舌を噛み切らぬよう口布を噛まされた私は、地下牢に連行された。
 烈火の如く怒り狂う元婚約者である王太子殿下によって、硬く冷たい石畳の床に力一杯投げ捨てられる。
「んーっ、んんーっ!」
 私はこんな扱いを受けるようなことは、何もしていません!
 そう叫びたいのに言葉にらならない。
 口布を噛まされた唇や歯が苦しくて、苦しくて、息もできないほど喉が細くなる。
 視界は涙で滲んだが、それが溢れてしまわぬように必死に堪えた。
 そんな私へ、怒りに支配された王太子殿下が蔑むような視線を寄越す。
 彼の後ろに控える第四王子、青年伯爵、宮廷魔術師、近衛騎士たち先祖返りの面々も、怒りの中に侮蔑を含んだ表情でこちらを睨んでいた。
「追って沙汰を言い渡す。牢獄で、お前の罪を懺悔していろ」
 王太子殿下自ら、鋼鉄の扉に手を掛ける。
 ああ、なんでこんなことに……っ。
 ガシャン、と耳障りな音を立てながらその冷たい扉が閉められた。その瞬間――心臓が鷲掴みされたように大きく跳ねた。
「……っ!」
 ドクン、と心臓が跳ねると同時に、頭の中へ激流の如く見たこともない映像や感情が流れてくる。
 酷い頭痛を伴って、まるで走馬灯のように流れてきたのは膨大すぎる〝前世の記憶〟。
 ヴァーミリオン王国……アルフォンス王太子殿下……公爵令嬢エミリア……聖女の名を穢した罪……?
 平民の娘アーニャが、ヒロインで……彼らは、そう、攻略対象者……!
 不思議な単語の羅列が、徐々に形を帯びていき、とうとう一つに繋がる。
 王太子殿下達の足音が遠のいていく中、私は苦しい胸に手を当て肩ではあはあと息をしながら、大きく目を見開いた。
 そんな、まさか、本当に……?
 災難続きのショックで、私は幸か不幸か『全て』を思い出してしまった。
 ここが、前世でプレイしていた乙女ゲーム『永遠の約束を君に捧ぐ』の世界で……――私こそ、断罪の末に最後は処刑されてしまう悪役令嬢『エミリア・フォン・アイスフェルト』なのだと。
 あ、ありえないわ……。
 重たくなった両手首を眼前にもたげ、驚愕する。にわかには信じられない。
 けれども、日本で二十数年間を過ごした記憶も、転生してからの十七年間をこの世界で生きていた記憶もしっかりあった。
 しかし、せっかく前世を思い出せても、こんな場所からでは死亡フラグを回避するために奔走することさえ出来そうにない。
 二度目の人生が既に詰んでるなんて。
「んんんんーっ!(酷すぎるー!)」
 そういくら叫んだところで、ここは既に凶悪犯を投獄する地下牢。
 あらゆる属性の最上級魔法で制御された、脱獄不可能な場所だ。
 魔力を無効化する手錠も掛けられているので、今の私では口布を外すこともできない。
 それでも、とにかく状況を把握して打開策を見出さなくてはなくては。
 豪奢な真紅のドレス姿のまま無残にも投獄されてしまった私は、途方に暮れながら冷たい石畳の床からそっと立ち上がり、奥に用意されていた硬いベッドへ腰を下ろした。

 前世の私は、日本に住むごく普通の平凡な二十代OLだった。
 しかし残念ながら上司に恵まれず、超ブラックな職場と家を往復するだけの社畜生活を耐え忍ぶ日々。
 唯一の癒しといえば、乙女ゲームだったわけだが……。
 いつのまにやら過労死の末、『永遠の約束を君に捧ぐ』の世界に転生していた、というのが事の顛末のようだ。
 その『永遠の約束を君に捧ぐ』のストーリーはというと、単純に言えば剣と魔法と先祖返りという、コッテコテのファンタジーである。
 舞台となるのはヴァーミリオン王国。聖女の祈りで季節が巡る、美しい四季に恵まれた国だ。
 この国には現在人間だけが暮らしているが、先祖を辿ると『古代種』ドラゴンにいきつくと言われている。
 しかし、この国の古代種は総じて〝甘美な毒〟で滅びたとされており、その毒は女神の命をもって封印されていた。
 ヒロインは王宮の下働きとしてやってきた平民の少女、アーニャ・アンネリース。
