部活に向かう井原を見送り、一人、放課後の教室で、真紘はずっと考えていた。
 自分はどうしたいのかを。

「あれ。碓井」

 来客用の昇降口の近くで、真紘が箒を動かしていると、ふいに自分の名前を呼ばれた。振り返ると、加賀が立っていた。加賀は、練習着に身を包んでおり、額や首筋に汗が伝っていた。今は放課後。そして、ここは体育館から少し遠いが、給水所があった。そこで、加賀が部活中で、給水か何かにきたのだと、真紘は察した。加賀が、真紘の隣にある給水タンクへ歩いてきた。

「何してんの?」
「ちょっと、掃除を」
「へえ。ここ、俺らの範囲だったか?」

 あたりを見渡しながら尋ねた。それからタンクに足をかける。だーっという唸るような音と一緒に、水がとびだした。加賀は、背をかがめて、水を口に含んだ。日焼けした肌と、濡れた髪がきらきらと光っていた。真紘はというと、少し答えに詰まってしまった。どう答えてもいい質問だったのだが、どう答えたものか、一瞬考えてしまった。

「範囲ではないかな」

 二拍ほど言いよどんでから、出た言葉はあいまいなもので、真紘自身困ってしまった。しかし、加賀は気にした風もなく顔を上げると、口元を拭った。

「そうか? じゃあ何で掃除してんだ?」
「うん。あの」
「碓井さん。どうしたの」

 加賀の視線は、威圧感というものがない。背も大きく、目元も鋭いのに不思議だった。真紘が箒を抱えながら、言葉を紡ごうとしたとき、後ろから声がかかった。

「阿古先生」
「あら、加賀君ね。二人で、話していたの」
「はい。そうっす」

 理科の阿古だった。阿古の手にはゴミ袋と箒が握られていた。阿古は、当然のように加賀の名前を呼ぶと、真紘と加賀の二人を見やった。加賀は、阿古の登場に少し驚いた顔をしたが、答えた。

「いいことよ。クラスメート仲良くするのはいいこと」

 阿古は、うんうんとうなずいて、にっこりと笑った。犬歯の金歯が光る。

「先生、掃除してるんすか」
「そうよ。ここらへんはね、皆のお掃除するところから、はずれてるけど、皆たくさん歩いているからね。放っておいたら、すぐ砂だらけになっちゃうの」

 加賀が、疑問をよこすと、阿古は何でもないように、腰に手を当てて、加賀に答える。ね、と阿古は真紘に笑いかける。真紘は、ほほえみ返した。
 阿古は、不登校の生徒のために個別で特別授業を開くなど、教育熱心であることで有名な教師だった。そして、その熱意は学び舎である校舎にも向けられていた。毎日歩き回っては、校舎を掃除して回っているのだった。

「学校でする勉強は、なにも教科書からだけじゃないのよ」

 阿古は理科室の水洗い場を磨きながら、いつも真紘に教えてくれた。真紘は、阿古の指導が嬉しかった。阿古の、生徒に対する熱心な関心が、いつもありがたかった。

「今日もたくさん砂が出たわ。あと、少しだけど、葉っぱもね」

 そう言って後ろを肩越しに振り向いて見せた。そこには、砂と葉っぱの山が集まっていた。

「わ、すげ。葉っぱって、この時期も結構落ちるんすね」
「ええ、秋じゃなくても、落ちてるのよ」
「それで、掃除してるんすか」
「そう。ね、碓井さん」
「はい」

 不意に振られて、真紘は少し驚きながら、うなずいた。加賀が、興味深げに真紘を見る。合点が行ったように、声を上げた。

「ああ。碓井、阿古先生の手伝いしてたのか」
「うん」
「碓井さんとはね、掃除とか、いろんな事をいつも、一緒にしてるのよ」
「へえ。すげーな」

 阿古が、少しいたずらっぽい顔で、加賀に言うと、加賀の感心した声が続く。真紘はありがたくも恥ずかしくて、箒を両手で握って小さくなった。

「そんなことないよ」

 言った声は、自分でも驚くほど小さかった。加賀が少し、きょとんとした顔をする。阿古は、真紘の背を軽く叩いた。

「何言ってるの。ほめ言葉は、ちゃんとうけなさい」
「先生」

 真紘が、窺うように見ると、阿古はにっこり笑った。真紘は、安心したように、口元を少しほころばせた。

「謙虚だな」
「そうね。あと、不安なのね。もっと、そういうところを、大丈夫だから、本当に大丈夫だから、皆にも開いて行きなさいって言ってるんだけどね」

 阿古と加賀が、ほがらかに笑う。真紘はなんだか、頬が熱っぽくて仕方なかった。箒から離した片手の甲で、触れるとものすごく熱かった。なんだか、とても暖かなところに置いてこられた気がした。

