とりあえず杖は王宮の落とし物係に預けたけれども、あれから無事総帥に届けられただろうか。

 しかし、あのおじいさんが総帥とは思わなかった。式典なんかでは髪をきっちり整えて、総帥だけに許される濃紫に金糸の、ゴージャスな刺繍入りのローブを着ているから、別人にしか見えなかったわよ……。

 私はそんなことをつらつらと考えながら、ついにアトス様の王都のお屋敷の前に立った。ゴクリと息を呑んでその建物を見上げる。

「で、でかい……。斉藤さんちよりでかい……」

 ここは王宮への通勤にも便利な王都の一等地だ。アトス様のお屋敷は鉄の柵で守られていて、その広さは郊外の離宮くらいはあるだろう。横広がりの四階建ての洒落たお屋敷で、クリーム色の壁にいつくも並ぶアーチ型の窓、ブルートパーズを思わせる屋根が素敵だ。部屋なんていくつあるんだろうか。

 アトス様はまだ独身で一人暮らしだから、ワンルームで済むはずなんだけど……これが格差ってやつですかそうですか。宮廷魔術師の福利厚生って充実しまくっているのね。それに比べてメイドってやつぁ……。

 いやいや、今は自分の待遇を嘆いている場合ではない。アトス様に誠心誠意謝罪せねばならないのだ。自首をしに出頭する犯罪者ってこんな気分なのだろうか。

 私は頭上に雨の降る暗雲を漂わせながら、警備のお兄さんに挨拶をして門を通り抜けた。お屋敷の扉は大きくそびえ立っていて、それだけでもビクビクとしてしまう。私は心の中で帰りたいようと泣きながら、ノッカーを何度か叩きつけた。

「……?」

 ノッカーのデザインがなんだか変だ。この世界のノッカーもライオンのモチーフが多いのに、どうしてアトス様のお屋敷は猫仕様!?

 私が驚いている間に扉がゆっくりと開けられる。向こう側には執事なのか、黒服のおじさんが立っていた。

「あ、アイラ・アーリラと申します。アトス様との約束があり参りました」

 早速名乗るとおじさんの顔がぱっと輝く。

「ああ、あなたが! いらっしゃいませ! お待ちしておりました!」

 なんだか歓迎されているみたいで戸惑う。玄関の広間は王宮並みに広くて、調度品も一点一点が立派だった。だがしかし、やっぱり何かが変なのだ。

 そう、壁に掛けられた肖像画のモデルは猫だし、真ん中に設置された彫刻も巨大な猫、片隅に置かれたお高そうな飾り壺にも猫の絵付けが……!!

「では、こちらへどうぞ。ご主人様がお待ちです」

 おじさんについて廊下を歩いていて、また奇妙なところに気付く。外からはわからなかったけれども、どの窓にも鉄格子が掛けられていたのだ。牢獄のように見えて落ち着かない。

「あ、あの~、すいません。この鉄格子ってなんのためですか? 防犯ですか?」

「いえいえ、違いますよ」

 おじさんはにっこり笑って立ち止まる。

「逃げられたら困るからと、先日ご主人様の命令で取り付けました」

「……? 逃げるって何がですか?」

 おじさんはニコニコ笑うばかりで答えてくれない。私はきっとペットを飼うのだろうなと見当をつけた。

「こちらです」

 書斎らしき扉の前でおじさんが立ち止まる。軽くノックをすると「入れ」と返事があった。

 口から心臓が飛び出しそうになりながら、「失礼しま~す」と恐る恐る足を踏み入れる。すると、突然頭がぐらりとなった。乗り物酔いをしたみたいに気持ちが悪い。体調は万全だったはずなのにどうしたんだろう。我慢できないほどではないのでまだよかった。

 部屋はやっぱり書斎のようだった。左右の壁は本棚に占拠されていて、書物が所狭しと並べられている。奧には天球儀の置かれた大きな机が、その向こうの椅子にはアトス様が腰掛けていた。今日は魔術師のローブではなく、濃紺の上着とシャツの私服だった。

 アトス様は机の上に手を組みにっこりと笑う。

「アイラ、よく来ましたね」

 その笑顔になぜか背筋がぞくぞくとなった。

「私服姿もなかなか可愛いですよ。君には緑のワンピースがよく似合いますね」  

 アトス様はにこやかに見えるけれども、長年上司のご機嫌伺いをし続けた、社畜としてのカンが私に告げる……!

