とにかく逃げて、逃げて、逃げまくる。そうこうするうちに森を抜け、道を見つけて歩いてゆくと、かなり大きな街に辿り着いた。

 さすがに人には食べられないだろうと、広場の噴水の前にへたりこむ。

 街にはモスグリーンの屋根の、石造りの建物が並んでいた。道にいくつも溝があるのは、雪解け水を流すためだ。これはリンナに特有だと聞いたことがある。やっぱりここはリンナだった。

 豊かな街らしくて道行く人々の身なりがいい。広場にある食べ物の屋台も活気があった。チーズの溶ける香りにお腹が鳴る。ずっと何も食べていなかったので、エネルギー切れになったみたいだ。

 とはいえ、リンナのお金なんて持っていない。だからと言って、お魚くわえたドラ猫のように、泥棒猫になるのも気が引けた。

 そこで、ここは一つ猫族であることを活かそうと、「私、可愛いでしょ?」作戦を決行したのである。食べ物を持った優しそうなお姉さんや、立ち食いをしている子どもに、「ちょうだいちょうだい」を披露するのだ!

 後ろ足でひょいと立ち上がり、前足を合わせて上下に振っておねだりすると、ほとんどの人間は私に落ちた。

「やーん、何この子、かっわいい! ソーセージ焼いたの食べる?」

「僕もパン上げる! レバーペースト塗ってあって美味しいよ!」

 こうして私はお腹一杯に食べられただけでなはなく、明日、明後日の食糧をも手に入れたのだ!

 やっぱり可愛いは正義であり武器だわ。

 私が貢がれた食べ物を前にうんうんと頷いていると、背後からお姉さんでも子どもでもない気配がした。

 何気なく振り返ってビクリとする。四十代半ばくらいの背の高いおっさんが、満面の笑みで私を見下ろしていたからだ。

 肩まで伸ばして後ろで束ねた黒髪には、ところどころに白髪が混じっている。落ち着きのある黒曜石色の瞳の、なかなかのイケオジだった。頬のシワも渋さに磨きをかけている。高価そうなビロードの黒いコートを着ていて、結構なお金持ちみたいだ。

 近くにしゃがみ込んだおっさんを見て、私は見覚えがある気がして首を傾げた。

 身近な誰かに似ていないかしら?

 ところが、答えを出す前に、疑問自体が頭から吹っ飛んでしまった。なぜなら、おっさんは目からハートマークを飛ばす勢いで、手と頬を石畳に擦り付け、猫なで声を出したからだ。

 イケオジな見た目とシブい雰囲気に、似合わなすぎる言動だった。衝撃で頭が真っ白になってその場にかたまる。

「んもう、可愛い猫ちゃんでちゅね~! マスの燻製丸ごとあげちゃうから、もう一回ちょうだいちょうだいしてくれまちぇんかあ?」

 ドン引きしていたのはほんの数秒だった。なぜなら、おっさんが懐からマスの燻製を取り出したからだ……!

 なんと一匹丸ごとでゴクリと唾を飲み込む。その大きさの魚をどう仕舞っていたのだとか、お前の懐はドラえも〇のポケットかよとか、いろいろツッコミたかったものの、マスの前にはすべてがどうでもよくなった。

 絶世の美女からもらおうと、若干変態の入ったおっさんからもらおうと、マスはマスでしかない。

 私はプライドもへったくれもなく、ひょいと後ろ足で立ち上がり、オッサンに「ちょうだいちょうだい」を出血大サービスした。

「くっ……!」

 おっさんが低く呻いてうずくまる。体が小刻みに痙攣していたので、ヤバい病気なのかと慌てていると、おっさんは心臓を押さえつつ頬をほのかに染めた。

「可愛すぎて胸がキュンキュンしてしまった……」

 私は再びドン引きしつつも、いただいたマスに齧りついた。脂のしっかり載ったいいマスだ。塩とか香辛料とかハーブとか、余計な味付けをしていなかったので、猫の私にはありがたかった。

 十五分ほどで食べ終えると、ポンポンになったお腹をどうにか持ち上げ、丁寧に毛づくろいをしていく。歯磨きと同じでこれをやらないと、どうもすっきりした気分にならないのよね。

 おっさんはそんな私を飽きもせずに、蕩けるような顔で見つめていた。更に私を上から下から斜めから眺め、「ああ~、可愛い~、可愛いでちゅね~」と連呼している。

 おっさんが無害なことはもうわかったので、まだガン見されていることとその存在は無視して、さて、これからどうしようと首を捻った。

 アトス様のくれたこのリボンには、GPSほどの精度ではないものの、似たような探知機能がついているらしいから、そのうち迎えに来てくれるとは思う。でも、さすがに今日中には無理だろう。今夜はどこで寝泊まりすればいいだろうか。

 リンナはカレリアよりずっと寒いし、夜は冷えると聞いているので野宿は避けたい。

「……」

 私は萌えまくってハァハァしているおっさんに目を向けた。

 せっかく下僕になってくれそうな人材がいるのだから、ここはひとつ大いに活用すべきであろう……!