シトシト降り続く雨は乾き切った路面を濡らし、歩道の真ん中を歩いていた男性の足元を滑らせた。激しくバランスを崩したその男性は、運悪く前のめりに転がり、車道に飛び出してしまった。不運は続くもので、そこにバイクが突っ込んでくる。十分に水分を吸い込んだ路面はブレーキを無視して車体をスリップさせ、その男性を巻き込んで店頭した。
 唯一幸運だったのは、そのバイクが原付バイクであったことだろう。救急車によって搬送されたものの、頭部の裂傷や数箇所の打撲以外の怪我もなく、1週間程度で退院できるとのことだ。

 ―――これが、私の目の前で起きた元カレの交通事故の全容。



 ヒタヒタと音を忍ばせ、私は薄暗い廊下を歩いている。数メートルおきに弱い光を放つ蛍光灯の灯りは、そこを通る人を判別するには心もとない。

「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
 私と同じ白衣の人とすれ違い、深々と会釈をする。

 壁にかかった時計は、午前2時を指している。静まり返った廊下には、ピッピッピッという規則的な電子音と、断続的な唸り声が響き始める。その中を、私は迷うことなく歩き続ける。
 ヒタヒタヒタヒタと、歩き続ける。

 ヒタヒタヒタヒタヒタヒタ。昼間に覚えたとおり、迷うことなく彼が入院している病室に辿り着く。そして、きちんと壁に掛けられている名札を確認し、音を立てないように扉を開けた。

 消灯を過ぎて5時間。音が遮断された暗闇の中に、安らかな呼吸音だけが微かに聞こえる。間違いなく熟睡している。
 胸元に差しているペンライトのスイッチを入れ、見回りのように室内に入っていく。そして、天井からぶら下がったカーテンの向こう側に、ようやく彼を見付けた。

 思わず笑みがこぼれる。
 イヒヒヒヒ。
 こぼれる笑い声を口ごと押さえ込むと、久しぶりに間近に見る彼の顔を覗き込んだ。


 ああ、変わらない。
 私の好きな人。
 愛しい人。
 どうやっても手放したくない人。

 突然の別れを告げられた日から、電話をしてくれなくなった。
 電話がつながらなくなった。
 メールに返事をしてくれなくなった。
 LINEが既読にならなくなった。
 着信拒否された。
 ブロックされた。
 すべての繋がりを断たれた。
 何もかも失った。

 でも、神様は私を見捨てなかった。
 偶然、私の目の前で交通事故に遭った。
 偶然、私は看護師だった。
 偶然、今日は夜勤ではなかった。
 偶然、必要なモノが揃っている。
 偶然、偶然が重なった。


 安らかに眠る彼の口に、薬品を浸したガーゼを押し付ける。
 1秒、2秒、3秒、4秒、5秒・・・これで、何が起きても彼が目覚める心配はなくなった。

 イヒヒヒヒヒヒ。
 付き合って2週間。こうして長い時間、彼の顔を眺めたことはなかった、これは、記録に残しておく必要がある。
 彼の顔を覗き込み、私はポケットからデジタルカメラを取り出した。至近距離から顔の写真を撮る。角度を変え、距離を変え、何枚も撮影する。

 よく考えてみると、私は彼のことをあまり知らない。
 私は、彼の全てが知りたい。
 私は、彼の全てが欲しい。
 私は、目の前にある全てが愛おしい。


 イヒヒヒヒヒヒッ。
 正確な身長を測るために布団を剥がし、全身を棒のように伸ばす。彼の引き締まった身体がピクピクと小刻みに震える。それも、ガーゼを口元に押し付けるとすぐに静まる。

 ああ、そういえば、血液型を知らなかった。採血もしておかなければいけない。大丈夫。採血が上手だって、先日亡くなったお爺さんが言ってくれたから。それにもし失敗しても、ここには私を叱る人なんていないから。
 別のポケットから注射器を取り出し、右手に持って構える。彼の腕に、私が持つ注射器の針がプスリと刺さる。

 イヒ、イヒ、イヒ。
 もう一回。
 イヒ、イヒ、イヒッ。
 もう一回だけ。
 イヒッ、イヒッ、イヒッ・
 あと一回で、本当に止めるから。

 注射器に彼の血液が溜まっていく。
 あふれるように、プクプクと容器を埋めていく血液。ほんの数秒で採血は完了する。名残惜しいが、仕方なく注射針を抜いた。


 アレアレ?
 注射針を抜いた場所から出血し、小さな血だまりができた。
 もったいない。
 吸い付く。
 口の中に彼が広がる。
 私と彼の血がひとつになる。

 アレアレ?
 もしかして、もっと大量の血があれば、もっともっと彼を感じることができるようになるのかな。
 ポケットの奥にしまいこんでいた輸血パックを取り出す。
 これに溜めれば、持って帰ることができる。

 注射器に溜まっている彼の血を、輸血パックに流し込む。
 何度も繰り返す。
 何度も、何度も繰り返す。
 7回目で、ようやく輸血パックがいっぱいになった。

 

 微かに廊下を歩く音が聞こえる。
 午前3時30分。
 当直の看護師が各病室の見回りをする時刻。
 スタスタスタと小気味良い足音が聞こえ、廊下を軽快にペンライトの光が揺れる。
 昨日、交通事故で搬送されてきた若い男性の病室に入ると、熟睡していることを確認して次の病室に向かう。

「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
 その一つ下の階で看護師がすれ違った。
 パンパンに膨れ上がったポケットを押さえ、見慣れない看護師が深々と頭を下げる。


 下の階を目指しながら、堪え切れず笑い声がこぼれてしまう。

 イヒヒヒヒヒヒヒ。
 明日は何をもらおうかな。

 イヒヒヒイヒイヒ。
 まだ6日も残ってる。

 イヒヒヒヒヒイヒ。
 明日は耳元で愛を語ろうかな。


 彼との幸せな未来を信じ、私は静かにまぶたを閉じる。
 また明日。
 また明日ね。


 私は貴方を愛してる。