その日は、愛実にとって人生で一番楽しい日となった。
智仁とゆちあと遊園地に行き、帰りに願いの灯を見るという家族デートができたからだ。
愛実は、大切な思い出を心の奥底に丁寧にしまい込みながら、玄関に立つ智仁に向けて手をふった。智仁に背負われているゆちあは、はしゃぎ疲れたのだろう、すやすやと眠っている。
「じゃあまた明日ね」
「ああ、また」
二人に背を向けた瞬間から、もう智仁とゆちあに会いたくなってしまう。ダメだな私、帰って勉強しないと……と愛実は目を閉じで、人差し指と中指でまぶたの上から眼球を押しこんだ。
こうやって愛実はいつも気持ちを切り替えている。
藤堂家のガレージに止めておいた自転車に跨り、思い切りペダルを漕いだ。
風を切って、住宅街をグングン進む。
夜風がすごく心地よい。
このT字路を左に曲がると深緑の欄干が特徴の橋があって、それを渡れば高級住宅街エリアに入る。
橋の前にたどり着くと、この時間にしては珍しく人を発見した。
黒のワンピースを着た女の人が橋の中央で、水面をじいっと見下ろしている。
なにしているんだろう。
愛実は橋の手前でブレーキーかけた。
街灯に照らされたその女は真っ赤なハイヒールを履いており、長い髪の毛が風で揺れている姿は不気味で儚げで美しい。高級な絵画でも見ているかのようだ。
「あーした天気になーれ」
その女はいきなり体を反転させ、右足のハイヒールを車道へ蹴飛ばした。
「こんなんで天気なんかわかるわけねーだろ!」
そう叫びながら、左の靴も同様に脱ぎ捨てる。
あ、この人もしかしなくてもやばい人だ。
かかわらない方がいいかもしれない。
愛実が警戒心を強めた、次の瞬間。
「そうよ! そうそうそう! 結局そうなのよ!」
突然、女が頭を抱えながら絶叫した。悪霊に取り憑かれたかのように頭を掻きむしり、欄干から身を乗り出そうとする。
「あ……ダメっ!」
気がつけば、愛実は自転車を飛び降りていた。その女の人に向かって走る。がしゃん。後ろで自転車が倒れる音がしたのと、愛実が女の人に飛びついて、一緒に歩道に倒れ込んだのはほぼ同時だった。
「なにやってるんですか!」
愛実は叫んでいた。
下敷きにしている女の瞳は小刻みに震えている。
「死んじゃ、ダメです。こんなの、誰も望んでません」
見ず知らずの女の上で、言葉の限りを尽くして必死で説得する。
「生きましょうよ。死んじゃダメです」
「……死んじゃ、ダメ?」
女の両手が愛実の頬に伸び、顔を手で挟まれる。
「私は、死んじゃダメなの?」
女の目から涙がこぼれた。
「そうです。生きてください」
「私は、死んじゃダメなのね」
女が愛実の下から這いずり出る。
車道に転がっていたハイヒールを履いて、倒れている愛実の自転車を立ててからその場を去った。
「……よかっ、た」
一気に体の力が抜けていく。
立ち上がれない。
欄干に背中を預けて座る。
「私も、人を救ったんだ」
たった今、彼女の自殺を止めた。
誰かを死から救った。
「お父さん、私、やったよぉ」
拳を空に突き上げる。
雲の切れ間から満月が見えた。
お父さんの笑顔が、その輝きの中に浮かんでいる気がする。
「……いつっ」
急に右肘が痛み始める。
見てみると五百円玉くらいの大きさのすり傷ができていた。
「言いわけ、自転車で転んだでいっか」
これは名誉の負傷だ。
人を救うってこんなに気持ちいいんだ。
愛実は心の中で歓喜した。
「人を救ったから……もう、いいよね。お父さん」
ポケットから手帳型スマホケースを取り出す。定期の裏側に忍ばせてある折りたたまれた紙を広げると、今でもあの日のことを鮮明に思い出せる。
この短冊は、自分を縛りつけるためのお守りでもあり呪いでもあるのだ。
