とんでもない事態になってしまった……。
週明けの月曜日の夕方を過ぎたころ、私はキリキリする胃を抱えながら、アトス様の部屋へと向かっていた。宮廷魔術師たちは現在夕食中で、この間に掃除をすることになっているからだ。
総帥や副総帥ともなると、王都にある屋敷の他にも、王宮に各自の部屋が設けられている。
アトス様なんかは遠方への出張以外は、いつも仕事で王宮にいる状態だから、屋敷にはほとんど帰らなくなっているらしい。だから、恋人の手がかりは王宮にあるだろうと、マリカ様は鼻息も荒く主張していた。
ふと立ち止まって廊下の窓を見上げる。暗くなりかけの瑠璃色の空になんとなく泣けた。カレリアは日本ほど工業国ではないから、空に曇りがなくいつも綺麗だ。
ああ、ここから鳥のように飛び立って、彼方にまで羽ばたいて行きたい。
私って貧乏籤を引いてばかりな気がする。気がするというか確実に引いている。
前世でも面倒な、人の嫌がる仕事を押し付けられていた。取引先との契約の打ち切りを通告するとか、自分の成果にならない単純作業をするとか、精神を消耗するような仕事だ。
神様は私に「社畜であれ」と運命づけているのだろうか……。
私は溜め息を吐きつつまた歩き出し、ついにアトス様の部屋の扉の前に立った。
王族や宮廷魔術師らの部屋は、前回のマリカ様のような特殊なケースを除いて、いつもは二人一組で掃除をする。広いから大変だというだけではなく、出来心での盗みや覗きを防ぐためだ。
ところが、今の私はそのルールを破って一人きりだ。どうもマリカ様が手を回したらしく、急なパーティーをやるとかで、そちらの給仕や厨房の手伝いに、メイドらが駆り出されている。結果、今日の掃除についてはマリアさんにしごかれ、エキスパートとなった私が担当することになったのだ。
まあ、もちろんそれだけではなくて、四年間きわめて真面目にやってきて、問題やミスがなかったことも評価されているらしい。
ううっ、信用を利用しているみたいで心がズキズキするわ……。
「失礼しま~す」と言いつつゆっくりと扉を開ける。
アトス様の部屋は初めて来るけど、中は意外にもシンプルだった。というよりは、まるで書斎のようなつくりだ。
窓際に大きな机と革張りの椅子が置かれていて、左右の壁には書物がみっしり詰まった本棚がある。ベッドは天蓋付きではないごく普通のものだった。こだわりを感じられるものと言えば、アトス様の髪や瞳の色と同じ、タンザナイト色のカーテンや絨毯くらいだろうか。
貴族的な豪華な部屋をイメージしていたのでちょっと驚く。
私はおどおどと足を踏み入れた。掃除をできるだけ早く終わらせると、こそこそと机の引き出しを開ける。
男の人が大切なものを隠すところと言えば、大体は机の引き出しの中かベッドの下だ。前世の兄はエロ本や同人誌を隠していたし、今生の弟も同じところにカエルの干物を仕舞っていた。
それにしても、ううっ、こんな泥棒みたいな真似……。
引き出しの中はきちんと整理されていて、エロ本や同人誌なんかはなかった。……心からほっとしたことは内緒にしておく。書類や、インクや、羽ペンのストックなんかで、仕事に関係するものばかりだ。
ところが、左に手を伸ばしたところではっとする。
「これって……日記帳?」
恐る恐る開いてみるとやっぱり日記帳だった。一年くらい前からつけているみたいだ。恋人のことも書いているかもと捲ってみたものの、やっぱりほとんど仕事の話題ばかり。または魔術の技術についての覚書で、どうもアトス様も社畜なんじゃないかと疑った……。
真ん中あたりまできたところで、心臓が大きく鳴って手が止まる。こんな記述があったからだ。
『天暦1567年×月×日 今日、人生でもっとも素晴らしい出会いがあった。まさか、こんなところに××がいるとは。灯台下暗しとはよく言ったものだ。とにかく可愛く目が釘付けになってしまった。私は必ず彼女を手に入れるつもりだ』
「素晴らしい出会いって……恋人のことかしら?」
日付は半年くらい前のものだった。彼女とは最近知り合ったようだ。それにしても、この××の部分の意味はなんだろう。見たことも聞いたこともない単語だ。
『天暦1567年×月×日 どうも彼女は仕事が好きらしい。休日にも働いているところは共感できる。私も暇があれば仕事をしていたい性質だ』
やっぱりアトス様も社畜だったわ……。それも嬉々としたタイプだ。まさか、恋人とそろって仕事中毒だったとは。
そこから彼女の描写が増えていった。
『天暦1567年×月×日 おそらく彼女は××の先祖返りの結果だと思われる。しかし、まだにおいからして×化には至っていないようだ。×化できるようになる年齢は幅があり、赤ん坊のころから出来る者もいれば、十代後半の場合もあると聞いた。彼女も近いうちに×化することは間違いない。×化したらぜひ例のものを試したいが……』
例のものって何かしら?
