エーデルシュタイン帝国との花嫁引き渡しが行われる遥か遠い国境沿いへ向かって、護衛の馬車と共に三週間の旅をした。
 本日の昼にあった花嫁引き渡しの儀式にて、私はヴァーミリオン王国の騎士や使用人に別れを告げ、エーデルシュタイン帝国の馬車に乗り換えた。
 もちろん、ジェラルドだけは一緒だ。
 この世界の世界地図を確認したところ、『黒き森』を抜ける旅は一週間以上かかると予想された。
 魔物も出るので、これからもっと過酷になるに違いない。
 そう踏んでいたのだが、国境にある騎士団駐屯地にあった〝鋼鉄製の門〟を潜るだけで、帝都の城門に到着したではないか。
 どうやらそれが転移魔法装置だったようだ。古代種の魔法技術は、人間だけが暮らす王国よりも遥かに進んでいた。
 ――そうして。穏やかな旅は終わりを告げる。
 私はとうとう、皇帝陛下が住まう宮廷へ辿り着いてしまった。
 現在、私はエーデルシュタイン帝国の宮殿内にある謁見の間にて、震える指先を叱咤しながら純白のドレスのスカートを優雅に摘み、皇帝陛下の御前で頭を垂れている。
 それも――神にも等しい古代種の帝王、ディートリヒ・ヴァン・エーデルシュタイン皇帝陛下へ捧げる『生贄(はなよめ)』として。
「面を上げろ。……あなたがエミリアか。甘くて柔らかそうだな」
 眼前の玉座から、二十代前半ほどの年齢に見える絶世の美貌を持つ青年が私を見下ろしながら、艶やかな唇にゆっくりと弧を描く。
 漆黒の髪がさらりと揺れ、冷血そうな鋭い煌めきを湛えたの深紅の瞳に見つめられただけで、思わず息をするのも忘れてしまった。
 冷酷無慈悲で残虐な古代種の〝悪魔〟という噂の彼を形作るどれもが、蠱惑的な美しさを持っていて、私と同じ世界に生きている人間とは到底思えない。
 色気のある甘やかな低音の美声に、足から力が抜けそうになるのを私はすんでのところで持ちこたえる。
「お初にお目にかかります、皇帝陛下。ヴァーミリオン王国より参りました、エミリア・フォン・アイスフェルトと申します。本日より、どうぞ宜しくお願い致します」
「ああ、よろしく頼む」
 私は内心ガクガクと震えながら、公爵令嬢の意地で微笑みを保った。
 この後、お互いを知るためにと晩餐会など開かれたが、正直何を食べたか覚えていない。
 ディートリヒ陛下の言葉に私がしどろもどろに返事をするたび、なぜだか横に立っていたジェラルドが不機嫌になっていくし。
 同席していたクラウス殿下には、「姉上は本当に美味しそうなので、兄上が羨ましいです」と無邪気に微笑まれたりして、心の中では『ひえええっ!』と冷や汗をかきまくりだった。
 そんな晩餐会もお開きになり、ディートリヒ陛下にお姫様抱っこをされて連れ去られた先は――まさかの、彼の寝室のベッドの上だった。
「ひいいっ! た、食べるのだけは、どうかご勘弁を」
 乙女ゲームの悪役令嬢である私の役割は、婚約破棄と断罪イベントで確かに終わったはずなのにぃぃい!!!!
 どうしてまた、死亡フラグが回避できない状況になってるのぉぉお!?
