ゆちあが我が家にやってきてから二週間が過ぎた。
いまだにゆちあの『ゆ』の字も誘拐の『ゆ』の字もニュースで報道されない。その事実が、莉子の言っていることを証明している気がして肝が冷える。いや、ゆちあの両親はゆちあに関心がないだけなんだ! ってそれはそれで悲しいな。
その日、愛実が高校に行っている間、俺はゆちあを連れて近所の公園へ向かった。
ゆちあと手をつないで歩いているだけで、何度も歩いたはずの見慣れた道が特別な道のように思えるから不思議だ。電信柱の影とか、見通しの悪いT字路とか、ゆちあにとって危険になりそうな場所を無意識に探している自分に驚いた後、ふふっと笑った。
「おとーさん? どうしたの?」
ゆちあが目をぱちくりとさせてこちらを見上げている。
急に笑い出したことを不思議に思ったのだろうか。
「いや、ゆちあといると、まだまだ色んな発見ができるなぁって、楽しくて」
「ゆちあもおとーさんとお散歩するの楽しいよ」
「嬉しいこと言ってくれるなぁ、このこのー」
ゆちあの頭をわしゃわしゃなでると、ゆちあはきゃはきゃは楽しそうに笑ってくれた。
これだけで世界中の誰より幸せだって思えるから不思議だよなぁ。
「あ! とんぼさんだ!」
改めて公園に向かおうとした矢先、ゆちあが空中を指さした。
子供って興味の湧いたものを素直に口にするよなぁなんて思いつつ、俺もゆちあが指さした方を見る。
「ほんとだ、とんぼさんだな」
言いながら、とんぼを意識的に見ようとしたのはいつぶりだろうと思った。
ゆちあといると、心がふっと童心に帰ることがある。
とんぼも、ケーキの形をした雲も、雨上がりの虹も、道端に咲く名もなき花も、風で木の葉が擦れる音も、お星さまにお月さまも、ゆちあといるだけで全てが新鮮に映った。
いただきますも、誰かと一緒に食べる食事だってそうだ。
そのどれもに心の底から感動している自分がいる。
ゆちあと出会わなければ、こんな素敵な感情を思い出すことはなかったと思うと、本当に感謝してもしきれない。
「おとーさん! あのとんぼさんのメガネは何色かな?」
「どうだろうねぇ? 虹色かなぁ?」
そう返すと、ゆちあは「どうだろ! どうだろ!」と俺の手を引っ張ってとんぼさんに近づいていく。
そんな俺たちを警戒したのか、とんぼが空高く飛び去ってしまうと、「見えなかったぁ。とんぼさん……」とひどく残念がった。
「秋が深まったら、また見つかるさ」
「うん! とんぼさーん! 待っててね!」
ゆちあはすぐに元気を取り戻し、「とんぼのめがねはぴかぴかめがね」とお歌を歌い出した。
続きを俺も一緒に歌う。
懐かしさでどうにかなりそうなほど楽しかった。
でも。
秋が深まったら……かぁ。
ゆちあはいつまで俺たちのもとで生活してくれるのだろうか。
もしゆちあがいなくなったら、俺と愛実はどうなってしまうのだろうか。
「おとーさん! ブランコあるよ!」
公園につくと、ゆちあはすぐにブランコへ一直線。
はしゃぐゆちあを見て、今はゆちあを楽しませることに全力を注ぐだけか、と悩みは心の片隅に一旦放置する。
「次はあっちで遊ぶー」
疲れを知らないゆちあは、今はすべり台で遊んでいる。
俺は近くのベンチに座って一息ついた――その時。
「……あっ」
おとーさんおとーさん! と俺の方だけを見ながらシーソーの方へ走っていこうとしたゆちあが、強面のおじいさんとぶつかり、こてっと尻餅をついた。
おじいさんの持っていたサンドイッチとお茶が地面に落ちる。じろ、とそのおじいさんがゆちあを見下ろす。
「すみません!」
俺が急いでゆちあのもとに駆け寄ると、
「ごめん、なさい」
涙目のゆちあが、そうつぶやくのが聞こえた。
「それ、お代、払います。俺がちゃんと見てなくて」
「そんなもんいらん」
俺の提案を断ったおじいさんがゆちあに手を伸ばした。
ゆちあ危ない!