首を傾げながらもページを進める。
『天暦1567年×月×日 ついに×化した彼女に会えた。予想通り人間の姿と同じくらい、×化した姿も可愛い過ぎる。××の求婚の作法に則って結婚を申し込んだところ、承諾の返事をもらい柄にもなく浮かれている。すぐにでも屋敷に連れ帰って二人きりの生活を送りたい。彼女の名前を誰彼はばかることなく呼びたい』
「……!!」
次の行に名前らしきものが書いてあり、私は慌てて日記帳を閉じて引き出しに押し込んだ。顔を机の上に突っ伏してやっとの思いで呻く。
「やっぱり、こんなの駄目だよ……」
こんな人の心を覗き込むような真似はいけない。それに、アトス様の恋人がマリカ様にバレて、傷つけられたり殺されたりしたらどうするの。アトス様が悲しむ顔なんて見たくない。
私は神様や両親に顔向けできないことだけは、絶対にしないと決めていたんじゃなかったの?
前世で最初に就職した会社を辞めた時もそうだった。セクハラとパワハラを受けていた後輩の女の子の相談に乗って、なんとかしようとして煙たがられて辞めざるを得なかった。そこからが社畜人生の始まりとなったわけだけど、あの子を助けたことは後悔していなかったはずだ。見捨てていたら私は私が嫌いになっていただろう。
今生のお父さんも私と弟妹にこう言い聞かせていた。
「俺は別に出世しろとか、金を稼げとかは言わねえ。生きていける分だけでいい。でもな、人の道に外れた真似だけはするんじゃないぞ。いいか、人助けをしてお日様の下を堂々と歩ける大人になれ」
マリカ様には何も見つからなかったと言って、来月にはここのメイドを辞めよう。お給料がいいので残念だけど、きっとそれが一番いい解決法だ。
私は大きく頷き引き出しを締めようとした。すると、風圧のせいなのだろうか、奥からふわりと香しい香りが漂ってきたのだ。
「……!?」
こ、この香りはなんなのだろう。頭の芯がとろりと溶けるくらい気持ちがいい。体から力が抜けるだけではなく縮んでいく。いつの間にかメイド服が抜け落ちていたけど、もうそんなことも気にならなくなっていた。
「にゃあ……」
私は引き出しへ頭を突っ込んで、その香りのもとを引きずり出した――
週明けの月曜日の夕方を過ぎたころ、私はキリキリする胃を抱えながら、アトス様の部屋へと向かっていた。宮廷魔術師たちは現在夕食中で、この間に掃除をすることになっているからだ。
総帥や副総帥ともなると、王都にある屋敷の他にも、王宮に各自の部屋が設けられている。
アトス様なんかは遠方への出張以外は、いつも仕事で王宮にいる状態だから、屋敷にはほとんど帰らなくなっているらしい。だから、恋人の手がかりは王宮にあるだろうと、マリカ様は鼻息も荒く主張していた。
ふと立ち止まって廊下の窓を見上げる。暗くなりかけの瑠璃色の空になんとなく泣けた。カレリアは日本ほど工業国ではないから、空に曇りがなくいつも綺麗だ。
ああ、ここから鳥のように飛び立って、彼方にまで羽ばたいて行きたい。
私って貧乏籤を引いてばかりな気がする。気がするというか確実に引いている。
前世でも面倒な、人の嫌がる仕事を押し付けられていた。取引先との契約の打ち切りを通告するとか、自分の成果にならない単純作業をするとか、精神を消耗するような仕事だ。
神様は私に「社畜であれ」と運命づけているのだろうか……。
私は溜め息を吐きつつまた歩き出し、ついにアトス様の部屋の扉の前に立った。
王族や宮廷魔術師らの部屋は、前回のマリカ様のような特殊なケースを除いて、いつもは二人一組で掃除をする。広いから大変だというだけではなく、出来心での盗みや覗きを防ぐためだ。
ところが、今の私はそのルールを破って一人きりだ。どうもマリカ様が手を回したらしく、急なパーティーをやるとかで、そちらの給仕や厨房の手伝いに、メイドらが駆り出されている。結果、今日の掃除についてはマリアさんにしごかれ、エキスパートとなった私が担当することになったのだ。
まあ、もちろんそれだけではなくて、四年間きわめて真面目にやってきて、問題やミスがなかったことも評価されているらしい。
ううっ、信用を利用しているみたいで心がズキズキするわ……。
「失礼しま~す」と言いつつゆっくりと扉を開ける。
アトス様の部屋は初めて来るけど、中は意外にもシンプルだった。というよりは、まるで書斎のようなつくりだ。
窓際に大きな机と革張りの椅子が置かれていて、左右の壁には書物がみっしり詰まった本棚がある。ベッドは天蓋付きではないごく普通のものだった。こだわりを感じられるものと言えば、アトス様の髪や瞳の色と同じ、タンザナイト色のカーテンや絨毯くらいだろうか。
