きっと今私の目は真ん丸になっているだろう。

「……」

 恐る恐る体を起こして手を伸ばす。素っ裸でアトス様の膝の上に座る羽目になったけど、この時にはそれを恥ずかしがる余裕はなかった。この世に二つとないご尊顔を両手でぺたぺた触る。

「あ、あったかい……本物のアトス様だ……」

 ということは、何をどうやってかはわからないけど、お屋敷に戻れたということだ。よく見るとここは私の部屋だ。アトス様はベッドの上に腰掛けているらしい。

「……っ」

 目の奥から涙がじわりと滲む。次の瞬間、感情の堤防が決壊し、私はアトス様にしがみついて、情けなくも声を上げて泣き出してしまった。

「か、か、か、帰れた! こ、怖かったぁあっ!! 怖かったよお!!」

 もう生きているだけで丸儲けだ。人間の足だったら二十キロもなかったんじゃなかろうか。しかし、猫の身には苦しく長い旅路だった。

 アトス様が私の背をよしよしと撫でてくれる。

「恐ろしかったでしょう。君のような家猫系は、外出をすると慣れていないのですぐ迷子になるんですよ。特に女性はオスに追い回され、ますます住処から遠ざかる羽目になることが少なくないので……。山猫系でしたら返り討ちにするのでしょうが」

「こ、怖かった。本当に怖かったです……カイに……変なアビシニアンもどきに会ってっ……」

 いきなり子作り宣言ですよ! おまけに十人は欲しいとか、野球かサッカーのチームでも作るつもりか!

「カイ? アビシニアンもどき?」

 アトス様の体がぴくりと震える。

「……君は、そのオスに何をされたんです?」

「いや、それが俺の子を産めとか言われちゃってですね……」

 交尾には気を付けろ。噛んで来るオスがいるからとは聞いたけど、さすがにそこまでされなかったのが幸いだった。

 そこで私は「あれ?」と首を傾げる。

 一体誰から聞いた情報なのだろう。アトス様ではなかったと思う。優しい、諭すような、大人の女の人の声だったような……。

 私はその声の主をどうにか思い出そうとしていたからか、アトス様がタンザナイトの瞳の奥に、炎をメラメラ燃やしているのに気付かなかった。

「……どこまでされた?」

 不意に体を引き離され、肩を掴まれて目を覗き込まれる。

「え、えと……」

 とにかく逃げるのに必死だったから、正直よく覚えていないのだ。むしろその後の放浪絶食ダイエットの苦痛が勝って……。その前の二週間は毎日食べたいだけ食べていたから……あはっ! 所詮私は色気より食い気の女よ……。

「アイラ、答えてくれないか?」

 いつにないシチュエーションに、私はあれっと目を瞬かせた。アトス様の口調がいつもと違う? あの丁寧語はどこへ行っちゃったの?

 アトス様は眼鏡を外したかと思うと、私の背にするりと手を回した。そのままベッドに押し倒されて目を瞬かせる。

「えっ……」

 何が起きているのかさっぱりわからなかった。

 アトス様は私の頬を優しく撫でる。なのに、切れ長の目が笑っていなくて妙に怖い……!?

「どこまでされたと聞いている。アイラ、君はいい子だろう? 説明できるな?」

「ど、どこまでって……」

「そいつのキスは、こうだったか?」

 次の瞬間、なんの心の準備もなく唇を塞がれた。

「……!?!?!?」

 温かく、少し湿った感触と、ドアップになったイケメン――二つの衝撃で私は声も出なかった。睫毛が私より長いんじゃないでしょうか!? 唇はすぐに離れてタンザナイト色の瞳が私を見下ろす。

「えっ……えっ」

「できないのなら、このまま続ける」

 アトス様は続いて私の目元や、頬や、顎に啄むようにキスをした。

「やっ……」

 くすぐったくて、恥ずかしくて、なのに気持ちがよくて、顔を逸らそうとするのに、頬を挟まれて瞼を閉じることしかできない。何も見えないまま、また、覆い被さるようにキスをされた。

「んぅ……」

 かっと顔が熱くなって体も熱くなる。心臓なんて破裂しそうなくらいドキドキしている。すると、息が乱れてまた苦しくなってきた。目の端に涙が滲むのを感じる。

 私が呼吸困難に陥っているのに気づいたのだろうか。アトス様がやっと唇を離してくれた。

「……んふ、はっ……」

 鼻にかかったような息が漏れ出てしまう。

「アイラ、答えは?」

「……」

 そんな余裕なんてどこにもなくて、私はアトス様を見上げるばかりだった。

 アトス様は目を細めてベッドに散る私の髪を掬う。それから毛先に瞼を伏せてキスをすると、唇の端にどこか薄い笑みを浮かべた。

「私の問いに答えないとは、君は悪い子だな。そんな子にはお仕置きだ」

 お、お仕置き!? お仕置きってなんですか!?

