顔を洗ってリビングに戻ると、ゆちあと愛美はすでに椅子に座っていた。

「待っててくれたのか?」

「当たり前でしょ」

「おとーさん早く。ゆちあもうお腹ぺこぺこ」

 お腹をさするゆちあ可愛すぎかよ。そういや俺もはらぺこだ。ゆちあの隣、愛実の真向かいの席につき、さっそくサラダを食べようとお箸を手に取る。

「ぴぴー、ぴぴー」

 しかし、ホイッスルを吹く真似をしたゆちあに動きを制された。なんで俺、リビングでイエローカード出されそうになってるの?

「おとーさん、それダメだよ」

「なにがダメなんだ?」

「ご飯を食べる前は、手を合わせていただきますするんだよ。知らないの?」

 言われてハッとする。

 そんな常識、知らないわけはない。

「いた、だきます……か」

 でも俺は一人で食べることに慣れすぎて、いつの間にか『いただきます』を言わなくなった。正常だったころの両親から口酸っぱくやるように言われていた『いただきます』を、ゆちあのような子供でも知っているような『いただきます』を、俺はすっかり忘れていた。

「そうだな。おとーさん。いただきます忘れてた」

 恥ずかしいような嬉しいような懐かしいような、変な気分だ。

「ありがとう。ゆちあのおかげで、大切なこと思い出せたよ」

「わかればよろしい」

 自慢げに胸を張ったゆちあが、こほんと咳払いをしてから発声する。

「おとーさん、おかーさん、手を合わせてください。せーの」

「「「いただきます」」」

 三人の声が揃った後、テーブルの上に並べられた料理はより色鮮やかに見えた。

 ゆちあが真っ先にフレンチトーストにかぶりつく。

「おいしー。おかーさん天才だぁ」

「もう、ゆちあは褒め上手なんだからぁ」

 愛実は控えめに謙遜しつつ、チラチラとこちらを見てくる。

「ん? なんだよチラチラと?」

「べ、別に全然見てないんですけど?」

 なぜか唇を尖らせてつんとそっぽを向いた愛美。え、なんでいきなりの不機嫌? 
と思いつつ俺もフレンチトーストを一口。はしゅう、と染み込んだ卵が口の中に溶けだした。ほどよい甘みが舌の上に広がっていく。

 おいしい。

 そう言おうとしていたのに口からはなにも出てこず、かわりに視界がぼやけ始めた。

「え、あ、……え?」

 全然悲しくないのに、なんで涙が出てくるんだろう。

「おとーさんどしたの!」

 俺の涙に気づいたゆちあが心配そうな声を出す。

「え。嘘? なんか変な味した? ごめん」

 愛美は慌てた様子で、キッチンに水を取りにいこうとする。

「違うんだ」

 俺はその必要はないと愛美を呼び止めた。

「これは、違う。愛美の料理がまずいわけない」

「だったらどうして」

「俺は、ただきっと、この空気感が懐かしくて」

 ゆちあと愛実と三人で食卓を囲んでいる。

 その奇跡によって思い起こされた記憶は、俺の家族がまだ家族だったころの記憶。

 複数本ある歯ブラシも、俺以外の声が聞こえてくるリビングも、手作りの朝食を誰かと囲む場面も。

 かつてこの家で繰り返されていた、なにげない幸せな時間の一つだった。

「こういう時間を、朝ご飯をみんなでとか絶対無理だと思ってたから、昔の、ほんとに懐かしくて」

「もー、泣いちゃうなんて子供だなー。ゆちあがよしよししてあげる」

 隣のゆちあが手を俺の頭の上に伸ばす。

 一生懸命伸ばしているが届きそうになかったので、俺は自分から頭を少し下げた。

「よしよーし。よしよーし」

 ゆちあの小さな手になでられた途端、本当に涙が止まったから不思議だ。最高に気持ちよかったので、ゆちあが満足するまでなでられてやることにする。

「あのね、おとーさん。今度からはね、そういう気持ちになったら泣くんじゃなくて、『おいしい』って言うんだよ」

 ああ、またゆちあに大切なことを教えられてしまったな。

「なるほど。たしかに愛実の料理、すごくおいしい。ほんとにおいしい。世界一。最高だ」

「そんなに褒めてもなにもないからね」

 顔を真っ赤に染めた愛美を見て、俺とゆちあはニヤリと笑う。

 そして、「言えば言うほど言葉の価値は下がるんだからね」と満更でもなさそうに愛美が言うまで、おいしー、おいしー、と二人で連呼し続けた。