咥えたくもないですし、ぶち込みたくもないです。俺の恋愛対象は異性なので。そうじゃなかったらキスなんかしません」
 キス、という単語に大袈裟なくらい反応する。彼にそれをされたことが蘇り、顔が茹で蛸のように赤くなるのが分かった。あ、う、と恥ずかしさに挙動不審になる私に向かって、彼は楽しそうに、顔、真っ赤ですよ。指摘して、更に私の体温を上げた。
「思い出しちゃいましたか。俺にキスされたこと」
「あ、や、い、いじ、わる、い、言わないで、ください」
 酷く恥ずかしがってしまう私を見て、可愛い、と彼が小さく呟くのが聞こえた気がした。言われ慣れていない単語に聞き間違いなんじゃないかと思うのに、胸の鼓動が治まらなかった。彼は余裕そうで、私だけがドキドキしている。
 胸を覆い尽くす羞恥心のせいで泣きそうになる私に、そろそろ行きますか、と何事もなかったかのように立ち上がった彼が手を差し伸べてきた。彼とその手を交互に見て、自分の手汗の確認をしてからゆっくりと腕を伸ばす。緊張で小刻みに震えていた。
 彼の細くて骨張った手に軽く触れると、そのまま一方的に握られて。私は体を引っ張られていた。その力強さに、穏やかで優しい彼も女の私とは違う男の子なんだと改めて実感した。高い身長も、大きな手も、低めの声も、抱き締められた時に感じた、細身なのにしっかりした体躯も、男の子そのものだ。
 握られた手が熱い。あの男に触れられた時と全然違う。私の手を離さず繋いだまま歩き出す彼に、私は後戻りできないほど惹かれ続けていた。この手を離したくない。離されたくない。彼とずっと一緒にいたい。
「あ、あの。た、助けて、くださり、あ、ありがとう、ございました」
 手を引かれながら、伝えたかった感謝をようやく口にする。彼は私を一瞥して、緩く口角を持ち上げた。俺も、助けられて良かったです。優しい声色に胸が締め付けられ、鼓動が高鳴る。顔を真っ赤に染めたまま、私は気持ちを伝えるようにぎこちなく彼の手を握り返したのだった。