リンナの王太子から非公式の協議を持ち掛けられたのは、マリカ様誘拐事件から一週間後のことだった。

 カレリア国王はこの提案に頷き、代表として総帥とアトス様と魔術師の何人かと、そしてなぜか私を派遣した。

 これにはホンマになぜやと首を傾げた。メイド業と猫に変身する以外何もできないのに。

 アトス様専用の癒しグッズにでもなれと言うのだろうか? まあ、確かにアトス様は時々猫の私のお腹に顔を埋めてスーハーやって、「ああ、癒やされる。どんな麻薬も君には敵わない」とか言っているけどさ。

 協議はリンナの王宮で行われることになり、私は人間の姿で総帥、アトス様、魔術師らと会議室を訪れた。

 入る直前にちらりとアトス様の横顔を見上げる。

 おっさん……ではなくアトス様のお父さんは、現在リンナの地下牢にいるらしい。その処分についても話し合うのだろう。

 この一週間、アトス様はこの件については何もコメントしていない。お父さんが生きていただけではなく、敵国に加担していただなんて、一体どんな心境なのだろうか。

 更にもう一つ気になることがあった。アトス様が手にするキャリーバッグだ。今回私は人間のままでいろとのことだから、キャリーバッグはいらないはずだ。なぜこんなところにまで持参しているのだろう。

 リンナの王宮の会議室は真紅を基調としていて、椅子にも赤いビロードが張られている。色で寒さを和らげようとしているのだろうか。

 リンナの王太子は十人がけの長テーブルの、左側の真ん中に臣下に挟まれて腰を下ろしていた。総帥を認めるなり立ち上がり握手を求める。総帥はそれに応じた後で、王太子の向かいの席に腰掛けた。アトス様は総帥の左の席に、私はアトス様の隣におずおずと座る。

 カップに温かいお茶が注がれた後で、いよいよ話し合いが始まった。

 王太子が大きな溜め息を吐いて肩をすくめる。

「誠に情けない話だが、この所父上はボケて来ていまして、そこをどうもあの詐欺師に唆され、今回の騒ぎを起こしたようなのです」

「ボケた……。ではそういうことにしておきましょうか」

 総帥はお茶を一口飲むと、「カレリア国王、カーレル二世陛下からのお言葉をお伝え申し上げる」と告げた。

「"今回の事件についてリンナを咎めることはない。ただし、以下の条件を呑んでもらう"」

 カレリア王家の紋章の封蝋のされた封筒を、テーブルの真ん中に置いて手に取るよう促す。王太子は小さく頷くと、覚悟を決めた顔で封を切った。陛下からの手紙を読み進めるにつれ、その目がだんだん見開かれていく。やがて、顔を上げて総帥を見据えた。

「馬鹿な。あの男を引渡せと!? 今回の事件の主犯だと言うのに!?」

「左様」

 アトス様が総帥の言葉を継ぐ。

「ヴァルトはすでに死んだとされている男です。死者を引渡したところで差し支えはないでしょう」

 王太子はギリリと唇を噛み締めた。

「しかし、我が国で起こった犯罪は我が国の法で裁かなければ!」

 アトス様の薄い唇の端に笑みが浮かぶ。

「いいえ、犯罪などはなかったのですよ。そちらの国王陛下を唆した男などおらず、マリカ様が誘拐されたなどと言うこともない。何も起こらなかったのです」

 そして、悔しそうな王太子に更に追い打ちをかけた。

「そう結論付けた方が貴国のためにもなるのでは? なおもヴァルトを裁くつもりであれば、当然我々はマリカ様に誘拐されたと証言していただき、それはカレリアが宣戦布告する理由となります」

「……っ」

 王太子は条件を飲むしかないと踏んだのだろう。すぐにキリリとした顔つきになって「承諾申し上げる」と答えた。以降は動揺することもなく淡々と協議を続ける。

 一時間をかけて大体の擦り合わせができ、さて、そろそろ終わりかという頃のことだろうか。

 王太子は咳払いを一つしたかと思うと、なぜか顔を赤らめモジモジとしながら話題を変えた。

「実はこちらにも聞いていただきたいことがあるのです。今回は飽くまで非公式の協議なので、来月即位後にあらためて正式に申し込むつもりではあるのですが……」

 私は王太子の申し込みの内容を聞き、びっくり仰天した余りに、椅子ごと倒れて頭をぶつけるハメになったのだった……。