 悪夢のような災難の到来に、心の中は阿鼻叫喚だ。
「生贄は愛でる(食べる)ためにあるはずだ」
「あっ、ああっ。私なんか食べても美味しくないですぅうぅ」
「そうだろうか? ……ほら。あなたは、こんなに甘い」
 冷酷で残忍と噂されるディートリヒ陛下が、私の手を優しく取り、指先にキスをしながら艶やかに目を細めて微笑む。
「んうぅぅ………………い、痛く……ない?」
「……まさかと思うが、本気で食べるとでも思っていたのか? くくくっ。初心なんだな」
「え、えっ? じゃあ、あの、どういう……?」
「食べるとは、こういう意味だ」
 そう言って、ディートリヒ陛下に長い指で顎をくいっと掬われる。そして、ゆっくりともったいぶるような仕草で、唇を重ねられた。
「…………っ !!」
 なんと、古代種の言う『食べる』の意味は、口付けによって『相手の魔力を分け与えてもらう』行為だったのだ。
 前世も含め恋愛経験ゼロだった私は、彼に熱っぽい視線を向けられただけで顔から火が出るくらい恥ずかしさマックスになり、「はぅん」と一言呟いて昏倒してしまった。
 その結果、聖女の祈りをやめたせいで王国全土を巡らずに、私の体内にとどまっていた膨大な光の魔力が大暴走して、〝甘美な毒〟が雨のように降り注いだり……。
 その〝甘美な毒〟が実は、純粋な古代種にとっての『妙薬』だと判明したりして、大騒ぎになった。
 ヴァーミリオン王国の古代種が〝甘美な毒〟――つまり妙薬で滅んだのは、王国軍を強くしようとして妙薬を摂取しすぎたせいで中毒を起こしたから、というのが真の歴史だそうだ。
 本来の妙薬は肉体強化のためでなく、古代種の帝王にのみ現れる特有の病を治癒するために使用されていたらしい。
 それが女神セレスソルティエーラ様によって封印されてしまったから、帝国は皇帝が変わるたびに妙薬になりえる光の魔力を持つ生贄を娶っていたのだ。
 古代種の帝王と番った人間の生贄は、番となった者と寿命を等しく分け合う。
 過去に生贄となった妃たちが王国へ戻るのを禁じられた理由は、人としての寿命から逸脱してしまったからだった。
 言い伝えとは裏腹に、妃たちは皆、幸せに暮らしたのだ。
 約二百五十年前に輿入れした当時の聖女、アレクサンドラ・フォン・ヴァーミリオン王女の肖像画がその証拠だろう。
 幸せそうに微笑むアレクサンドラ王女の腕には、生まれたばかりのディートリヒ殿下が抱かれていた。

 それから私は、人間としての寿命をまっとうするためにも、未来の夫であるディートリヒ陛下を支えることになった。
 食事の前にお祈りをして魔力を込めたり、具現化した魔力を使って妙薬入りのお菓子を作ってみたりして、忙しく過ごしている。
 もしかして、お父様達はここまで見越していたのだろうか?
 そんな毎日を忙しく過ごすうちに、ディートリヒ陛下との距離も少しだけ縮まってきて……。
 ――部屋で二人きりになった途端、不意に、彼の逞しい腕の中に閉じ込められる。
「エミリア。……あなたを食べたい」
 彼は私の耳元に唇を寄せ、背筋が痺れるような低く甘美な声音で囁いた。
 こんな風に甘く求められるたびに私はいつも赤面してしまう。
「わ、私の魔力が妙薬になり得るのですから、ディートリヒ陛下の食事に祈りを込めるだけでも十分なはずです。わざわざ、こっ、こんなことをしなくても……」
 真っ赤に火照った頰を両手で押さえて、彼の熱を帯びた視線から逃げる。
「俺の番は、いつまで経っても初心で恥ずかしがり屋だな。そんなに可愛らしい反応を見せられると、あなたの全てを奪いたくなる」
「……ひゃ、あっ」
 ちゅっ、とリップ音とともに耳朶へ唇を落とされる。
 それだけで甘い痺れが背中を駆け上がり、立っていられないほどの衝撃にかられる。
 もう私の心臓は羞恥心で破裂寸前だ。
 彼はふっと目を細めて艶やかに微笑む。どこか独占欲を孕んでいるかのような深紅の双眸は、蜂蜜を溶かしたように甘くとろけきっていた。
 こうして『悪役令嬢エミリア』に訪れた最後の〝災難〟は、驚くほどの溺愛へと転じていく。
 十八歳を迎えて、ディートリヒ陛下と無事に結婚式を挙げた私が、誰よりも幸福な結末を迎えるお話は……また、いつかの機会に。

【END】