お父さんとお母さんの意思を継ぐんだという覚悟を失わないため、愛実はこの短冊を持ち続けてきた。
その短冊には、こう書かれていた。
【大きくなったらお父さんみたいな医者になりたい】
愛実はこれを願いの灯には入れていない。
入れる直前で、別の紙にすり替えた。
みんなに見せびらかしたのは、お母さんに『私は医者になりたいと願ったよ』という意識を植えつけさせるため。
と、恥ずかしかったから。
「お父さん、私ね。別の夢があるんだ」
実は、愛実は本気で医者になりたいと思ったことなどなかった。
お父さんが死んで憔悴しきっていたお母さんに、
「あなたがお父さんの遺志を受け継ぐのよ」
と言われたから、お母さんのために医者になろうとしただけだ。
「もう私、人を救ったよ。医者にならなくても、人は救えるんだよ」
そんな当たり前の事実が、愛実に勇気を与えていた。
「私のせいで誰かが傷つくのは嫌だよ。笑顔が見たいよ」
愛実は、自分に勉強の才能があることを知っている。
そのせいで智仁も、智仁以外の人も数多く傷つけてきた。
「でも、それも今日でおしまい」
愛実は【大きくなったらお父さんみたいな医者になりたい】という願いが書かれた紙をびりびりと破り捨てる。
「こんなもの、もういらない」
医者にならなくても人を救えることを知った。体感した。ゆちあと智仁と一緒に過ごす時間が本当に楽しくて、愛実はようやく決意できたのだ。
帰ったらすぐにお母さんに伝えないといけない。
お父さんの意思を、お母さんの望みを、私はもう叶えないと。
「許してくれるよね、きっと」
夜空を見上げると、流れ星がひゅんと瞬いた。愛実は慌てて、あの日願いの灯に入れた本当に叶えたかったことを願う。
「これで……私は」
愛実の胸には暖かい未来へ希望があふれていた。
しかし、この時の愛実はまだ知らないのだ。
智仁とゆちあと会えなくなる運命が待っていることを。
智仁とゆちあと遊園地に行き、帰りに願いの灯を見るという家族デートができたからだ。
愛実は、大切な思い出を心の奥底に丁寧にしまい込みながら、玄関に立つ智仁に向けて手をふった。智仁に背負われているゆちあは、はしゃぎ疲れたのだろう、すやすやと眠っている。
「じゃあまた明日ね」
「ああ、また」
二人に背を向けた瞬間から、もう智仁とゆちあに会いたくなってしまう。ダメだな私、帰って勉強しないと……と愛実は目を閉じで、人差し指と中指でまぶたの上から眼球を押しこんだ。
こうやって愛実はいつも気持ちを切り替えている。
藤堂家のガレージに止めておいた自転車に跨り、思い切りペダルを漕いだ。
風を切って、住宅街をグングン進む。
夜風がすごく心地よい。
このT字路を左に曲がると深緑の欄干が特徴の橋があって、それを渡れば高級住宅街エリアに入る。
橋の前にたどり着くと、この時間にしては珍しく人を発見した。
黒のワンピースを着た女の人が橋の中央で、水面をじいっと見下ろしている。
なにしているんだろう。
愛実は橋の手前でブレーキーかけた。
街灯に照らされたその女は真っ赤なハイヒールを履いており、長い髪の毛が風で揺れている姿は不気味で儚げで美しい。高級な絵画でも見ているかのようだ。
「あーした天気になーれ」
その女はいきなり体を反転させ、右足のハイヒールを車道へ蹴飛ばした。
「こんなんで天気なんかわかるわけねーだろ!」
そう叫びながら、左の靴も同様に脱ぎ捨てる。
あ、この人もしかしなくてもやばい人だ。
かかわらない方がいいかもしれない。
愛実が警戒心を強めた、次の瞬間。
「そうよ! そうそうそう! 結局そうなのよ!」
突然、女が頭を抱えながら絶叫した。悪霊に取り憑かれたかのように頭を掻きむしり、欄干から身を乗り出そうとする。
「あ……ダメっ!」
