愛実が橋の上で女の自殺を止めた翌日。

 愛実は学校に行く前にお父さんの仏壇の前に座り、線香を立てて手を合わせた。

「お父さん。私もね、人を救ったんだよ」

 ゆっくりと目を開けると、写真の中のお父さんの口角が少しだけ上がったように見えた。

「じゃ、今日も一日頑張ってくるね。いってきます」

 写真の中で微笑むお父さんに手を振って、仏間を後にする。リビングのソファの上に置いていた鞄を肩に担ぎ、キッチンで洗い物をしているお母さんに声をかけた。

「いってきます」

「……」

 お母さんは返事をしてくれない。

 昨日の夜から喧嘩中なのだ。

 原因はもちろん、お母さんに医者を目指さないと伝えたから。

「あのね、お母さん。私はもう医者を目指さない。他に叶えたい夢があるの」

「どうしてそんなことを言うの? あなたはお父さんの遺志を継いで医者になるんでしょ?」

「ごめんお母さん。でも私、決めたから」

「どうして?」

「決めたから」

 言い争いは平行線をたどり、今はちょっとした冷戦状態。

 だけど、お母さんならいつかわかってくれると信じている。だって朝ご飯はちゃんと用意してくれたから。

「今日も友達の家で勉強会するから、夜ご飯はいらない」

「あっそ」

 お母さんから短い返事が返ってくる。

 もうそろそろ、お母さんも疑い始めるころかな?

 医者を目指さないと宣言した以上、理由が勉強会もおかしい。秘密にし続けるなら、別の理由を考えなくちゃ――って今はそんなことよりも、今日の晩御飯なに作るか考えないと。

 頬が緩む。

 智仁とゆちあのために晩御飯のメニューを考えるのが、最近の一番の幸せだ。

「うん。ごめんね。いってきます」

 お母さんの背中に謝ってからリビングを出ようとした時、不意にテレビ画面が目に入った。

 いつもなら朝のニュースやってるなぁくらいにしか思わないのに、ニュースの見出しに愛実の住んでいる市、春浪市の名前が入っていたので、今日は足を止めた。

 春浪市一家五人殺害事件。

 画面には、赤い屋根が特徴の一軒屋が映っている。

「本日午前三時ごろ、春浪駅南交番に、『人を殺しました』と血まみれの服を着た女性が出頭しました。警察がその女の証言した住宅に向かうと、ナイフでめった刺しにされた五人の遺体を発見。警察は殺人容疑で、住所不定無職の――」

 鳥肌……いや、戦慄が体中を襲った。

 テレビ画面には、長髪で、黒いワンピースを着て、赤いハイヒールを履いた女が映っていた。

 手錠をはめられて警察官に挟まれながらパトカーに乗り込んでいる。

 車内で不気味に笑ったところでその映像が止まった。

「昨日、の」

 眉間の奥に冷たいなにかが生まれた。

 そこから痛みが全身に広がって、細胞一つひとつが不気味にざわめき始める。

「嘘っ! これすぐ近くじゃない」

 お母さんの驚く声がして、はっと我に返る。

 ちょっと黙れよ。

「警察の取り調べによりますと、山城由美(やましろゆみ)容疑者は、『自分で死のうと思ったが、死んじゃダメだと止められた。だから死刑になって、国に殺してもらおうと思った』などと供述しているということです」