「――雄星。何してる」

 ふいに後ろから、男子生徒がやってきて、声をかけた。よく通る、涼やかな声だった。黒髪の細身の生徒で、加賀と同じ練習着に身を包み、緑のビブスをつけている。そして、加賀に劣らず長身だった。

「あ、直」

 加賀が振り返ると、直と呼ばれたその男子生徒は、メガネ越しで目を眇めた。それから真紘と阿古を一瞥すると、阿古に一礼した。

「水を飲むだけにどこまで行ってる。いくら休憩だからってたるみすぎだ」

 言うだけ言うと、きびすを返して去っていった。

「悪い。今行く」

 加賀は、その背に、声をかけると、後を追った。去り際、助走をつける前に、阿古と真紘を振り返って

「じゃあ、先生。碓井、またな」

 と言って笑むと、去っていった。阿古は、二人を見送ると、感心したように言った。

「本当に、気持ちがいいわねえ。私たちも、あと少ししたら片づけて、いきましょう」
「はい、先生」

 真紘は、答えながら、加賀の後ろ姿をずっと追っていた。阿古に促されるまで、ずっと追っていた。

「碓井さん」
「はい」

 ちりとりを持った阿古が、真紘に言う。あたたかで優しい声だった。

「ぶつかってみなさい。やっぱり、先生の相手するばかりじゃ、だめよ」

 真紘がはっとして、阿古を見る。阿古は笑っていた。

「そうね。たとえば、今から、体育館に行って、見てきたらいいわ。それだけでもいいのよ」
「先生」

 真紘は、何と言っていいかわからなかった。嬉しさや、不安や、いろんな感情があふれて、のどを塞いでしまった。

「大丈夫だから」

 真紘はうなずいた。手はずっと震えていた。

 片づけを終えて、真紘は一人、体育館に向かっていた。シューズの鳴る音と、かけ声と熱気が、ゆっくりと近づいてくる。体育館の入り口の暗い空間に入り込んでいくほど、自分の体の中でそれらが反響するのを感じた。
 入り口には扇風機がおかれ、体育館の熱気を逃がしていた。その隙間を縫うように、女子生徒たちが、入り口のドアの前に押し寄せて、明かりのついた体育館の中をのぞき込んでいた。

「熱がこもるから、ここでの見学は控えてね」

 言いながら、ジャージ姿の女子生徒たちが、その間を抜けていく。その子達に不満げな顔で、一時は皆どくのだが、時を置くとすぐにまた、のぞき込み出す。見れば、向かいのドアでも、女子生徒達がずらりと並んで、中を見て、歓声をあげていた。
 どうやって見よう。真紘は困ってしまった。すでに人がいっぱいである上に、どうやら、さっきのジャージ姿の女子生徒や教師の時折飛ぶ注意から、見学は歓迎されていないようだった。
 けれど、今は、それらがすべて言い訳になってしまう気がして、真紘は入り口の反対側にある、体育館の靴箱のもとで釘漬けになっていた。
 気合いの入ったかけ声が波になって聞こえてくる。人の陰が、走りすぎていくのがかろうじて見えた。遠くからでも、熱量が伝わってくる。
 ほんの少しだけでいいから見たい。
 平常の真紘らしからぬ、欲求だった。真紘は、ひかれるままに、そっと近づいて、人の隙間から、中をのぞいた。長身であることが幸いした。真紘は頭一つぶんほど余裕があった。
 コーチが何事か指示しているのを、コートの中にいる選手達が聞いている。その中に、加賀の姿があった。後ろ姿でもわかった。加賀は明らかに空気が違った。それは周囲の選手と比べて、という意味でも、クラスでの加賀と比べてという意味でも、二つ通った。
 コーチが張りのある声で、締めくくると、選手達が声をそろえて返事をした。気持ちいいほど精悍な声だった。笛の音とともに、選手達がコートに散っていく。ボールが入り、選手達の間で回されていく。
 黒髪の選手が、相手のディフェンスをかいくぐり、パスを出した。歓声があがる。走り込んでいた加賀が、どの手よりも早くそのボールを受けると。中に切り込んでいった。
 二人、三人のディフェンスを交わし、すっと伸び上がると、シュートを打った。
 放物線を描き、ボールがゴールに伸びていく。その一瞬間を、永遠の様に、真紘は息をのんで見ていた。
 音を立てて、ボールがゴールに吸い込まれた。
 一際大きな歓声があがった。真紘は、声も出せなかった。ただ、じっとその後も動き続けるボールと選手達を見ていた。
 加賀が、ボールをカットする。加賀は歓声なんて、全く聞こえていない様だった。ただ、その一瞬を走り抜けていた。
 仲間を鼓舞するかけ声、黒髪の選手と拳を交わす時の笑顔、何より、そのひたむきなまなざし――それは、生命力だった。体中から、熱量がほとばしっていた。まばゆさという言葉でもやさしいほどに、鮮烈に真紘の心に焼き付いた。