そう思って二人の間に割って入り、ゆちあをかばうようにして抱きしめる。
「ああそうか。今は子供に触るだけで、不審者になってしまうんだったか」
……あれ?
俺は「かははは」と笑うおじいさんを見る。その顔に怒りがないことは明らかで、俺はほっと胸をなでおろした。
「おじちゃん。怒ってない?」
ゆちあがおじいさんに恐るおそる尋ねる。
おじいさんはにっこりと笑った。
「怒るもんか。だって君はもう謝ってくれたじゃないか。悪いことをしたら謝る。すごいことじゃないか。そんな君をわしが怒るわけなかろう。君のパパママの育て方がよかったんだな」
おじいさんの言葉を聞いたゆちあは、キョトンとした顔で俺を見上げている。
このおじいさん、強面だけど、すげーいい人だ。
俺たちは誘拐犯だから、育て方云々は当てはまらないけど。
「ゆちあ。人から褒められたら、なんて言うのかな?」
口をぽかんと開けたまま俺を見上げているゆちあに尋ねると、ゆちあは「あっ」と大きな声を出した。
「えっとね、ありがとうって言うの!」
「そうだ。じゃあ、この場合は?」
俺が微笑みかけると、ゆちあは大きく頷いて、おじいさんの方を向く。
「おじちゃんありがとう。おとーさんとおかーさんのこと褒めてくれて」
ぺこりと頭を下げるゆちあ。
いやいや、俺たちのことじゃなくて!
「かはははは! 君はやっぱりすごい子だのぅ」
高らかに笑ったおじいさんは、俺に目で確認を取ってから、ゆちあの頭をわしゃわしゃなでた。
いまだにゆちあの『ゆ』の字も誘拐の『ゆ』の字もニュースで報道されない。その事実が、莉子の言っていることを証明している気がして肝が冷える。いや、ゆちあの両親はゆちあに関心がないだけなんだ! ってそれはそれで悲しいな。
その日、愛実が高校に行っている間、俺はゆちあを連れて近所の公園へ向かった。
ゆちあと手をつないで歩いているだけで、何度も歩いたはずの見慣れた道が特別な道のように思えるから不思議だ。電信柱の影とか、見通しの悪いT字路とか、ゆちあにとって危険になりそうな場所を無意識に探している自分に驚いた後、ふふっと笑った。
「おとーさん? どうしたの?」
ゆちあが目をぱちくりとさせてこちらを見上げている。
急に笑い出したことを不思議に思ったのだろうか。
「いや、ゆちあといると、まだまだ色んな発見ができるなぁって、楽しくて」
「ゆちあもおとーさんとお散歩するの楽しいよ」
「嬉しいこと言ってくれるなぁ、このこのー」
ゆちあの頭をわしゃわしゃなでると、ゆちあはきゃはきゃは楽しそうに笑ってくれた。
これだけで世界中の誰より幸せだって思えるから不思議だよなぁ。
「あ! とんぼさんだ!」
改めて公園に向かおうとした矢先、ゆちあが空中を指さした。
子供って興味の湧いたものを素直に口にするよなぁなんて思いつつ、俺もゆちあが指さした方を見る。
「ほんとだ、とんぼさんだな」
言いながら、とんぼを意識的に見ようとしたのはいつぶりだろうと思った。
ゆちあといると、心がふっと童心に帰ることがある。
とんぼも、ケーキの形をした雲も、雨上がりの虹も、道端に咲く名もなき花も、風で木の葉が擦れる音も、お星さまにお月さまも、ゆちあといるだけで全てが新鮮に映った。
いただきますも、誰かと一緒に食べる食事だってそうだ。
そのどれもに心の底から感動している自分がいる。
