脱衣所の扉の前で、俺は右往左往していた。

「あったかかったねぇ。おかーさん」

 扉越しに、子供――ゆちあって名前だったか――が嬉しそうに喋っている声が聞こえる。

 だから、おかーさんってどういうことだよ。

「そうだね。体拭くからじっとして――あ、バスタオル……」

 彼女が戸惑いの言葉を発したのを聞き逃さずに扉をノックする。

「着替えとバスタオル持ってきたけど」

「え? あ、ありがとう」

「とりあえず廊下に置いとくから。下着は当然ないし、服も俺のしかないけど、いきなりだったんだから我慢しろよ」

 俺は二人分の着替えとバスタオルを床に置き、リビングに退散しようと――

「おとーさんありがと!」

 ゆちあの声が鼓膜を揺らした瞬間、足が動かなくなった。

 聞き間違いだよな?

 聞き間違いのはずだって。

 聞き間違いに決まってるさ。

 そう結論づけてリビングへ戻ろうとしたが、体の重心がどこにあるかわからなくてうまく歩けなかった。

 あるわけないじゃん。

 だって愛実としてないし。

 なんとかリビングまで戻り、L字ソファの端に座る。そのまま地獄まで落ちていきそうなほど、お尻が深く沈んだように感じた。

「おとーさん、なわけあるか」

 あの子供はいったいなんなのか。

 愛実がどうして子連れでここに来たのか。

 まずはその二点を問いたださないとなにも始まらない、と思っていた矢先。

「目標発見! ゆちあ隊長、突撃します! ばびゅーん!」

 ぶかぶかの灰色のパーカーを着たゆちあが、俺に向かって一直線。余った袖が可愛らしい。足の上に飛び乗られ、むぎゅっと顔を胸に押しつけられる。ゆちあの髪の毛はまだ濡れており、胸元が徐々に湿っていく。

「ちょっとゆちあ! 髪の毛まだ拭いてないでしょ!」

 続けてリビングに駆け込んできた愛実を見て――血液が沸騰した。

「おおおおおおおおい愛実」

 慌てて追いかけてきたのか、愛実は体にバスタオルを巻いただけだった。そのバスタオルも全身を覆うには丈が短く、歩くたびに太ももの間からその奥が見えそうになっている。

「こらゆちあ。ダメでしょ。風邪ひいちゃうから」

 愛実は自分の格好など気にする素振りも見せず、ゆちあの脇の下に手を入れてその小さな体を持ち上げる。

 マジでほんとのお母さんっぽいな。

 ってかすげーいい匂いしたんですけど。

 肌色見え過ぎなんですけど。

「えー。ゆちあ、おとーさんの膝の上に座ってたい!」

 唇を尖らせながら、首をぶんぶんと横に振るゆちあ。なにこの可愛らしい生き物。すっげーなでたいんですけど…………って。

 ゆちあは今、確実に俺のことを『おとーさん』と呼んだ。これはもう否定できない。しかもその時に、愛実がちらりと俺の方を見た気がした。

「髪の毛をちゃんと拭いてからね。ほら、戻りましょう」

 否定、しないんだな。

 俺のことをその子が『おとーさん』って呼んでること。

 なんだそりゃ。

「やだやだ。だってだってお膝の上に座ってぎゅってすれば、おとーさん成分たっぷり吸い込めるもん」

 ゆちあが手足をバタバタさせて駄々をこねる。

「だったら後でいっぱいぎゅーしなさい。わかった?」

「ううう、わかった。そうする」

 俺から少し離れたところで愛実がゆちあを下ろすと、ゆちあはしぶしぶって感じで首を縦に振った。

「じゃ、一度脱衣所に戻りましょう」

 愛実が少しだけ前かがみになってゆちあの肩を押していく。だからそうするとバスタオルがずり上がっておしりが……。

「はーい!」

 元気よく手を上げたゆちあは、続けてこう言った。

「でも、おかーさんもそうすればいいのに」

「「え?」」

 俺と愛実の声がシンクロする。

 そうすればって、さっきのゆちあみたいに俺に正面から抱き着いて――これ以上考えるな!

「ちょっとゆちあ、なに言いだすの?」

 俺の方をちらちらと振り返っている愛実は、顔を真っ赤に染めていた。

「だっておかーさん。さっきおとーさんが用意してくれた服に顔に埋めてたじゃん。さっきのゆちあみたいにお膝の上に座ってギュってすれば、そんなことしなくたっておとーさん成分たっくさーん取り込めるのに」

 今、愛実の顔が真っ赤になっているのと同じように、俺の顔も真っ赤になっていることだろう。

 ハダカノツグミガオレノヒザノウエニスワル――だから考えるなって!

「こここれは違うのよ智仁っ」

 愛実が手を右往左往させながら弁明し始めた瞬間、その事件は起こった。

 愛実のバスタオルがはだけ、ばさりと床に落ちたのだ。

 ダイアモンドよりも神々しい彼女の胸やくびれやおへそが見えたような――

「ちょっと部屋戻るわ!」

 俺は咄嗟にリビングを飛び出した。

 脱出理由が愛実のおっぱいやらを見た……じゃなくて見えそうになったことによる恥ずかしさだけならどれほどよかっただろう。

「俺には、家族なんて無理だよ」

 ゆちあから『おとーさん』と呼ばれると、本当にそうなってしまう気がして怖かった。

 階段を駆け上がり自分の部屋に飛び込む。

 ベッドにダイブし枕を抱きしめると、少しばかり心が落ち着いた。

「俺のせいで、全部、二つも、壊したんだから」

 誰も帰ってこないこの家に住むのももう慣れたと思っていたはずなのに、こんなにも簡単に過去のトラウマがよみがえってきて寂しくなるなんて。

「家族なんて、俺には無理なんだ」

「とーもーひーとー!」

 階段の下から叫んでいるのだろうか、愛実の大声が聞こえてきた。

「お風呂! 着替えとか終わったから! もう入っていいよ!」

「わかったよ!」

 愛実まで届くように大声で叫んだつもりだが、その声が本当に愛実まで届いたかはわからない。なにも聞こえなくなったので、きちんと届いたのか、それとも諦められたのか。

 どうでもいいかそんなこと。

「ゆちあ、か」

 お前はいったい誰なんだよ。

 ゆちあの笑顔を見ると、この世のすべてがどうでもいいと思えるくらい心が晴れわたる。

 どうやら、ゆちあの感情と俺の感情はリンクしているらしい。

 こんなの初めてだ。

 俺はとうとうストレスでおかしくなってしまったのだろうか。

「……風呂、入ろ」

 悩んでいたって『俺が全部悪いんだ』という答えしか出てこないことを知っているから、考えるのをやめた。

 熱いシャワーを浴びればこのわけのわからない感情も洗い流れるかな? なんてメルヘンなことを考えつつ、着替えとバスタオルをタンスから取り出して一階の脱衣所へ向かう。

 リビングの前を通った時、中からゆちあのはしゃぐ声が聞こえてなぜか心がほっとして落ち着きを取り戻していた。

 やっぱり、俺の心とゆちあの心はリンクしているみたいだ。

 まあ、脱衣所に入った後で、愛実の脱ぎ捨てられた水色のフリルのついた下着を洗濯かごの中から見つけて、心が荒れ狂ったんだけどね。