「もう、見ないでねー! 熱、が、こもるの!」

 怒りのこもった声で、再度注意されるまで、真紘はずっと周りの声を忘れていた。真紘は、怒った顔の女子部員――おそらくマネージャーだろう――に頭を下げると、その場を離れた。
 さめやらない気持ちをちらすように、体育館から離れ、走っていた。胸がどきどきしていた。体が熱かった。胸の前で、握りしめた手が熱い。手が脈打っていた。血が通っているんだ、そう思った。
 組んだ手を、額に当てた。

 ――神様。

 なぜだか祈りたいような気持ちだった。何か、とても熱くて美しいものが、強く心を吹き荒らしていったのだ。
 真紘は知らずのうちに、笑っていた。それなのに、どうしようもなく、泣きたい気もしていた。
 この気持ちを誰に伝えよう。
 浮かんだのは、どうしてか――父でも、阿古でも、母でもなく――加賀の顔だった。
 それから一晩寝ても、興奮がさめやらなかった。ずっと心の中で熱がともっていた。夢見心地で、席について、机のセピアを眺めていた。

「おはよう、碓井」
「加賀君、おはよう」

 加賀が、席に着いた。朝練の後なのか、熱が、ふっと降りてきた。真紘は無意識に加賀の背を見つめていた。
 ふいに加賀が振り返り、目があった。加賀は真紘がじっと見ているのに、少し不思議そうな顔をしたがふっと笑って

「どうした?」

 と尋ねてきた。

「うん」

 真紘は、口を開いた。まだ、心は夢に浮かされていた。

「あのね」


「――悪い、遅くなった」

 声をかけられて、真紘は意識が戻ってきた。気がつけば、教室はすっかり暗くて、ここで、自分は電気もつけずにずっと座っていたのだと思った。

「どうした? 真っ暗だぞ」

 加賀が、座っている真紘のところまで、歩いてきた。肩に鞄を背負っていて、制服は少し着乱れていた。そして少し、熱っぽかった。

「うん。ちょっと思い出してた」
「おう」

 真紘は、半ば、夢にいるような心地で、言葉を紡いでいた。

「初めて、バスケしてる加賀君を見たときのこと」

 加賀が、虚をつかれたような顔をして、それから少し身構えるそぶりをした。

「その日、ずっとぼーっとしてた。夢の中にいるみたいに」

 目をつむって、顔の前で手を合わせて、真紘は言った。
 あの時、自分は加賀に何を話したのだろう。熱にうかされすぎて、ほとんどわからなかった――ふと、そんな事が浮かんだが、すぐに思考の彼方へと、消えていってしまった。

「すごいなあ」

 真紘は、ほとんど独り言の体でつぶやいた。ほのかな高さのある声は、静かに夜の中に伸びていった。

「真紘」
「ありがとう、加賀君」

 真紘は、加賀の方を向くと、そっと笑った。自分でも、何を言っているのか、少しばらばらだと思った。加賀は、おそらく困っているだろう。けれど、結局、真紘の思いは、その言葉に返ってきてしまう。

「いてくれて、ありがとう」

 加賀が小さく息をのんだ。真紘は立ち上がると、鞄を肩に背負った。加賀の目を見ると、うすく微笑む。

「待たせちゃって、ごめんね。帰ろう」

 言うと、加賀の傍に並ぶ。加賀は、黙っていたが

「待ってたのは、お前だろ」

 とだけ、言った。そして、加賀は、教室の外へと向かった。真っ暗な廊下を、外の電灯だけが照らしていた。帰り道、二人とも何も言わなかった。けれど、それでよかった。
 
「また明日ね」

 十字路の分かれ道、黒の保冷バッグを受け取り、真紘が言った。加賀は、静かに真紘を見ていた。それからしばらくして、「おう」と答えた。

「また明日な」

 言葉は、そう続けられた。
 真紘はそれが嬉しかった。そして、こう思う。

 ちゃんと、ぶつかっていきたい。少しずつでもいいから。向き合うことから逃げたくない。