それから一週間、夢見くんは学校を休み続けた。
病院に入院しているらしい。
「明日、夢見が学校に来るってさ」
「まじ? 復帰早くない?」
「なんでも夢見がそれを望んだって。学校行って、普通の生活がしたいってさ」
「ああ……なんかその気持ちわからなくもないかも。普段通り生活してれば家族もまだいる気がする的な?」
「でも八組のやつらちょっとかわいそうじゃない? 気まずすぎるだろ」
「一番かわいそうなのは夢見本人だろ?」
野球部の男子供が、教室の後ろで駄弁っている。
いや、彼らだけではない。
夢見くんが明日から学校に来るらしいぞと噂が立った日は、学校中がざわついていた。
結局、夢見くんの復学は翌週の月曜日からとなった。
当日は、学校全体がどこかおかしかった。
学校にいる誰もがいつも通りを意識していたせいで、学校全体が夢見くんという存在に気を遣っていたせいで、違和感が余計に際立ってしまったのだ。
愛実の教室でもそれは同じ。
夢見くんのことを話す時は、いつ本人が現れるかわからないので、小声で廊下を確認しながら。
他のクラスでさえそうなのだから、一年八組の人たちはさぞ苦しんでいることだろう。
愛実は、その日の授業に全く集中できなかった。
夢見くんが今日この学校に来ている。
その事実が、愛実から理性を奪おうとする。
大丈夫、だよね……。
実は今日、愛実は誰よりも早く学校に来て、夢見くんの机の中に手紙を忍ばせている。
夢見くんの机の場所は、彼が休んでいる間に調査済みだ。
トイレに行くふりをして授業中に抜け出し、八組の教室を覗いて誰も座っていない机を見つければいいだけだから。
《今日の放課後、誰にも言わずに、気づかれずに、西棟の三階の一番奥にある被服準備室に来てください。そこで事件のことについて、お話したいことがあります》
愛実が夢見くんに送った手紙にはそう書かれてある。
最後の授業を終えるころには、手先が痺れてシャーペンすら握れなくなっていた。
帰りのホームルームが終わると、愛実はすぐに鞄を持って立ち上がった。
誰よりも早く教室を出て西棟の三階へ駆け上がる。周囲に人がいないことを確認しながら、廊下の一番奥にある被服準備室の前まで進んだ。
「……よしっ」
小さな声で自分を鼓舞してから部屋に入る。
西棟の三階には○○準備室という部屋がいくつも並んでおり、普段はほとんど人がやってこない。この被服準備室だけ鍵が壊れているので、勝手に出入りできる。
被服準備室の中は少しだけ埃っぽかった。胴体だけのマネキンが壁際の棚の上に所狭しと並んでおり、ミシンもかなりの台数が置かれてある。
「大丈夫。大丈夫」
とりあえず部屋の電気をつけ、カーテンを閉める。窓際に置かれてあった丸椅子に座り、横の机に鞄を置いて彼の到着を待った。
時間が、とてつもなく長く感じる。
いくら待っても彼はやってこない。
「……どうして」
もしかすると、夢見くんは事件のことを思い出したくないのかもしれない。
この行動は夢見くんを傷つけるだけの、自分勝手な贖罪なのかもしれない。
それから三十分待っても彼はこなかった。
「そう、だよね」
カーテンを少しだけ開けると、真っ赤な夕日が目に飛び込んできた。
もう帰ろうと、鞄に手を伸ばしたその時。
被服準備室の扉が、がらりと動いた。
「ごめん。遅れて」
長身で細身、短い前髪を上げておでこを出している男が部屋に入ってきた。
「君が、俺を呼び出したんだよね?」
苦笑いを浮かべている夢見くんが後ろ手で扉を閉める。家族を失って間もないとは思えないほど朗らかな笑顔を浮かべていた。普通に、なんの苦労もなく生きてきた人のオーラを纏っていた。
「あ、はい。そうです」
緊張と不安が津波のように押し寄せてきて背筋が震える。立ち上がると、背骨に沿って汗が滴り落ちていった。
「本当にごめんね。クラスのみんなも今日は特に心配してくれてさ。ちょっと撒くのに時間かかって」
「わざわざ、ありがとうございます」
「待たせたのは俺の方なんだから、気にしないで」
白い歯をのぞかせて笑う夢見くんを見て、緊張が少しだけやわらいだ。
「で、話って、なに?」
夢見くんが近づいてくる。
