ゆちあは今、砂場でお山づくりに夢中だ。

 俺はさきほどのおじいさんと並んで立っていた。

「ちょっと話があるんじゃが」

 とおじいさんに言われ、断るわけにもいかずなぜかこうなっている。

「やっぱり子供はええ。笑顔でおるだけで、世界がぱぁっと明るくなる」

 しみじみとつぶやくおじいさん。

 顔にできている影が濃くなったのは、太陽が雲に隠れたせいではないと思う。

「はい。僕は、ゆちあのおかげで笑顔になることが増えました」

「じゃろ? ほんとに子供はええ。なによりも大切にせんとな」

 おじいさんは空を見上げる。

 その瞳は、空に浮かぶ雲ではなく、もっと遠くを見つめている気がした。

「いや、君は言われなくてもわかっとるか。こうして子供と公園で遊んどるくらいじゃからな。あの子の笑顔を見れば君たち親子の関係性がよくわかる。若いのによくできた父親じゃ。かはははは!」

 先ほどと同じ笑い声なのに、今のおじいさんは見ていて切ない。

 結婚していませんとか、実はゆちあの本当の父親じゃないんですとか、否定したいことは山ほどあったが、口を挟める空気ではなかった。

 おじいさんの笑い声がふいに止まる。

「実はの、わしにも妻と子供がおったんじゃ」

 過去形だったため、俺は大体のことを悟った。まあ、この雰囲気から幸せな話が出てくるとは思っていなかったので、心の準備はできている。

「わしは我孫子建設(あびこけんせつ)の代表取締役だったんじゃ」

 え? 我孫子建設?

 びっくりを通り越して唖然。

 我孫子建設と言えば、日本人なら誰でも知っている大手建設会社じゃないか。

 でも、どうしてこのおじいさんは、それを人生の汚点であるかのように、沈んだ声で言うのか。

 どれだけ自慢したって罰が当たらないくらいすごいことなのに。

「でもの、そんな肩書きなんぞに意味はない。いつだって肩書きは家族に全く関係ないんじゃ」

 おじいさんの背中が、少しだけ丸まる。

「わしは親に言われた通り東総(とうそう)大学を出て、日本中で知らないやつなどおらん我孫子建設に就職した。馬車馬のように働いて、お金を得て名声を得て、会社の代表取締役まで登りつめた」

 今しれっと言ったけど、東総大学って日本の偏差値トップの大学じゃないか。

「じゃがわしは…………今は独りじゃ」

 その言葉は、とても寂しい響きを宿していた。嘲るような笑みを見せたおじいさんは細く長く息を吐いてから、また誰もいない空を見上げる。

「すべてがわしから離れた今なら、本当に大切だったものがなにかわかる気がするんじゃ」

 このおじさんは妻と離婚して、子供と会えなくなっているのだろうか。

 詳細はわからないが、きっとこのおじいさんには後悔しか残っていないのだろう。

 同じ過ちを繰り返してほしくないから、俺にわざわざ話してくれたのだろう。

「謝りたい人がおるのに、もう、どこに行ってしまったのかもわからんのだ。君の子供と違って、わしは悪いことをしてしまった誰かに謝ることができんのじゃ」

 なんと言葉を返していいか、わからなかった。

 ――悪いことをしたら謝る。すごいことじゃないか。
 
 さきほどの言葉の重みが、何倍にも膨れ上がる。

「すまんの。少ししんみりさせてしまった」

 おじいさんは申しわけなさそうに眉を下げた。

 後悔の詰まったその笑顔は、見ているものの胸を否応なしに締めつける。

「いえ。そんなことないです」

 軽く頭を下げながら、俺は考える。

 このおじいさんは必死で努力して、選ばれた人間になった。

 だけど、今このおじいさんは、自身の人生に対する後悔を噛みしめている。

 大切にするものを間違えた、と。

「じゃ、わしはそろそろ帰るかの」

「あ、あの」

 俺は背を向けて歩き出したおじいさんを呼び止めていた。

「ん? なんじゃ?」

 振り返ったおじいさんの白髪が、陽光に照らされて綺麗に輝いている。

 この人にかけてあげるべき言葉はいったいなんだろう。

 いつか、奥さんやお子さんと再会できるといいですね――そんな空虚な慰めは違う。

 今日は貴重なお話ありがとうございました――感謝するのも違う。

「えっと、その」

 俺はぐっと足に力を入れて、こう言った。

「俺たち、またここに遊びに来ますので、その時は、もし会えたら、一緒に遊んでください」

「いっしょ、に」

 おじいさんは驚いたように目を見開き、そして、

「ありがとの。家族仲良く幸せにな」

 目をゆっくりと細めたおじいさんは、軽く手を上げてから去っていった。

 否定も肯定もしなかったから、本当にまたここに来てくれるかはわからない。

 だけど、離れていくおじいさんの背中は、過去の後悔を話している時よりもピンと伸びている気がした。