私は私の絵を描きたい。
この言葉は、三年前の私の日記に書いてあった。私は今、美術大学の三年生。自分の部屋を片づけていたら、高校三年生だった時の日記を見つけた。何げなく開いてみると、この言葉が目に飛び込んできた。その当時の私の悩みが、これだった。受験生だった私は受験に沿った課題作品を描くのに必死だったけれども、それとは別に自分がどうしても描きたい、今この瞬間に描きたいという絵への欲求が絶えず襲っていたことを思い出した。 
私は今、私の絵を描いているだろうか……。
大学の講義を受けながら、窓の外の葉桜に目を凝らす。柔らかな黄緑の葉はかつての自分を連想させる。私だって大学に受かって大学のオリエンテーションを受けている頃は、期待に胸を膨らませていたのだ。レンガ造りの校舎に明るい日差しが差し込んでくる。教授の眠さを誘う独特のイントネーションの声が私の耳元に伝わってくる。私の視線はぼんやりと宙をさまよい、あんなに描きたいと思っていたのに、今の私は空気の抜けた風船のようだと感じた。
もちろん、とらなきゃいけない授業はたくさんあって忙しい。でもそれは教員免許や学芸員の資格をとるための授業であって、私の行きたかった道とは違うはず。画家になりたいと一途に思っていたあの頃。美大にさえ行けばその願いは叶うと思っていた高校時代の私。ピュアで真っ直ぐな視線を私は持っていたはず。それなのに、今は。そこまで考えて、講義が終わり、教室内がざわつき始める。
「俺、このあとバイトなんだ」
「私はサークル」
「俺はまだ授業だ」
皆、自分らの次の行くべき場所について語りだしているのが聞こえてくる。私はというと、サークルにも所属していないので、授業が全て終われば、家に帰るのみ。ちなみにバイトもやっていない。そうなると、いったい何しに大学に行ってるの? と、私とは違って文系の大学に通っている成美(なるみ)にときどき言われる。この間会った時も同じことを言っていた。
「ねえねえ、サークルにも入らないで、バイトもしないで何してるの? 桃子(ももこ)もせっかく大学に入れたんだから、お勉強ばっかりじゃあ、息がつまらない?」
馬鹿にしているわけではないだろうけど、成美はつまらなそうな表情をした。セミロングの茶髪、耳にはピアスをはめ、ピンクの口紅をうっすら塗った成美はおしゃれも遊びも謳歌しているように見えた。
「お勉強って言ったって、教員免許や学芸員の資格をとるためのものだもん。しかたないよ。成美だって私と同じ三年なんだから、そろそろ就活の準備しないと駄目じゃん」
「大丈夫よ。そっちもぬかりなくやってるわ」
喫茶店でアールグレイの紅茶を飲みながら、成美は鞄の中から手帳を取り出した。
「私だってただ遊んでいるだけじゃないのよ。サークルの中のOBとかいろんなツテがこの手帳の中に入ってるんだから。人脈って大事なのよ」
そう言うことを平気で言える成美は、なんだかすごいと思ったけれど、少し茶々を入れたくなった。 
「ツテやコネがあっても能力ないと無理じゃない」
「何よ。私には能力ないとでも言いたいの」
むっとした調子で成美は口をあげたけど、そのあと涼しい目で私を見た。
「桃子だって能力ないから、そうなってるんじゃない。教員免許だ、学芸員だって言いながら、画家になるなら、教員免許も学芸員の資格もいらないじゃない」
 私は一瞬恥ずかしさと怒りで、かーっと身体が熱くなった。もともと友人に対して、怒ったりすることは、ほとんどない私だったけど、さすがに頭にきた。でも、成美の言うことは正直当たっていた。だから余計悔しくて、悔しくてしかたなかった。
「帰る!」
突如私は帰る宣言をすると、唖然とする成美を残して喫茶店を後にしたのは、つい先日のことだ。
『私いったい何をしているんだろう』
大学の講義のノートを鞄の中に片づけると、私はのろのろと大学を出た。