その距離およそ一メートル。
「事件のこと、って書いてあったけど」
夢見くんのストレートな物言いに心臓が汗をかく。
伝えるのが、怖い。
でも言わなければ。
夢見くんのために、自分自身のために。
愛実は最大限の勇気を振り絞り、
「ごめん、なさい」
彼に向けて深々と頭を下げた。
こらえようとしているのに、目から涙が溢れてしまう。
本当に泣きたい思いをしているのは夢見くんの方なのに。
「え? いきなり……ん?」
「私のせいなんです。あなたの家族が殺されたのは」
夢見くんが息をのむ音が聞こえた。
「私が助けたから。勝手な正義感で、自己満足で自殺を止めたから、その人が殺人を犯してしまった。死にたがっている人を勝手に助けて、それでなんの罪もない夢見くんの家族が殺された」
「自殺……助け……て?」
「本当にごめんなさい。私がいなければ、あなたの家族が死ぬことはなかった。謝って済むとは思ってないけど、本当にごめんなさい」
愛実の謝罪の言葉が途切れた後、五秒、十秒と、重苦しい沈黙が続いた。
グラウンドから野球部の掛け声と、金属バットの甲高い音が飛んでくる。
「シンジャダメダトトメラレタ……」
と山城由美が言ったとされる言葉が上から降ってきた。
感情のない、ロボットみたいな声。
夢見くんがつぶやいたのだろうか。
本当に小さな声だったので空耳かもしれない。
「顔を上げて下さい。事情はわかったから」
今度は夢見くん声がのしっかりと聞こえた。
優しい声だ。
安心感が愛実の体を包み込む。
こんな声でしゃべれる人が、さっきあんな冷たい声を出したとは思えないので、きっと『シンジャダメダトトメラレタ』という言葉は気のせいだ。
「はい。ごめんなさい」
ゆっくりと顔を上げると、夢見くんは困ったように微笑んでいた。
「まあ、その……さ。俺も突然聞かされて、正直言って頭が混乱してる。でも話してくれて嬉しいよ。真実がわかってよかった」
夢見くんが笑顔を見せてくれた。
それがなにより嬉しかった。
これまで抱えていた自責の念が浄化していくようだった。
「本当にごめんなさい」
「もういいから。謝らないで」
夢見くんが心優しい人でよかった。
許してくれた。
今度は安堵の涙が溢れてきて、愛実はそれを手で拭い続ける。
「はい。本当にすみませんでした」
「だから謝らないでって。――――ムカつくから」
……え?
愛実の脳内は真っ白になった。
笑顔の夢見くんから放たれた言葉の棘が耳の中で暴れている。
よく見ると、彼の笑顔には全く感情が込められていなかった。
「謝ったって俺の家族は戻ってこない。君のせいだったんだ。ほんとよかったよ。真実がわかってさ」
「夢見くん?」
「俺さ、この手で復讐しようって決めてたんだよね。でもあの女は刑務所の中。死刑か無期懲役か、結局この手で処刑することはできないんだ」
夢見くんが一歩、二歩と歩み寄ってくる。
愛実は恐怖から後退したが、すぐに窓にぶつかって下がれなくなった。夢見くんに握りつぶされるんじゃないかってくらい強い力で手首を掴まれた。
「だから思ったね。このどうしようもない感情を、俺はどこに吐き出せばいいんだって!」
夢見くんは笑顔を浮かべたまま涙を流し始める。
「でも、こんな身近にその対象がいたなんて。俺は幸せだ。お前がいなければ俺の家族が死ぬことはなかったんだ」
夢見くんは笑顔のまま泣いている。
愛実はなにも言い返せなかった。
「お前の大事なもん全部奪ってやるよ。殺してやるよ! お前の家族も友達も! お前にも俺と同じ気持ちを味合わせてやる!」
「それだけは……やめて」
愛実は必死で声を絞り出した。
智仁の笑顔が、ゆちあの笑顔が消えていく場面が、脳裏に浮かんだからだ。
「ふざけんなよ! そんなの都合よすぎだろ!」
「お願い! それだけはやめて! 私ならいくら傷つけてもらってもいい! だから!」
その瞬間、夢見くんが不敵な笑みを見せた。
「その言葉、忘れんなよ。俺はいつ殺したっていいんだから」
ごめん、智仁、ゆちあ。
「俺の大切な人はもう、いないんだから」
夢見くんの笑っているのか泣いているのか怒っているのかわからない顔を見ながら、愛実は心の中でひたすら二人に謝った。