 濁流にのみ込まれてしまったかのように、目の前が真っ暗になった。

 肩から鞄が滑り落ちて、床とぶつかり、ドン、という音がした。




 自転車で駅に向かう途中、カメラマンと記者のグループとすれ違った。

 きっと彼らは、今日報道されていた殺人事件の取材に来ている。電車の中も、いつもとは違ってざわついている気がした。

「ってかやばくない? 今朝のニュース見た?」

「見た見た。五人とか殺し過ぎじゃね?」

 隣の女子高生二人組の会話が耳に入ってきた。

 いいからちょっと黙れよ。

「でも自首したから死刑回避成功的な?」

「なわけないっしょ。しかも反省とか全くしてない感じじゃん。死刑決定だよ」

「あはは。ご愁傷様」

 近くで起きたというのに、まったくの他人ごと。殺された人を悼むわけでもない。こいつらの興味は死刑判決が出るか出ないかだけ。

 私だってそんな風にこの事件を捉えたかった、と愛実は奥歯を噛みしめる。

 学校も、今朝報道された殺人事件の話題で持ちきりだった。

 昇降口で靴を脱いでいる時から鼓膜を破り捨てたかったが、愛実は平静を装い続けた。階段を上っている最中に、みんなの顔が街の人間とは少し違うことに気づいた。
 
 その話をする誰もが、少しだけにやついているのだ。

 理由はすぐにわかった。

 教室に到着し自分の席に着くと、クラスメイトの畠山(はたけやま)さんが駆け寄ってきた。

「ねぇ愛実。聞いた?」

「聞いたって?」

「今朝の殺人事件のことだよ」

「報道で見たよ」

「ひどいよね。五人もでしょ? 理解できないよ」

「理解できたら逆にすごいよ」

 だから、ちょっと黙れよ。

 愛実は荒れ狂う心臓に気づかないふりをしつつ、鞄の中から数学の教科書を取り出した。

「でさぁ愛実。実はね、ここだけの話なんだけど」

 畠山さんの顔に影ができる。

 先程よりも明らかに声が小さい。

「え……なに?」

「いや……なんていうか」

 畠山さんは一度言葉を止めて、周囲を確認してから、

「実はね、一人だけ生き残りがいるらしいの」

「生き残り?」

「うん。しかもその生き残りがね、うちの学校の一年生で、八組の人らしいよ」

 その言葉は愛実の胸をぐさりと貫いた。

「へ、へぇ、そうなんだ。だけど、ど、どうやってその情報を?」

「私も詳しくは知らないんだけど、クローゼットの中に隠れて難を逃れたって。でも本当ひどいよね。自分以外の家族が殺されるんだよ。死にたいんなら勝手に死ねって感じじゃない?」

 畠山さんの言葉にはたしかな怒りがこもっている。

「で、でもさ、それってあくまでも噂なんでしょ?」

「八組の人のこと?」

「うん」

「まあ、たしかに私もまた聞きだから、本当かどうかはわからないけど」

 畠山さんは眉をひそめながらそう前置きしたうえで、

「でもさ、夢見(ゆめみ)なんて苗字そういないじゃん。それに夢見くんと同中だった子の話によると、あの赤い屋根の家、間違いなく夢見くんの家らしいよ」

「ほら席につけー。ホームルーム始めるぞー」

 担任の間延びした声が聞こえ、ざわついていた教室が静まっていく。

 話を中断した畠山さんは、「またあとでね」と胸の前で手を振りながら自分の席に戻っていった。

 それから、愛実はただひたすらに前を向いて、担任の話を聞いているふりをした。

 背中から噴き出る汗は止まらない。

 ――死にたいなら勝手に死ねばいいって感じじゃない?

 と畠山さんは怒りをあらわにした。

 ――死刑決定じゃない?

 ――あはは。ご愁傷様。

 と女子高生たちは笑い合っていた。

 なにそれ。

 自分は昨日、そんな殺人犯の命を救った。

 ありえない。

 こんなの。

 救わなかった方がよかったみたいじゃん。

 あいつを救ったせいで、夢見くんの家族が死んだってこと?

 昨日感じていたはずの暖かさが胸の中から消滅している。指先の震えを止めたくて強く握りしめると、掌に爪がめり込んで痛かった。

 その日の午後。

 急遽開かれた全校集会で、今回の殺人事件のこと、一年八組の夢見賢太郎(けんたろう)くんの家族が被害に遭ったことが、校長の口から語られた。