ゆちあと出会わなければ、こんな素敵な感情を思い出すことはなかったと思うと、本当に感謝してもしきれない。
「おとーさん! あのとんぼさんのメガネは何色かな?」
「どうだろうねぇ? 虹色かなぁ?」
そう返すと、ゆちあは「どうだろ! どうだろ!」と俺の手を引っ張ってとんぼさんに近づいていく。
そんな俺たちを警戒したのか、とんぼが空高く飛び去ってしまうと、「見えなかったぁ。とんぼさん……」とひどく残念がった。
「秋が深まったら、また見つかるさ」
「うん! とんぼさーん! 待っててね!」
ゆちあはすぐに元気を取り戻し、「とんぼのめがねはぴかぴかめがね」とお歌を歌い出した。
続きを俺も一緒に歌う。
懐かしさでどうにかなりそうなほど楽しかった。
でも。
秋が深まったら……かぁ。
ゆちあはいつまで俺たちのもとで生活してくれるのだろうか。
もしゆちあがいなくなったら、俺と愛実はどうなってしまうのだろうか。
「おとーさん! ブランコあるよ!」
公園につくと、ゆちあはすぐにブランコへ一直線。
はしゃぐゆちあを見て、今はゆちあを楽しませることに全力を注ぐだけか、と悩みは心の片隅に一旦放置する。
「次はあっちで遊ぶー」
疲れを知らないゆちあは、今はすべり台で遊んでいる。
俺は近くのベンチに座って一息ついた――その時。
「……あっ」
おとーさんおとーさん! と俺の方だけを見ながらシーソーの方へ走っていこうとしたゆちあが、強面のおじいさんとぶつかり、こてっと尻餅をついた。
おじいさんの持っていたサンドイッチとお茶が地面に落ちる。じろ、とそのおじいさんがゆちあを見下ろす。
「すみません!」
俺が急いでゆちあのもとに駆け寄ると、
「ごめん、なさい」
涙目のゆちあが、そうつぶやくのが聞こえた。
「それ、お代、払います。俺がちゃんと見てなくて」
「そんなもんいらん」
俺の提案を断ったおじいさんがゆちあに手を伸ばした。
ゆちあ危ない!
そう思って二人の間に割って入り、ゆちあをかばうようにして抱きしめる。
「ああそうか。今は子供に触るだけで、不審者になってしまうんだったか」
……あれ?
俺は「かははは」と笑うおじいさんを見る。その顔に怒りがないことは明らかで、俺はほっと胸をなでおろした。
「おじちゃん。怒ってない?」
ゆちあがおじいさんに恐るおそる尋ねる。
おじいさんはにっこりと笑った。
「怒るもんか。だって君はもう謝ってくれたじゃないか。悪いことをしたら謝る。すごいことじゃないか。そんな君をわしが怒るわけなかろう。君のパパママの育て方がよかったんだな」
おじいさんの言葉を聞いたゆちあは、キョトンとした顔で俺を見上げている。
このおじいさん、強面だけど、すげーいい人だ。
俺たちは誘拐犯だから、育て方云々は当てはまらないけど。
「ゆちあ。人から褒められたら、なんて言うのかな?」
口をぽかんと開けたまま俺を見上げているゆちあに尋ねると、ゆちあは「あっ」と大きな声を出した。
「えっとね、ありがとうって言うの!」
「そうだ。じゃあ、この場合は?」
俺が微笑みかけると、ゆちあは大きく頷いて、おじいさんの方を向く。
「おじちゃんありがとう。おとーさんとおかーさんのこと褒めてくれて」
ぺこりと頭を下げるゆちあ。
いやいや、俺たちのことじゃなくて!
「かはははは! 君はやっぱりすごい子だのぅ」
高らかに笑ったおじいさんは、俺に目で確認を取ってから、ゆちあの頭をわしゃわしゃなでた。