 私はさすがに焦ってなんとか声を振り絞る。

「キスもしなかったんです!」

「本当かい?」

「ほ、本当です!」

 これで許してもらえるだろうか。お仕置きされないだろうか。ところが、アトス様の反応は予想外のものだった――

 タンザナイト色の瞳が食い入るように私を見つめている。そして、「アイラ」とハチミツみたいに甘い声で呼ばれた。指の長い手が私の頬をそっと包み込む。

 切れ長の目に浮かぶ光に心臓が大きく鳴り響く。だって、男の人のそんな眼差しを目にするのは初めてだったからだ。世界でたった一つの大切な宝石を見つめるみたいな――それでいて切なくて胸が苦しくなるような――

「私は君が可愛くてたまらない。可愛すぎて、愛したいのに、意地悪もしたくなる」

「あ、アトス様?」

 目を瞬かせて恐ろしく整った顔を眺める。豹変どころではない態度の変化についていけない。でも、もっとついていけなかったのは、続いての本気の告白みたいな言葉だった。

「君を目の前にするととことん愚か者になってしまうんだ。だからと言って、そばにいなければどうしようもなく不安だ。君がいなかった二週間、毎日胸が潰れそうだった。夜も眠れず君のことを考えていた」

「……」

「とにかく、もう二度とそばを離れないでほしい。君が望むものはなんでも叶える。箱一杯の金貨でも、カレリア一の城でも、カレリアそのものでも構わない」

 いやいやいや、ちょっと待ってください!? カレリアそのものって何なのよ!? アトス様が構わなくても私が構うわ!! それに、地球という世界のニッポンという国には、「猫に小判」という諺がございまして……。

 ところが、場を誤魔化そうとした得意技のツッコミは、アトス様の次なる言葉に遮られた。

「アイラ、君は私が君を思うほど、私を思ってはくれてはいないのだろうな。だが、嫌われていないのならそれだけでもよかった」

 心臓の鼓動のボリュームが直後に五倍になる。

 君を思うほどって……ま、まさか、まさかね。だってアトス様だよ? 次期総帥間違いなしの魔術師なんだよ? 王女様とも結婚できる方が、その辺のメイドの私を好きなはずが……。

「アイラ、君が猫族だからではない。私は君という一人の女性が好きなんだ。人の君も猫の君も目が離せない」

 今度は、心臓が衝撃で止まるかと思った。

「えっ……えっ……」

 前世プラス今世=約五十年分の喪女人生が、走馬灯のように脳裏を駆け抜けていく。

 私はまだ夢の続きを見ているのだろうか。そうだ、これは夢に違いない。だったら、とことん浸ってもいいよね? それくらいならバチは当たらないよね?

 一方、アトス様はあれこれ考える私の唇に、また軽くキスをして額を撫でた。

「どうか私を少しでも慕ってくれるなら、ずっと隣にいると約束してくれないか」

「……」

 少しでもどころか大好きだ。でも、アトス様の言葉が圧倒的過ぎて、おのれの語彙のショボさに呆れて何も言えない。

「アイラ、返事は?」

 大変。返事をしないとお仕置きされちゃう!?

 私は焦った果てにそうだと頭の中で手を打った。私は猫族なのだから、猫族らしくいけばいい。

 手を伸ばしてアトス様の頬を包み返す。

「……アイラ?」

 私はアトス様の頬に自分の顔を擦り付けた。

「好き、です。私の飼い主は、アトス様だけです」

 そう、この人は私の飼い主だ。私のものだ。だから、しっかり私のにおいを付けておかなくちゃ。続いて薄い唇をぺろりと舐めて鼻にちゅっとする。

「大好きです」

 こんなことを男の人にするのは初めてだ。恥ずかしいという気持ちも、勢いで告白するうちに消え失せる。一体どこにこんな大胆さが眠っていたのか、私はアトス様の首に手を回して胸に抱き締めた。

 アトス様はしばらくじっとしていたけれども、やがてくすくすと笑って私の背に手を回した。

「ところで、君は先ほどからずっと裸なのだが、私にこんなことをしてもいいのかい?」

 衝撃の指摘に我に返って青ざめる。

 そ、そうだった……! すっかり忘れていたけど、猫から人間に戻ると公然わいせつ罪で逮捕状態なんだった!

「ギニャー!」
 
 悲鳴を上げてオフトゥンに頭から包まる。今頃顔はイチゴみたいに真っ赤だろう。

「わ、わ、わ、忘れてくださいニャー!」

 ああ、痩せてもタプンとした二の腕もお腹も、ばっちり見られてしまった……!! なんで筋トレを頑張らなかったのか……!!

 アトス様がオフトゥン越しの私の背を撫でる。

「残念だが、忘れることはできないな」

「そ、そんにゃあ……」

 私はひたすらおのれのドジさを嘆いていたものの、次の一言にはさすがにぎょっとしてしまった。

「だが、構わないだろう? これから君はずっと私のそばにいる。私にしか見られることはないんだから」

「……?」

 私はそろそろとオフトゥンの中から顔を出した。

「あ、あの、私にしか見られることはないって……?」

 アトス様は笑顔で私の顎をくいと摘まんで、タンザナイト色の瞳に甘い光を浮かべる。

「それはもちろん、私と君は夫婦だからだよ。前婚姻届けにお互いサインをしただろう?」

「へ……?」

 私の脳裏に奴隷契約書に肉球印を押した、あの間抜けそのものの記憶が蘇った。

「ニャ、ニャ、ニャ、ニャんだってー!!」

 あれって婚姻届けだったの!?