古き種族が住まう国・エーデルシュタイン帝国は、この数百年の間に三人目の皇帝を失うことになるかもしれないほどの危機に瀕していた。
「――兄上!」
 晩餐の最中、急に胸を押さえて苦しみだした皇帝の側に、銀灰の髪を振り乱しながら駆け寄ったクラウス・ヴァン・エーデルシュタインは、その肩に手を添えながら「急いで宮廷薬師を!」と控えていた侍従へ叫んだ。
 兄上と呼ばれた美青年――艶めく黒髪と深紅の双眸を持つ、二十代前半ほどの年齢に見える絶世の美貌を持つ青年は、苦しさからか激しく肩を上下に動かしながら、弟を安心させるように彼の手を優しく握る。
「……っ、問題ない。食事を続けよう」
「兄上、お願いです。どうか人間の生贄を貰ってください。このままでは、兄上まで倒れてしまう」
 クラウスの唯一の肉親であり、古代種の王――ディートリヒ・ヴァン・エーデルシュタインは、もう随分と前から、王侯貴族の古代種の中でもほんの一握りのみにしか出ないとされるこの症状に悩まされていた。
「こんなものばかり食べていても、兄上の体のためにならない。菜食主義など、僕たちには向いてないんです」
 純白のテーブルクロスが掛けられたテーブルの上へ、クラウスが振りかざした手を付いた瞬間、ガチャンッと食器が揺れる。
 彼はなにも、二人だけのために用意された宮廷のシェフが腕によりをかけて作った料理を〝こんなもの〟と表現したわけではない。
 古代種にはもともと肉や魚や野菜といった『人間の食事自体が向いていない』のだと、そう言いたかった。
「兄上のその症状が発症したのは二百歳を超えてからだ。きっと成人してからの魔力が、体と馴染んでいないんです。
 二百歳を越えれば、人間を食べてもいい決まりでしょう?
 いい加減、菜食主義はもうやめて下さい。迷惑なんです。心配する僕の身にもなってください」
 十六歳ほどの見た目をした眉目秀麗な少年はそう言って、「兄上も、父上も、大嫌いだ」と唇を噛む。
 ディートリヒとクラウスの父である前皇帝は約六十年前に、古代種の帝王にのみ現れる不治の病によって亡くなっている。
 母は番の契約で父と同じ日に、祖父も祖母も同じ病で約二百年前に命を落としていた。
 父亡き後に若くして皇帝となったディートリヒには、両親を失って悲しむ弟に寄り添う時間もないほど政務に忙殺され、執務室に篭りきりの日々を過ごした。
 その後は自ら騎士団を率いて外征に赴くことになり、長らく宮殿を開けることとなった。
 そんなディートリヒの宮殿帰還を誰よりも喜んだのは、勿論弟であり皇位継承権第一位となったクラウスで、それからは長いこと兄にべったりしている。
 幼い頃に両親を同時に亡くし、その最も辛い時期に兄にも置いていかれることが多かった反動からか少し性格は捻くれていてるが、クラウスは常に兄至上主義を掲げていた。
 だからこそディートリヒの体調を気遣い、発作が起きるたびに「人間の生贄を」と口を酸っぱくして言っているのわけだが、兄は十年ほどそれを無視している。
「人間の生贄を貰わないのなら、婚姻を結んで下さい。誰か手頃な古代種の貴族令嬢はいないのですか?」
「クラウス、またその話か……。古代種の貴族令嬢を今皇妃にする訳にはいかないと何度言ったら……うっ」
 ゴホゴホ、とディートリヒは盛大に咳き込む。
 ディートリヒが皇帝に就いたことにより多少若返った宮廷では、純血主義の古狸と新世代の貴族同士の争いが頻発している。
 特定の貴族と婚姻関係を結ぶことは争いをさらに加速するどころか、皇族の弱点を増やすことにも繋がるだろうとディートリヒは考えていた。
 現在の宮廷では、皇帝が人間の生贄を貰うことにさえ明確な理由が必要とされる。
 議会で迂闊なことを言えば「うちの娘と婚姻を結べばよろしい」と壮年期の食えない貴族達に押し切られるのは明白だった。
 そこへ、宮廷薬師を連れた侍従が酷く慌てた様子で戻ってきた。
「陛下、薬師を連れて参りました。それから、緊急の密書が届いております」
 末期症状が出ている今の段階では、もはや抑制薬が効くわけもない。
 ディートリヒは「薬は必要ない」と宮廷薬師の男を手で制すると、侍従から書状を受け取った。
 国境を越えて『黒き森』をたやすく抜けられるのは、翼竜の中でも国境防衛を主任務とする精鋭部隊に属する者のみだが、所属部隊や差出人は無い。
 しかし【至急】とだけ記された密書には、数ヶ月前から北方の国境周辺で数頭のドラゴンが魔物を惨殺している事件について、詳細が記されていた。
【ドラゴンの正体はヴァーミリオン王国の王太子殿下と近衛騎士を含む貴族達である。人質を取るならば〝次期聖女〟が好ましい】
 その筆跡を見て、脳裏には帝国騎士団に所属していた翼竜の女騎士の顔が浮かんだ。帝国騎士団外征隊第一班所属の精鋭――ペトラ・ヴィ・エルトマン。
 この密書を書くように指示を出したのは、恐らく彼女が守護する一家の父親なのだろう。
 光の魔力が膨大過ぎるがゆえに魔物に攫われてしまった少女は、魔物を使役していた悪質な人身売買の男達に捕まり、悪しき風習を崇拝する古代種に売られそうになっていた。
 その少女を『黒き森』で保護したのは、十二年ほど前だっただろうか。
『名前と出身国は言えるか?』
『は、い。……エミリア・フォン・アイスフェルト。出身は、ヴァーミリオン王国の……アイスフェルト公爵領、です』
『公爵令嬢か』
 彼女の名前を胸に刻む。
 ……やっと見つけたと思えた運命の番は、あまりにも幼過ぎた。
 公爵令嬢ともなれば、将来は王太子の婚約者として生き、誰からも愛されるような国母になるかもしれない。
 彼女にはこれから、たくさんの幸福が待ち受けているだろう。
『ペトラ、彼女を家まで送り届けてやれ。可能であれば、彼女の侍女に志願しろ』
『畏まりました』
『エミリア。この力は、あなたの身を危険に晒す。全て忘れて、幸せになれ』
 ディートリヒは手のひらをそっと彼女の頭に乗せ、壊れ物でも扱うような手つきで蜂蜜色の柔らかな髪を撫でる。
 幼い番は安心したかのようにふっと目を閉じ、くたりとこちらに倒れこんできた。
 ……これから先、もう会うこともないだろう。
 すうすうと寝息をたて始めた彼女の寝顔を紅い瞳に焼き付けると、『彼女を頼む』と彼は翼竜の女騎士に託した。
 ディートリヒは静かに目を閉じてから、「そうだな」と考え込むように息を吐く。
 発作の感覚が日に日に狭まっているのを感じる。ディートリヒ自身、菜食主義者を気取るのもそろそろ限界だろうと考えていた。
 このままでは、自分の命も危うい。
 ……そしてきっと彼女の命も、何らかの事情で風前の灯火なのだろう。
「兄上……?」
「ああ。大方先祖返りが進行しただけだろうが、少し牽制でもしておこうか」
 美しい皇帝は乱れてしまった濡羽色の前髪を掻き上げ、艶やかな唇に弧を描きながら、誰もが虜になるようなうっとりとする微笑みを浮かべた。
「今すぐ、隣国のヴァーミリオンに使者を出せ。――生贄(はなよめ)を貰おう」