病院に入院しているらしい。
「明日、夢見が学校に来るってさ」
「まじ? 復帰早くない?」
「なんでも夢見がそれを望んだって。学校行って、普通の生活がしたいってさ」
「ああ……なんかその気持ちわからなくもないかも。普段通り生活してれば家族もまだいる気がする的な?」
「でも八組のやつらちょっとかわいそうじゃない? 気まずすぎるだろ」
「一番かわいそうなのは夢見本人だろ?」
野球部の男子供が、教室の後ろで駄弁っている。
いや、彼らだけではない。
夢見くんが明日から学校に来るらしいぞと噂が立った日は、学校中がざわついていた。
結局、夢見くんの復学は翌週の月曜日からとなった。
当日は、学校全体がどこかおかしかった。
学校にいる誰もがいつも通りを意識していたせいで、学校全体が夢見くんという存在に気を遣っていたせいで、違和感が余計に際立ってしまったのだ。
愛実の教室でもそれは同じ。
夢見くんのことを話す時は、いつ本人が現れるかわからないので、小声で廊下を確認しながら。
他のクラスでさえそうなのだから、一年八組の人たちはさぞ苦しんでいることだろう。
愛実は、その日の授業に全く集中できなかった。
夢見くんが今日この学校に来ている。
その事実が、愛実から理性を奪おうとする。
大丈夫、だよね……。
実は今日、愛実は誰よりも早く学校に来て、夢見くんの机の中に手紙を忍ばせている。
夢見くんの机の場所は、彼が休んでいる間に調査済みだ。
トイレに行くふりをして授業中に抜け出し、八組の教室を覗いて誰も座っていない机を見つければいいだけだから。
《今日の放課後、誰にも言わずに、気づかれずに、西棟の三階の一番奥にある被服準備室に来てください。そこで事件のことについて、お話したいことがあります》
愛実が夢見くんに送った手紙にはそう書かれてある。
最後の授業を終えるころには、手先が痺れてシャーペンすら握れなくなっていた。
帰りのホームルームが終わると、愛実はすぐに鞄を持って立ち上がった。
誰よりも早く教室を出て西棟の三階へ駆け上がる。周囲に人がいないことを確認しながら、廊下の一番奥にある被服準備室の前まで進んだ。
「……よしっ」
小さな声で自分を鼓舞してから部屋に入る。
西棟の三階には○○準備室という部屋がいくつも並んでおり、普段はほとんど人がやってこない。この被服準備室だけ鍵が壊れているので、勝手に出入りできる。
被服準備室の中は少しだけ埃っぽかった。胴体だけのマネキンが壁際の棚の上に所狭しと並んでおり、ミシンもかなりの台数が置かれてある。
「大丈夫。大丈夫」
とりあえず部屋の電気をつけ、カーテンを閉める。窓際に置かれてあった丸椅子に座り、横の机に鞄を置いて彼の到着を待った。
時間が、とてつもなく長く感じる。
いくら待っても彼はやってこない。
「……どうして」
もしかすると、夢見くんは事件のことを思い出したくないのかもしれない。
この行動は夢見くんを傷つけるだけの、自分勝手な贖罪なのかもしれない。
それから三十分待っても彼はこなかった。
「そう、だよね」
カーテンを少しだけ開けると、真っ赤な夕日が目に飛び込んできた。
もう帰ろうと、鞄に手を伸ばしたその時。
被服準備室の扉が、がらりと動いた。
「ごめん。遅れて」
長身で細身、短い前髪を上げておでこを出している男が部屋に入ってきた。
「君が、俺を呼び出したんだよね?」
苦笑いを浮かべている夢見くんが後ろ手で扉を閉める。家族を失って間もないとは思えないほど朗らかな笑顔を浮かべていた。普通に、なんの苦労もなく生きてきた人のオーラを纏っていた。
「あ、はい。そうです」
緊張と不安が津波のように押し寄せてきて背筋が震える。立ち上がると、背骨に沿って汗が滴り落ちていった。
「本当にごめんね。クラスのみんなも今日は特に心配してくれてさ。ちょっと撒くのに時間かかって」
「わざわざ、ありがとうございます」
「待たせたのは俺の方なんだから、気にしないで」
白い歯をのぞかせて笑う夢見くんを見て、緊張が少しだけやわらいだ。
「で、話って、なに?」
夢見くんが近づいてくる。
その距離およそ一メートル。
