人間にとっての真っ暗闇は、猫族にとってはちょっと薄暗い程度で、ほとんどのものが見える。
 
 私が入ったところは壊れた椅子や割れたコップが転がっていた。歩くごとに肉球にホコリがくっつくところからして、もう結構長く空き家になっているのだろう。

 ああ、ここに箒と塵取りがあれば即座に掃除するのに……! 

 メイドだけではなく猫の血も騒いだ。なぜなら、空き家には大体ネズミが住み着くものだ。そして、そのネズミ一家が同じ町内会のご家族と誘い合って、廊下で秋の大運動会を開催しているからだ……!「チュチュッ」「チュッチュ!」と言う鳴き声や、廊下をトタパタと走る音を聞くごとに、身も心も臨戦態勢になって捕まえにいきたくなる。

 いや、我慢……今は我慢だ……!! 掃除よりネズミよりユーリとマリカ様!

 社畜と猫の本能を人間の理性でどうにか振り切り、私は足音を忍ばせ二人の姿を探した。

 ユーリのにおいは廊下から、三階の片隅の部屋へと続いていた。扉は開けっ放しになっていて、ランプの明かりと人の声が漏れ出ている。

 私は音を立てないようそっと中へ入った。台所だったらしくて壁際に戸棚や釜戸や、水場がある。ひとまず戸棚の影に隠れて様子を窺った。

 ユーリはロープで手足をふんじばられた挙句、床の上に仰向けに転がされていた。

 ゆっ、ユーリっ!! なんて姿にっ!!

 ショックでその場に飛び上がりそうになる。でも、続いて聞こえてきたユーリの声は、うんざりしている感じではあったものの、元気みたいだったので胸を撫で下ろした。

「何度も言っているけどさ、オレがそんなこと知るわけねーじゃんか」

「そんなはずないわっ! あなた、あの猫娘の弟なんでしょ!?」

 ユーリの近くで仁王立ちになったマリカ様が、なぜか猫じゃらしを振り回しながらがなり立てる。 

 ううっ、猫娘ってやっぱり私のことなのかしら。猫娘って言われると某妖怪アニメを連想してしまうのは、元日本人なので仕方がないだろう。

 やっぱりマリカ様は私がアトス様の結婚相手で、かつ猫族だって情報を掴んでいるみたい。きっと、下っ端魔術師辺りを締め上げたのだろう。マリカ様って怖いから自白する気持ちはわかる。げに恐ろしきはマリカ様の執念……!!

 ユーリが溜め息を吐いて「だからあ」とマリカ様を見上げる。

「そりゃ確かにオレは姉ちゃんの弟だよ。でも、姉ちゃんが猫族で、猫に化けるなんて聞いたこともないよ」

 そういえばと私ははっとなった。

 私ったらお父さんにもお母さんにも弟妹にも、自分が猫族の先祖返りだって言っていなかったわ……。隠すつもりはまったくなくて、単純に忘れていただけなんだけど……。

「オレも一度も変身なんてしたことない。だから、どうすれば猫に変身できるかなんてわからないって」

 マリカ様が「嘘おっしゃい!」とユーリににじり寄った。

「必ず猫に化ける方法があるはずなのよ!! それさえできればアトス様だって私がいいって言うはず。絶対長毛種の血統書付き美猫になるに違いないんだから!! あなたもずっとこのままでいたくはないでしょう!?」

 私はここに至ってようやくマリカ様の目的を悟った。

 マリカ様はアトス様が猫好きゆえに私を選んだのだと思っている。だから、自分も猫に変身できればアトス様を略奪できると見込んだみたいだ。

 マリカ様は獣人についてよく知らないのだろう。

 これは遺伝子と魔力の適性の問題で、人為的に獣人になるなんて無理なんです!!――と訴えたいけれども私まで捕まるわけにはいかない。

 ひとまず外で待つアトス様たちに知らせ、すぐに助けに戻るつもりで出て行こうとする。ところが、そこでマリカ様が「どうしても吐かないなら……」と目を血走らせ、なんとユーリの首筋、背中、二の腕、脇腹を猫じゃらしでくすぐり始めたのだ……!

 ユーリがくすぐられながら床をゴロゴロと転がる。

「ぎゃはははははっ! 死ぬ、死ぬ、死ぬ、あひゃひゃひゃあっ!!」
 
 猫じゃらしで弱いところをくするとは、な、なんと非情な拷問……!! 猫族にとってはうらやまけしからんご褒美……いや、お仕置きだ。

「や、やめてくれぎゃはははははっ!! あひゃひゃひゃひゃはぁ!!」

 ああっ、顔が笑い過ぎておかしくなっている!

「ほら、苦しいでしょう? 吐けば楽になるわよ。あーら、あなた、足の裏が一番弱いのね」

 ……マリカ様、なんか生き生きしていらっしゃるのは気のせいでしょうか? 

 やっぱりユーリを助けなくちゃと、人の姿に戻ろうとしたその時のことだった。今度は背後からどこかで聞き覚えのある声がしたのだ。

「よお、王女様。うまく行ったか?」

 足音もなく背の高い男の子が入って来る。私は慌てて再び戸棚の影に引っ込んだ。

 んん? この声っていつか悪代官と町娘プレイに及ぼうとした、金髪忍者こと俺様アビシニアンもどきじゃないの!!

 私は奴の顔を確かめて息を呑んだ。

 ラフに散らばった濃い金髪に、やんちゃそうな純金の瞳と頬の十字傷。この黒服は間違いなくカイ・ミスカ! カイはリンナ国で貴族なのだと聞いている。そのカイがどうしてまたカレリアにいるの!? そして、マリカ様とどんな関係なの!?

 カイは笑い過ぎて涙を流すユーリを見下ろし、「おい、どういうことだ」とマリカ様に声を掛けた。苛立っているような口調だった。

「アイラを捕まえてくることになっていただろう?」

 えっ、えっ、私を捕まえるつもりだったって、一体何がどうなっているの!? 

 マリカ様は不機嫌そうにユーリに目を向ける。

「仕方がないでしょう。あなたから借りた猫取り罠を仕掛けたら、あの女じゃなくて弟の方が引っ掛かってきたんだから。私が悪いんじゃないわ」

 カイは舌打ちをして頭を掻いた。

「……ったく、計画が狂ったな。まあ、カレリアがこっちの支配下に入れば、どうとでもなるか」

 そして、マリカ様の腰に手を回すと、荷物のように軽々と肩に担ぎ上げたのだ。これにはマリカ様も驚いたらしい。

「何をするのよ! 放しなさいよ!!」

 カイはニヤリと純金の瞳を光らせた。

「あんたにはもう一つ人質っつー大切な役目があるんだよ」

 な、な、な、なんだってー!