「せっかく別れたって言うのに、どうしてまたあの子は、こんなどうしようもないやつと」

 愛実の母親の言葉に込められている敵意に、俺はぞっと震えあがる。

 どういうこと、だ?

 おかしい。

 だって愛実のお母さんは、こんなにも冷たい顔で、こんなことを言う人じゃなかった。

「こんな落ちこぼれのために晴久さんが犠牲になったなんて、本当に報われない。愛実の人生までめちゃくちゃにして」

 あまりの毒を帯びた言葉に、俺は息をするのも忘れていた。体が固まって動かない。愛実の母親が俺のことを見る目は、死刑囚に浴びせるそれとなんら変わりなかった。

「智仁くん。あなた、これまでのこと、どう責任を取るつもり?」

「せきに……俺は」

「なんであなたは生きているの? 私の夫は死んだっていうのに。ふざけないで!」

 愛実の母親が声を荒らげる。

「ほんとはあなたの顔なんて見たくないのよ。今日だって私は必死で我慢して、なのにあなたはまた私の愛美をたぶらかそうとする。あなたを見ていると怒りしか湧かない。私の夫を奪ったくせにふざけないで」

 愛実の母親から、憎悪をまっすぐにぶつけられたのは、これが初めてだ。

 きっと、その思いをずっとひた隠しにして、これまで俺に偽の優しさを向けてきたのだろう。

「ねぇどうして? あなたは夫より価値のある人間なの? 神様が比較してそうしたのだから、きっとそうなのよね?」

 膝立ちで近づいてきた愛実の母親に胸倉を掴まれる。膝が湯呑みに当たってお茶が畳の上にこぼれた。輝きを失い、ただの暗黒となった愛実の母親の瞳が、俺の体を抉ろうとする。

「私はあなたなんか助けてほしくなかった。だってそうでしょ? あなたなんて、あの時まで顔も見たことなければ名前も知らなかった。そんな人間のことをいきなり大切に思えなんて無理な話でしょ? あなたより夫に生きてほしいと思うのは、間違ってないでしょ?」

 目を逸らしたいのに、逸らせない。

 逃げ出したいのに、逃げ出せない。

「本当はあなたなんか見捨ててほしかったの! 晴久さんが生きてほしかったの! あなたなんかより私たちを選んで、踏み止まってほしかったの!」

「それは、本当に、その通りで……」

「あなたなんかに同情されるなんて、虫唾が走るわ」

 愛実の母親は、俺を睨みつけながら泣いていた。

「はい。すみません」

 謝罪の言葉が口からこぼれる。

 愛実の母親は、俺に対する憎悪の感情をずっと押さえつけていた。娘の大好きな人だから、夫の行いは人間として正しいとわかっているから、これまで必死でその感情を殺してきたのだろう。

 愛実の母親の頬をまっすぐ流れ落ちていく涙を、俺は直視できなくなった。

「ねぇ? どうして愛実はあなたに会おうとするの? 愛実がおかしくなったあなたのせいよ。あなたが愛実に悪影響だったんだわ」

 今この場にナイフがあれば、俺は自分の心臓に突き立てていた。

 愛実の母親の言葉を、否定できない。

 愛実の父親だけでなく、愛実の母親にとっても、藤堂智仁という存在は悪でしかなかったのだ。

「あなたのせいで、私の人生も愛実の人生もめちゃくちゃよ!」

 正論過ぎて、言い返す言葉も浮かんでこない。

「ねぇ返してよ。あのころの愛実も、私の夫も、全部、全部あなたが奪ったんだから! 返しなさいよ! 本当に、私の全てを、返してちょうだい……お願いだから」

 俺の胸に額を押し当てて泣く愛実の母親。

 その姿を見て、ごめんなさいと謝罪することすらできなくなる。

 そんな陳腐な言葉で許されるはずがない。

 相手の感情を逆なでするだけだ。

「俺、帰ります。今日はいろいろと、本当に……」

 俺は、また逃げるのか。

 逃げるしかないからしょうがないじゃないか!

「もう、金輪際この家には近づきませんので」

 立ち上がると、愛実の母親は畳に這いつくばるようにして慟哭し始めた。俺が食べていた羊羹を手で薙ぎ払う。畳の上に落ちた羊羹を、拳で何度も叩き潰し始める。

「そんなの当然! はじめから! あんたなんか! そうするべきよ!」

「はい。もう帰ります」

 震える膝を手でさすりながら、仏間を出てふらふらと玄関まで歩く。

 立っているのがやっとだ。

 靴を履いた後で振り返っても廊下に愛実の母親の姿はなく、代わりに引きつるような呻き声だけが聞こえてきた。