まさか、今になって「斉藤さんちのマロンちゃんになりたい」が叶うとは思わなかった……。

 あれから二週間が過ぎている。私は今日もベッドの上で惰眠を貪りつつ、アトス様の帰りを待っていた。

 ここは屋敷に用意された私の部屋だ。大切なことだから二度言うけど、私の、部屋だ。

 メイド寮の私の四人一室の寝室の六倍はある。東側には天蓋付きのふかふかのベッドが用意されていて、毎日お日様のにおいのするシーツが交換される。絨毯は足が沈みそうなくらいの毛足の長さで、金貨何枚で買えるのか想像もつかなかった。

 部屋の片隅にはなんとキャットタワー(!)も建っている。三階建てでところどころに小屋がついたセレブ仕様だ。執事曰くアトス様が猫愛の果てに発明したそうで、量産したところカレリアの猫好きに大人気。バンバンゼニを稼いでいるのだという。

 こう、お金持ちってどこの世界にいてもお金持ちになるよね……。私はどこの世界にいても社畜だしさ……。いや、今はどこで何をどう間違えたのか奴隷で猫だけど。

 世の中は不公平だと嘆きつつゴロゴロ転がっていると、廊下の向こうで執事とここのメイドの声がした。

「お帰りなさいませ、アトス様!!」

「……!!」

 私は耳をピクリと動かし玄関広間にすっ飛んでいく。

 広間ではアトス様がローブを脱いで執事に渡していた。すぐに私に気付きひょいと胸に抱き上げる。

「アイラ、寂しかったですか」

 体を撫でてくれるのが気持ちよくて、私はゴロゴロと喉を鳴らして瞼を閉じる。

 寂しかったしつまらなかった。早くご飯を食べて一緒に遊びたい。

「わかりました。今夜は仕事の持ち帰りもありませんし、気が済むまで遊びましょう」

 私は喜びにアトス様に頭を擦りつけながら、奴隷の雇用条件に感動していた。こんなことなら前世も奴隷になっておくんだった。奴隷万歳! 奴隷グッジョブ! 奴隷こそ最高にして至高! 

 しかし、たっぷり美味しいご飯をもらって、ネズミのおもちゃで遊んでもらい、アトス様の膝でゴロゴロ転がる最中にはっとなった。

 もう半月も猫的生活を送っている。あまりに快適なのですっかり忘れていたけど、私っていつ人間に戻れるんだろうか!? 実家に帰っていないことも気になった。お父さんとお母さんに事情を説明しなければならないのに。

 でも、この二つをアトス様に説明するのは難しい。頭の中では人間の言葉で考えられるのに、声に出すと「ニャー」「ミャー」「ゴロゴロ」としかならないのだ。

 翌日、私はない脳みそを振り絞り、そうだ! 一旦お屋敷から出よう!と閃いた。ここはアトス様の魔力が満ちているから、私はそれを吸収し続けてもとに戻れないのかもしれない。とはいっても、アトス様にも執事にもメイドにも言葉が通じないし、一体どうすれば出してくれるのだろうか。

 うん、黙って抜け出す選択しかないよね……。

 私はアトス様が王宮に出勤している間に、どこか出られるところはないかと探し回った。ところが、窓にも、煙突にも、排水溝にまで格子が掛けられていてどうにもならない。

 ここまで厳重に穴という穴を塞ぐなんて、ま、まさか……ネズミ&ゴキブリ対策なんだろうか!? うん、カレリアでもネズミとゴキブリは厄介だよね。王宮でも穀物のストックがネズミに食い荒らされたし、チーズの上をゴキブリが張っていて、危うく気絶しそうになったこともあった。

 さて、どうしたものかと首を捻って、もうこれしかないとうんうんと頷く。怒られるかもしれないけど仕方がない。

 その夜、アトス様が馬車で帰ってきたのを確かめて、私は執事と一緒に玄関に向かった。

「おやおや、今日もお迎えですかあ~? んん~、かわゆいですねえっ!!」

 ……この執事もヤバイ気がするけど放っておこう。

 ノッカーが慣らされるが早いか、執事がゆっくりと扉を開ける。アトス様が「今帰った」と足を踏み入れ、すぐに執事の足元にいる私に目を向けた。

「おや、アイラ、また迎えに来てくれたんですか? ほら、こっちへ……」

 手を広げて私が飛び込むのを待っている。

 ……アトス様、ごめんなさい! すぐ戻りますので許してください!

 私は心の中で土下座をすると、扉と壁の隙間に向かって駆け出した。

「……アイラ!?」

 背後から執事とメイドの悲鳴、アトス様の焦った声が聞こえる。

「大変だ! 奥様が逃げた! ああっ! お風呂でリボンを外したままだった!」

「奥様ー! 今日のおやつは鶏のササミですよ! だから、お戻りくださいぃ!!」

「アイラ、戻りなさい!! 外は本当に危険なんです!!」

 ちょっと行って帰ってくるだけなのに大袈裟な。ところで、私の名前っていつから「オクサマ」になったのかしら? 奴隷契約書に改名しろとでもあったのかしら?

 門の前に来たところで立ち止まる。案の定鍵が掛けられていて、柵を乗り越えるしかない。でも、柵の先は防犯に槍の形になっていて危ない。

 私はそこで近くの庭木によじ登った。てっぺん近くに行ったところで、この高さなら間違いないとジャンプする。私の体はくるりと宙で一回転し、無事お屋敷の外の道路に着地した。

 ここから実家までは馬車で二時間くらいだ。とりあえず街へ行って乗り込もう。そのうちに人間に戻れるかもしれない。

 この時私は猫の生活が長引いたせいか、お金がないことも服を着ていないことも、他人からすれば私は猫でしかないことも、間抜けにもすっかり忘れていた。そして、とんでもない事件に巻き込まれることになる。