今日も愛美はやってこなかった。

 メールをしても、電話をかけても反応なし。

 これで五日連続だ。

「おかーさん、今日も来ないね」

 ソファにちょこんと座ってテレビを見ているゆちあも、心なしかしょんぼりしているように見える。

「そうだな。勉強忙しいのかな」

 そんなゆちあの隣に座りながら話しかけると、

「おかーさん。勉強の方が大事なのかな?」

 ゆちあの大きな瞳に見つめられ、はっとした。

 たしかに愛美は、どちらをより大事に思っているのだろう。

「安心しろ。ゆちあのおかーさんは、ゆちあを一番大事に思ってるよ」

 それは俺の願望かもしれない。けど、これまでの愛美の言動を見て、他人がそう判断してもいいと思えたならそれは真実でいいのではないかと思う。

「そう、だよね。おかーさんは、ゆちあとおとーさんのことが一番大事なんだよね」

 寂しさが目元に残ってはいるが、ゆちあはにっこりと笑ってくれた。

 ゆちあとおとーさん。

 ゆちあはそう言ってくれた。

 もし愛美が俺たちのことを一番に思っているなら、俺自身が、愛実とゆちあのことが一番だと思っているなら、俺の取るべき行動は……。

 でも。

  ――お前みたいなやつをなんで救ってしまったんだろう。愛実が医者になる邪魔だけは絶対にするな。できればもうかかわらないでほしい。

 愛実のお父さんから浴びせられた言葉が、俺の勇気に蓋をしてしまう。

 俺は、愛実のお父さんに救われた人間なのだ。

 愛実のお父さんが生きるはずだった時間を奪い取った人間なのだ。

「おかーさん。明日は来てくれるよね」

 ゆちあの不安そうな顔を見るだけで苦しくなる。ダメだ。俺の感情が沈む分には構わないが、ゆちあを悲しませるのは違うと思う。

「智仁。ゆちあちゃん。ご飯できたよ」

 莉子の声がキッチンから聞こえてくる。愛実が来なくなったことを相談したら、

「だったら私がご飯くらいは作るよ。智仁は、ゆちあちゃんのことだけ考えてあげて」

 と莉子が言ってくれた。

「ゆちあ。ご飯できたって」

「……うん」

 俺は俯いたままのゆちあの手を引いて、ダイニングテーブルまで歩く。

「ほら、今日は肉じゃが作ってみました」

 その言葉通り、ダイニングテーブルの上にはごろごろしたジャガイモがいっぱいの肉じゃがが並べられている。愛実はもう少し小さく切るんだよなぁ、なんて思ったが、せっかく作ってくれているのだから文句は言えない。そもそもついこの前までは、誰かの手作り料理なんて食べられなかったんだ。贅沢は言えない。

 そう。

 ついこの前まで一人で食べるのが普通だったのに、人の普通は簡単に更新される。

 ゆちあと初めて出会った日、三人で夕食を取れることに幸せを感じて涙したのに、いつの間にかそれが普通になって、当たり前になって、もうなにも感じなくなっていた。

 愛実が来なくなってようやく、かつて涙したほどの幸せが当たり前になってしまったと気がついた。

 一人で食べる孤独にも、三人で食べる喜びにも人間は慣れてしまう。

 もしこのまま愛実が来なくなれば、いずれゆちあと二人で食べることも当たり前になって、なにも感じなくなるのだろうか。

 まあ、今は愛実の代わりに莉子がいるけど。

 愛実とゆちあと俺。

 莉子とゆちあと俺。

 人数は同じでも、作る料理の特徴が異なるのと同じように、決定的になにかが違う。

「今回のは自信作なんだよねぇ。隠し味も入れてあるから、なにか当ててみてね」

「ほぉ、そりゃ食べがいがあるな」

 莉子がエプロンを脱いで席に着くのを待って、三人で手を合わせていただきますを――ゆちあは声を発さなかった。

 俺はそれを注意できなかった。

「隠し味、どんなだろうなぁ」

 俺は明るいトーンを意識しながらそう言って、お肉を口に放り込む。

 肉にしみこんでいた甘辛い出汁が口の中にじゅわりと染みだした。

「やばいなこれ。すごくうまい」

「当然でしょ。莉子特製肉じゃがなんだから」

「でも隠し味は全然わからん」

「もっとよく味わって。ゆちあちゃんはどう思う?」

 莉子が、お皿の中のにんじんをお箸でつついていたゆちあに聞く。

「……おかーさんの味と違う」

 ゆちあは莉子の方を見もせずにそっけなく言った。

 子供はいつだって正直だ。

 それはいいことでもあり、悪いことでもある。

 場がぴきりと凍りついた。

「そうだよね。ごめんね。私が作ったもので」

 莉子は引きつったように笑う。

 俺はいたたまれなくて目を逸らした。

 莉子の目の前でゆちあに注意すると、かえって状況が悪くなるような気がして苦笑いしか浮かべられなかった。

 その後、俺たちは無言で食べすすめた。

 ゆちあは莉子が作った肉じゃがを半分以上残した。