「事件のこと、って書いてあったけど」
夢見くんのストレートな物言いに心臓が汗をかく。
伝えるのが、怖い。
でも言わなければ。
夢見くんのために、自分自身のために。
愛実は最大限の勇気を振り絞り、
「ごめん、なさい」
彼に向けて深々と頭を下げた。
こらえようとしているのに、目から涙が溢れてしまう。
本当に泣きたい思いをしているのは夢見くんの方なのに。
「え? いきなり……ん?」
「私のせいなんです。あなたの家族が殺されたのは」
夢見くんが息をのむ音が聞こえた。
「私が助けたから。勝手な正義感で、自己満足で自殺を止めたから、その人が殺人を犯してしまった。死にたがっている人を勝手に助けて、それでなんの罪もない夢見くんの家族が殺された」
「自殺……助け……て?」
「本当にごめんなさい。私がいなければ、あなたの家族が死ぬことはなかった。謝って済むとは思ってないけど、本当にごめんなさい」
愛実の謝罪の言葉が途切れた後、五秒、十秒と、重苦しい沈黙が続いた。
グラウンドから野球部の掛け声と、金属バットの甲高い音が飛んでくる。
「シンジャダメダトトメラレタ……」
と山城由美が言ったとされる言葉が上から降ってきた。
感情のない、ロボットみたいな声。
夢見くんがつぶやいたのだろうか。
本当に小さな声だったので空耳かもしれない。
「顔を上げて下さい。事情はわかったから」
今度は夢見くん声がのしっかりと聞こえた。
優しい声だ。
安心感が愛実の体を包み込む。
こんな声でしゃべれる人が、さっきあんな冷たい声を出したとは思えないので、きっと『シンジャダメダトトメラレタ』という言葉は気のせいだ。
「はい。ごめんなさい」
ゆっくりと顔を上げると、夢見くんは困ったように微笑んでいた。
「まあ、その……さ。俺も突然聞かされて、正直言って頭が混乱してる。でも話してくれて嬉しいよ。真実がわかってよかった」
夢見くんが笑顔を見せてくれた。
それがなにより嬉しかった。
これまで抱えていた自責の念が浄化していくようだった。
「本当にごめんなさい」
「もういいから。謝らないで」
夢見くんが心優しい人でよかった。
許してくれた。
今度は安堵の涙が溢れてきて、愛実はそれを手で拭い続ける。
「はい。本当にすみませんでした」
「だから謝らないでって。――――ムカつくから」
……え?
愛実の脳内は真っ白になった。
笑顔の夢見くんから放たれた言葉の棘が耳の中で暴れている。
よく見ると、彼の笑顔には全く感情が込められていなかった。
「謝ったって俺の家族は戻ってこない。君のせいだったんだ。ほんとよかったよ。真実がわかってさ」
「夢見くん?」
「俺さ、この手で復讐しようって決めてたんだよね。でもあの女は刑務所の中。死刑か無期懲役か、結局この手で処刑することはできないんだ」
夢見くんが一歩、二歩と歩み寄ってくる。
愛実は恐怖から後退したが、すぐに窓にぶつかって下がれなくなった。夢見くんに握りつぶされるんじゃないかってくらい強い力で手首を掴まれた。
「だから思ったね。このどうしようもない感情を、俺はどこに吐き出せばいいんだって!」
夢見くんは笑顔を浮かべたまま涙を流し始める。
「でも、こんな身近にその対象がいたなんて。俺は幸せだ。お前がいなければ俺の家族が死ぬことはなかったんだ」
夢見くんは笑顔のまま泣いている。
愛実はなにも言い返せなかった。
「お前の大事なもん全部奪ってやるよ。殺してやるよ! お前の家族も友達も! お前にも俺と同じ気持ちを味合わせてやる!」
「それだけは……やめて」
愛実は必死で声を絞り出した。
智仁の笑顔が、ゆちあの笑顔が消えていく場面が、脳裏に浮かんだからだ。
「ふざけんなよ! そんなの都合よすぎだろ!」
「お願い! それだけはやめて! 私ならいくら傷つけてもらってもいい! だから!」
その瞬間、夢見くんが不敵な笑みを見せた。
「その言葉、忘れんなよ。俺はいつ殺したっていいんだから」
ごめん、智仁、ゆちあ。
「俺の大切な人はもう、いないんだから」
夢見くんの笑っているのか泣いているのか怒っているのかわからない顔を見ながら、愛実は心の中でひたすら二人に謝った。