 怒っている。やっぱり怒っているよね。ここは前世の得意技で切り抜けるしかない……!

 私はその場でガバと華麗な土下座を披露する。

「もっ、もっ、もっ、申し訳ございませんっ!! 出来心だったんですぅ!!」

「……アイラ?」

「ですが、日記は最後までは読んでいませんんん!! だから、アトス様の婚約者の方のお名前は知りませんし、マリカ様にもそうお伝えしているので、ご迷惑をかけることはないかと……!!」

「……」

 アトス様はきっちり三分間無言だった。やがて、眼鏡を外してどこからか取り出した布で拭う。

 おお、こんな時になんだけどやっぱりイケメンだわ……。

 アトス様は裸眼で私をじっと見つめる。

「……義父からも話を聞きましたが、どうやらお互い何かを勘違いしているようですね。アイラ、私が求婚したことは覚えていますか?」

「へっ?」

 アトス様が恋人にいつプロポーズしたかなんて、私が立ち入っていい話ではないから知るはずがない。

 ポカンとする私の顔に答えを悟ったのだろう。アトス様はどこか引きった笑みを浮かべた。

「……では、マタタビに酔った後のことは?」

「? マタタビってなんのことですか?」

「……」

 アトス様はなぜか頭を抱えて絶句している。

 どうしたんだろう。急な頭痛だろうか。 

「あ、あの~、大丈夫ですか?」

 私はアトス様の具合を見ようと立ち上がる。ところが、その途端にいきなり、本当にいきなりストンと体が落ちたのだ。

「ニャ?」

 バランスを崩して転んでしまったんだろうかと驚く。それにしては辺りが暗いのはどうしてだろう。私は視界を遮る闇から抜け出しぎょっとした。

 こ、これって私のワンピースとブラジャーとパンツとシュミーズじゃあ……。どうして服と下着が床に転がってるの!? それに、アトス様がやけに大きく見えるのはなぜなの!?

「……!?」

 私は大きく見開かれたアトス様の目の、タンザナイト色の瞳を見て言葉を無くした。なぜなら、そこに映っていたのは、紛れもない白黒ハチワレの靴下猫だったからだ……!!

「ニャーッッ!?」

 私は仰天してその場に垂直に飛び上がった。

「ニャッ!? ニャッ!? ニャッ!?」

 どうして猫になっているの!?

 ま、まさか過労とパワハラ、セクハラによるストレスで、ついに幻覚か白日夢を見るようになったのだろうか!? 早く正気に戻らなくちゃ!! でも一体どうやって現実にリターン!?

 私ははたとアトス様の背後にある窓に気づいた。

 書斎は四階で地上までには十分高さがある。夢のパターンとしてピンチや命の危機に陥ると、大体目が覚めるものだと聞いたことがあった。

 そうだ、今すぐ窓から飛び降りよう!! 身投げしよう!! 私は机にひょいと載り、続いてアトス様の肩に移ると、ダイブするつもりで窓めがけてジャンプした……!!

「あ、アイラ、待ちなさい!! そ、そこは……!!」

 ところが、慌てるあまりにすっかり忘れていたのだ。ここにも鉄格子がしっかりと嵌められていたということを。

 ゴッという鈍い音とともに視界にいくつものお星様が飛ぶ。

「あ、アイラ……!!」

 私はずるずると壁を滑り落ちると、仰向けになってその場に伸びたのだった……。