 彼女は王宮の敷地内にある立ち入り禁止の塔で怪我を負った一匹のドラゴンを見つけ、手当てをしようとして光の魔力を開花させる。
 ドラゴンの正体は言わずもがな、『先祖返り』をした王太子、第四王子、青年伯爵、宮廷魔術師、近衛騎士などなどのイケメンキャラクター達だ。
『先祖返り』の症状は満月の夜だけに現れ、彼らは〝不完全〟なために意識さえもドラゴンに奪われる。
 王宮の奥にひっそりと存在する塔の中、魔力を奪う鋼鉄の鎖で繋がれ、獣のようにのたうち回りながら一夜を明かさなければならないため、『先祖返り』の存在を知る一部の者たちは、それを〝呪い〟と呼んでいた。
 そんなある満月の夜、現れた一筋の希望の光。
 彼女から溢れ出た光の魔力は、陶酔せずにはいられぬほどに甘かった。
 先祖返りの彼は傷を癒される最中、『まるで言い伝えにある〝甘美な毒〟のようだ』と感じ、身をまかせる。
『彼女こそ、女神に遣わされた先祖返りへの救い。彼女こそ、真の聖女だ』
 そう確信した彼は、自分たちに巣食う呪いを消滅させるため、毒を求めてヒロインと交流を深めうるちに彼女に惹かれて恋に落ちてしまう。
 自分が毒になると知らぬ彼女は、彼を癒し、救いたい。
 思惑とは反対に、意識が鮮明になり完全に先祖返りの力を操れるようになった彼は、目を覚ましたように彼女との幸せな未来を夢見て奔走する。
 二人はそうやって少しずつ心を通わせ愛を深めていくが、そのせいで彼の先祖返りが深刻化してしまうという、悲しき運命が待ち受けているのだ。
 そんな中、王太子の婚約者である高慢で意地悪な公爵令嬢エミリアが、健気に頑張るヒロインを容赦なく虐めてきたりと妨害イベントを頻発させる。
 悪役令嬢エミリア自身も光の魔力を有する者なのだが、質や量に問題があるためか、ゲーム内で攻略対象者達が彼女に興味を示すことは無かった。
 けれども、悪役令嬢が『次期聖女』の座についている以上、真の聖女であるはずのヒロインはその地位に就くことができない。
 どのルートでも最終的に立ちはだかるのはこの悪役令嬢だが、アルフォンス殿下の生誕祭で『未来の王妃にも次期聖女にも相応しくない』と彼女は断罪され、ヒロインはハッピーエンドへ階段を駆け上がる。
 最終的にはヒロインが王妃様(ラスボス)から得た『竜妃玉』で彼の先祖返りの呪いを解き、二人は人間として幸せに暮らす……という感じだ。
 それにしたって、どうせ前世のことを思い出すのなら、もっと早く思い出せていれば良かったのに。
 例えば――そう、ゲームのヒロインである『アーニャ・アンネリース』が、王宮へ侍女見習いのために上がってくる前とか。
 そうすれば彼女と仲良くなって、王太子殿下とも話し合いだけで円満な婚約破棄を迎えて……。
 こんな風に投獄される日は、一生訪れていなかったかもしれない。
 王太子殿下の婚約者として長年つつがなく過ごしてきたと思っていたのに、今夜のように公衆の面前で怒鳴られながら断罪されて、乙女心はズタボロだ。
 次期聖女の座を追われるにしても、家族やアイスフェルト公爵家に関わる人々に迷惑を掛けないような方法が何かあったはず……。
 前世でキャラクター達へ一方的に捧げていた熱は、今やほとんど鎮火している。
 心を占めるのは……投獄されるほど憎まれていたことへの、大きな悲しみ。そして、この十年間に信頼関係など少しも築けていなかったことへの酷い虚しさだった。
 ……まさか理由はこの悪役顔のせい? それとも態度!? ……ううん、もしかしなくても両方よね……っ。
 前世の十人並みの平々凡々顔と比べれば、それはそれは随分と美人になっているが、誰から見てもキツイ顔立ちと言っていいこの悪役顔では、善意の行為だろうと悪意にとられるに違いない。
 態度の面で言えば、転生時から平凡庶民の魂を持っていたからか、前世の記憶が蘇る前の私が乙女ゲームの彼女のように特別高慢だったり高飛車だったりしたような覚えはない。