気がつけば、愛実は自転車を飛び降りていた。その女の人に向かって走る。がしゃん。後ろで自転車が倒れる音がしたのと、愛実が女の人に飛びついて、一緒に歩道に倒れ込んだのはほぼ同時だった。
「なにやってるんですか!」
愛実は叫んでいた。
下敷きにしている女の瞳は小刻みに震えている。
「死んじゃ、ダメです。こんなの、誰も望んでません」
見ず知らずの女の上で、言葉の限りを尽くして必死で説得する。
「生きましょうよ。死んじゃダメです」
「……死んじゃ、ダメ?」
女の両手が愛実の頬に伸び、顔を手で挟まれる。
「私は、死んじゃダメなの?」
女の目から涙がこぼれた。
「そうです。生きてください」
「私は、死んじゃダメなのね」
女が愛実の下から這いずり出る。
車道に転がっていたハイヒールを履いて、倒れている愛実の自転車を立ててからその場を去った。
「……よかっ、た」
一気に体の力が抜けていく。
立ち上がれない。
欄干に背中を預けて座る。
「私も、人を救ったんだ」
たった今、彼女の自殺を止めた。
誰かを死から救った。
「お父さん、私、やったよぉ」
拳を空に突き上げる。
雲の切れ間から満月が見えた。
お父さんの笑顔が、その輝きの中に浮かんでいる気がする。
「……いつっ」
急に右肘が痛み始める。
見てみると五百円玉くらいの大きさのすり傷ができていた。
「言いわけ、自転車で転んだでいっか」
これは名誉の負傷だ。
人を救うってこんなに気持ちいいんだ。
愛実は心の中で歓喜した。
「人を救ったから……もう、いいよね。お父さん」
ポケットから手帳型スマホケースを取り出す。定期の裏側に忍ばせてある折りたたまれた紙を広げると、今でもあの日のことを鮮明に思い出せる。
この短冊は、自分を縛りつけるためのお守りでもあり呪いでもあるのだ。
お父さんとお母さんの意思を継ぐんだという覚悟を失わないため、愛実はこの短冊を持ち続けてきた。
その短冊には、こう書かれていた。
【大きくなったらお父さんみたいな医者になりたい】
愛実はこれを願いの灯には入れていない。
入れる直前で、別の紙にすり替えた。
みんなに見せびらかしたのは、お母さんに『私は医者になりたいと願ったよ』という意識を植えつけさせるため。
と、恥ずかしかったから。
「お父さん、私ね。別の夢があるんだ」
実は、愛実は本気で医者になりたいと思ったことなどなかった。
お父さんが死んで憔悴しきっていたお母さんに、
「あなたがお父さんの遺志を受け継ぐのよ」
と言われたから、お母さんのために医者になろうとしただけだ。
「もう私、人を救ったよ。医者にならなくても、人は救えるんだよ」
そんな当たり前の事実が、愛実に勇気を与えていた。
「私のせいで誰かが傷つくのは嫌だよ。笑顔が見たいよ」
愛実は、自分に勉強の才能があることを知っている。
そのせいで智仁も、智仁以外の人も数多く傷つけてきた。
「でも、それも今日でおしまい」
愛実は【大きくなったらお父さんみたいな医者になりたい】という願いが書かれた紙をびりびりと破り捨てる。
「こんなもの、もういらない」
医者にならなくても人を救えることを知った。体感した。ゆちあと智仁と一緒に過ごす時間が本当に楽しくて、愛実はようやく決意できたのだ。
帰ったらすぐにお母さんに伝えないといけない。
お父さんの意思を、お母さんの望みを、私はもう叶えないと。
「許してくれるよね、きっと」
夜空を見上げると、流れ星がひゅんと瞬いた。愛実は慌てて、あの日願いの灯に入れた本当に叶えたかったことを願う。
「これで……私は」
愛実の胸には暖かい未来へ希望があふれていた。
しかし、この時の愛実はまだ知らないのだ。
智仁とゆちあと会えなくなる運命が待っていることを。