アトス様との遭遇後の一週間は、案の定私はマリアさんにこき使われた。

 アトス様に会わせまいとしているのか、魔術師らがよく利用する会議室や、食堂や、休憩室の担当からは外されて、明朝や深夜の玄関の清掃や、聖堂のステンドグラスの拭き掃除などを押し付けられた。どれも一人でやるには手間のかかる仕事だった。

 だから、アトス様との件は偶然と誤解でしかないのに! 前世の三十年分の記憶もあって、私は自分の身の丈というものを、よ~くよく理解しているのだ。ファン心理というのもあまりない。アイドルに夢中になれるほど、精神的にも肉体的にも暇ではない。

 まあ、マリアさんはお局と言っても、あくまでこの世界の基準であって、まだ二十二歳だから仕方ないのかな。三十路超えるか結婚したら諦めもつくんだろうか。

 その日もやっと仕事を終え相部屋の寮に戻ると、もう日付が変わる寸前の深夜で、同室の同僚の三人はとっくにぐっすり眠っていた。

 はああと溜め息を吐いてメイド服を脱ぐ。

 面倒なことになっちゃったな。とにかく、もうアトス様には近づかないようにしよう。目の保養にはなるし、便利な歩く掃除機には違いないけど、あとはロクなことがないんだもの。

 お母さんの縫ってくれたネグリジェに着替え、妹が誕生日にくれたナイトキャップを被ると、音を立てないようにしてベッドに潜り込む。窓からは月の明かりが差し込んでいた。

 明日も早いので時間には気をつけなくちゃ。万が一遅刻をしようものなら、またネチネチお説教は間違いないもの。それにしても、毎日こんな調子で働いていたら、前世と同じく過労死するんじゃないかしら。

 そんな縁起でもないことを考えながらも、目を閉じると疲れているからか、すぐに眠りの波がやってきた。

 ああ、猫になって誰かによしよしって、いい子だね、頑張ったねって可愛がられたいな。膝の上でのんびり眠って、ご飯をたっぷりもらって。

 ううん、そんな非現実的で、馬鹿なことを考えても仕方がないか。ここは魔力のある不思議な世界だけど、魔術師でも変身できるなんて聞いたこともない。

 あと三日で週末がやってきて、二週間ぶりに実家に帰れる。街でお土産を買って行こう。それを楽しみに頑張ろう……。

――それからどれだけの時間が過ぎたのだろうか。

 私はふと違和感を覚えて瞼を開けた。

「……?」

 被っていたはずのナイトキャップがない。大切なものなのにと慌てて起き上がる。ベッドの下に落としたのだろうか。

 私はとんと地面に降り立った。

 ナイトキャップはやっぱり床に落ちていた。胸を撫で下ろして手に取ろうとして青ざめる。

 ……わ、私、手がなくない!? というか、四つ足で立っていない!?

 目に入る手……ではなく前足は、明らかに人間のものではない。真っ黒の体に白い靴下を履いたような、そう、猫のような前足だった。

「にゃ、にゃ、にゃ……」

 な、な、な、と言っているつもりなのに、口から出るのはまさしく猫の鳴き声だ。

 私はしばし呆然としたあとで、そうか、これは夢だと心の中で手を打った。

 疲れたせいで願望が夢に出たんだわ。そうか、夢なら何をやっても叱られないよね! せっかく猫になれたんだから、普段王宮で行けないところに行ってみよう!

 私は窓辺にひょいと飛び乗ると、格子の隙間に頭をねじ込んだ。ちょっと無理かなと思っていたけど、なんと体が面白いくらい柔らかくて、あっさりと通り抜けることができた。

 うわぁぁああ!! 猫ってすごく面白い!!

 メイド寮は離れの一階なので、地面に着地し中庭を通り抜けて、アーチ型の窓から王宮に侵入する。

 王宮もさすがに深夜だからか、物音はなく静まり返っていた。時々見回りをする衛兵がいたけれども、飾り壷や鎧の影に隠れてやり過ごす。衛兵が立ち去るのを確認して、私は勢いをつけて駆け出した。

 廊下を思いっきり走るなんて初めて! しかも、意識しなくても足音がしない! 息もまったく切れなくて気持ちがいい!

 階段をとんとんと上っている最中に、踊り場に大きな鏡が掛けてあるのに気付く。舞踏会に招待された令嬢や貴婦人が、大広間に入る前に最後に覗き込むものだ。

 そこに映し出された私の姿は、黒白ハチワレの小さな靴下猫だった。タキシードを着ているみたいで可愛い。目はエメラルドグリーンで変わらなかった。

 夢の中ではこんは姿なんだと感動する。

 私は嬉しくなってあちこちを散策した。いつも立ち入りを許されない宝物庫へ行ったり、謁見の間の玉座の上で毛繕いをしみてたり、厨房へ行ってどんな食材があるのかを物色したり。

 そして、最後に向かったのが図書室だった。

 縦長でそのフロアの四分の一を占め、高さは王宮の二階分もあって、国内で最大規模だと言われている。四方の高い壁一面に本棚があって、魔術、天文学、数学、音楽、芸術、文学、ありとあらゆる分野の書物が揃っていた。アーチ型の天井にはフレスコ画がはめ込まれていて、芸術的にも素晴らしいんだそうだ。

 室内は真っ暗で人間だったらおろおろしただろう。でも、今の私の目は昼間みたいにあらゆるものを捉えられた。

 図書室の真ん中あたりまで探検したところで、左右に並べられた閲覧者用のテーブルの席のひとつに、誰かが腰掛けているのが目に入る。ランプの明かりを頼りに読書をしているみたいだ。白いローブからしてきっと魔術師だろう。

 私は見つからないように、そっとその脇を通り抜ける。ところが、「おや」と聞き覚えのある声が私を引き止めたのだ。

 まさかと恐る恐る振り返ると、タンザナイト色の二つの瞳が、眼鏡越しに私の姿を捉えていた。

「にゃ、にゃー!?」

 アトス様!?

 どうしてアトス様がこんなところにいるの!?

 予想外の出来事にかたまる私をよそに、アトス様はゆっくりと書物を閉じると、「……ふむ」と顎に手を当てて私を眺めた。一体何を思い付いたのだろうか。薄い唇の端で笑って椅子から立ち上がる。そして、ゆっくりと私に近づいてきたのだ……!

「に、にゃぁぁあああ!!」

 な、何をするつもりなの!? 私、一体どうなっちゃうの!?