 どちらかというと未来の王太子妃、次期聖女……そんな、背負うものがある公爵令嬢として恥ずかしくないような立ち居振る舞いを心掛けるのに毎日必死だった。
 けれど、もしかしたら、それが高慢で意地悪な態度に感じ取られていたのかもしれない。
 ……他の令嬢達から、アーニャ敵対派の首謀者として認識されるくらいには。
 ……王宮に仕える令嬢達とアーニャの関係が、円滑に進めばと思っての行動だったのだけど……。
 きっと悪役令嬢の私の親切には全て、『悪役補正』が掛かってしまうのね。
 だから、アーニャへの親切心も裏目に裏目に出ていたんだわ。
 前世の私自身も、『エミリアは悪役令嬢の鑑のような酷く古典的な嫌がらせをするなぁ』と思っていたので、アーニャ視点での証言ではこうなってしまうのも頷けた。
 冤罪が晴れた暁には、もっと親しみを持ってもらえるような態度の令嬢になりたいと思う。
 ……とは言え、このままでは乙女ゲームと同じく『死刑』と告げられるだろう。
 ヴァーミリオン王国は聖女の祈りで魔力が巡り、四季や豊穣が訪れている国。
 そのため、聖女と次期聖女の祈りの妨げになる行為や、女神神殿への不法侵入、聖女の名を穢す行為は全て『国を滅ぼすことに繋がる』とされ、殺人と同じ罪に問われる。
 そしてそれは、聖女に選ばれた者達自身の生活態度にも当てはまった。
 完全な冤罪なのだが、私は次期聖女であるのに非道な嫌がらせを繰り返しただけでなく、現在の次期聖女を貶めたことになっている。
 もしも、この世界が記憶にある乙女ゲームのシナリオ通りに進むとすれば、この後ヒロインが真の聖女の力を解放して、先祖返りたちと一緒にラスボスである現聖女様と戦う流れになる。
 その前に挟まれた状況説明に書かれていた悪役令嬢エミリアの処刑日は、確か――投獄から、三日後だ。
 せっかく前世を思い出したのに身動きが取れない上に、今度は死亡フラグ回避に奔走できないという災難に襲われるなんてー!
 悪役補正は、どれだけ災難を呼べば気が済むのっ!!!!
 うううっ。今世こそは、もっと長生きしてみたかった。
 長生きができないのなら、せめて最期に、お父様とお母様にもう一度会いたい。
 ジェラルドやペトラにも会いたい。そして……って、やっぱり処刑なんかされたくない――!
 私は暗くて冷たい牢獄のベッドの上で蹲りながら、抱きしめた膝に顔を埋める。
 何かイレギュラーなことがあれば、助かるかもしれないのに……。
 糾弾されたどの状況の時も側には必ずジェラルドやペトラが一緒にいたが、彼らがいくら冤罪だと証言しても『身内を助けるための嘘』と思われてしまうかもしれない。
 アーニャへの嫌がらせの首謀者は、多分乙女ゲームで『悪役令嬢の取り巻き』とキャラ付けされていた私の友人の侯爵令嬢達なのだろうけれど、彼女達が出頭してくれるとは到底思えなかった。
 唯一乙女ゲームの悪役令嬢断罪シーンと違ったところと言えば……婚約破棄イベントの最後に、お父様が私へ温かい言葉をかけてくれたことか。
 今思えば、幼い頃から前世の夢を時折見ていた影響で、『夢で見たの』と変なところで日本独特の文化を家族に披露していたからか、乙女ゲームの悪役令嬢が育った殺伐とした家庭環境とは違い、随分とアットホームで温かな家庭環境で育った。
 思い出したらきりがないが、一番突拍子も無いものは交換日記だろう。
 夢の中の少女達に憧れて、家族で交換日記をするなんて非常識過ぎて恥ずかしい。
 けれどそのお陰で、アイスフェルト公爵家が仲良くなれたのは事実だった。
 乙女ゲームでは宰相という立場にあるお父様は『エミリア』を切り捨て、審議会を開くことはなかったけれど、現在の家族を溺愛しているお父様であれば……どうにかして、私の冤罪を晴らしてくれるはず。
 この危機を脱して無事生還できれば、乙女ゲーム内での『悪役令嬢』の役割から解放されて、今度こそヒロインにも攻略対象者にも邪魔されない……〝私〟の、本当の人生が待っているに違いない。
 そんな淡すぎる一縷の望みを抱きながら、私は涙が浮かぶ目を閉じた。