貴族的な豪華な部屋をイメージしていたのでちょっと驚く。
私はおどおどと足を踏み入れた。掃除をできるだけ早く終わらせると、こそこそと机の引き出しを開ける。
男の人が大切なものを隠すところと言えば、大体は机の引き出しの中かベッドの下だ。前世の兄はエロ本や同人誌を隠していたし、今生の弟も同じところにカエルの干物を仕舞っていた。
それにしても、ううっ、こんな泥棒みたいな真似……。
引き出しの中はきちんと整理されていて、エロ本や同人誌なんかはなかった。……心からほっとしたことは内緒にしておく。書類や、インクや、羽ペンのストックなんかで、仕事に関係するものばかりだ。
ところが、左に手を伸ばしたところではっとする。
「これって……日記帳?」
恐る恐る開いてみるとやっぱり日記帳だった。一年くらい前からつけているみたいだ。恋人のことも書いているかもと捲ってみたものの、やっぱりほとんど仕事の話題ばかり。または魔術の技術についての覚書で、どうもアトス様も社畜なんじゃないかと疑った……。
真ん中あたりまできたところで、心臓が大きく鳴って手が止まる。こんな記述があったからだ。
『天暦1567年×月×日 今日、人生でもっとも素晴らしい出会いがあった。まさか、こんなところに××がいるとは。灯台下暗しとはよく言ったものだ。とにかく可愛く目が釘付けになってしまった。私は必ず彼女を手に入れるつもりだ』
「素晴らしい出会いって……恋人のことかしら?」
日付は半年くらい前のものだった。彼女とは最近知り合ったようだ。それにしても、この××の部分の意味はなんだろう。見たことも聞いたこともない単語だ。
『天暦1567年×月×日 どうも彼女は仕事が好きらしい。休日にも働いているところは共感できる。私も暇があれば仕事をしていたい性質だ』
やっぱりアトス様も社畜だったわ……。それも嬉々としたタイプだ。まさか、恋人とそろって仕事中毒だったとは。
そこから彼女の描写が増えていった。
『天暦1567年×月×日 おそらく彼女は××の先祖返りの結果だと思われる。しかし、まだにおいからして×化には至っていないようだ。×化できるようになる年齢は幅があり、赤ん坊のころから出来る者もいれば、十代後半の場合もあると聞いた。彼女も近いうちに×化することは間違いない。×化したらぜひ例のものを試したいが……』
例のものって何かしら?
首を傾げながらもページを進める。
『天暦1567年×月×日 ついに×化した彼女に会えた。予想通り人間の姿と同じくらい、×化した姿も可愛い過ぎる。××の求婚の作法に則って結婚を申し込んだところ、承諾の返事をもらい柄にもなく浮かれている。すぐにでも屋敷に連れ帰って二人きりの生活を送りたい。彼女の名前を誰彼はばかることなく呼びたい』
「……!!」
次の行に名前らしきものが書いてあり、私は慌てて日記帳を閉じて引き出しに押し込んだ。顔を机の上に突っ伏してやっとの思いで呻く。
「やっぱり、こんなの駄目だよ……」
こんな人の心を覗き込むような真似はいけない。それに、アトス様の恋人がマリカ様にバレて、傷つけられたり殺されたりしたらどうするの。アトス様が悲しむ顔なんて見たくない。
私は神様や両親に顔向けできないことだけは、絶対にしないと決めていたんじゃなかったの?
前世で最初に就職した会社を辞めた時もそうだった。セクハラとパワハラを受けていた後輩の女の子の相談に乗って、なんとかしようとして煙たがられて辞めざるを得なかった。そこからが社畜人生の始まりとなったわけだけど、あの子を助けたことは後悔していなかったはずだ。見捨てていたら私は私が嫌いになっていただろう。
今生のお父さんも私と弟妹にこう言い聞かせていた。
「俺は別に出世しろとか、金を稼げとかは言わねえ。生きていける分だけでいい。でもな、人の道に外れた真似だけはするんじゃないぞ。いいか、人助けをしてお日様の下を堂々と歩ける大人になれ」
マリカ様には何も見つからなかったと言って、来月にはここのメイドを辞めよう。お給料がいいので残念だけど、きっとそれが一番いい解決法だ。
私は大きく頷き引き出しを締めようとした。すると、風圧のせいなのだろうか、奥からふわりと香しい香りが漂ってきたのだ。
「……!?」
こ、この香りはなんなのだろう。頭の芯がとろりと溶けるくらい気持ちがいい。体から力が抜けるだけではなく縮んでいく。いつの間にかメイド服が抜け落ちていたけど、もうそんなことも気にならなくなっていた。
「にゃあ……」
私は引き出しへ頭を突っ込んで、その香りのもとを引きずり出した――