十月が終わろうとしている。あれほど居座り続けた夏の暑さも忘れてしまった涼やかな風が吹いている。時々、寒いと感じるぐらい。
 終礼の合図で立ち上がる。冬制服のブレザーが教室にずらりと並んでいるけれど、それも見慣れてしまった。教室に漂う空気には、半袖など夏を思わせるものはふさわしくない。
「起立、礼」
 深くお辞儀をするとタイミングを計ったかのようにチャイムが鳴った。これから掃除だ。今日の担当は教室だった。掃除の時間はあまり好きじゃない。嫌気たっぷりに息を吐くと、藤野さんと古手川さんがやってきた。
「おつかれー! 鬼塚っち、今日の掃除担当は教室でしょ?」
「うん」
 あれから。藤野さんと古手川さんは私の友人となった。
 鬼塚さんと呼ぶのは堅苦しいからと、妙なあだ名をつけられてしまった。いまだに慣れないけれど、嫌ではない。古手川さんはあだ名で呼ぶのが苦手らしく、今も鬼塚さんと呼んでくる。けれど以前と違って距離の近さが伝わってくる。
「明日、全校集会あるらしいよ。めんどいよねー。体育の後だから眠くなりそ」
「寝ればいいじゃん」
「いやいや。鬼塚っち度胸ありすぎ」
「ふふ。ハナ先生に怒られちゃうよ」
 机と椅子を教室の端に移動させながら、明日のことを話す。全校集会は嫌う生徒が多いが、私は特に嫌いじゃない。寝てればいいだけだ。授業中よりも気づかれてにくいので、寝やすい環境だと思う。
「で。明日は表彰があるって話、聞いた?」
 藤野さんが言った。私と古手川さんは同時に藤野さんへ視線を送る。
「うちだけじゃなくて、そこの二人もだからね」
「聞いてない」
「何を表彰されるの?」
 首を傾げる私たちに対し、藤野さんは得意げに鼻を鳴らした。
「今年の守り隊がんばったじゃん? 警察と町内会会長さんがきて賞状渡すんだってさ」
 ああ、と納得して頷く。
 今年の例大祭以降、兎ヶ丘は騒がしい。それはお祭り中に発生した強盗事件のせいだ。通行人が多く大惨事になりそうな状況で、奇跡の怪我人ゼロ。これは全国ニュースでも取り上げられ、兎ヶ丘は一躍有名な場所となった。
 犯人を取り押さえるなど活躍したのは町内会だけど、その影には守り隊という高校生ボランティアの存在がある。高校生の注意喚起によって町内会役員の防犯意識は高められ、今回の結果に至った――そういう感動ストーリーだ。
「なんか守り隊の写真撮りに、新聞社とかくるらしいよー」
「表彰ねえ……」
 藤野さんの話を聞いても、私と古手川さんの表情は晴れなかった。
 おそらくは明日、守り隊がステージにあがるのだろう。でもそこに、いるべき人がいない。
 昨日も今日も、鷺山の靴箱はからっぽだった。ロッカーも埃がかぶっているし、彼の席も無人の状態に当たり前となりつつある。
「やっぱ元気ないね、鬼塚っち」
「そりゃそうだろ」
 はあ、とため息をついた藤野さんに返事をしたのは篠原だった。
 彼は隣のクラスだ。なぜここにいるのかと責めるように藤野さんが篠原を睨む。
「あんた、掃除サボってんの?」
「俺のクラスは、俺がいなくても掃除できちゃうんだって」
「うわサイテー」
 相変わらず藤野さんと篠原は仲がいい。
 あの日、篠原は藤野さんのことが心配で旧道にいたそうだ。声をかけようか迷っている時に事件に遭遇したらしい。すぐに飛びこんだ勇気は素晴らしいと思う。でも掃除のサボりは評価マイナスだ。
 今回のことで篠原と藤野さんの仲が近づくかと思ったものの、二人の関係は以前と変わらなかった。相変わらずちょっかいを出しては成敗されている。
「お前、明日はポニーテールがいいんじゃね?」
「はあ? なんでよ」
「写真撮るらしいじゃん? その髪なら残念な藤野でもマシに見えるって」
「よーしそこに座れ。いまホウキ取ってくるから。今日は面ね」
「暴力女藤野!」
 もう少し篠原も素直になればいいのに。藤野さんも楽しそうにしているから、これでいいのかもしれない。
 二人がじゃれあってるのを横目に、私はぼんやりと考えこむ。
 九月二十二日。あの日は色んなことが変わった日だ。私の隣はぽっかりと空いている。帰り道一緒に歩く人も、手を繋いでどこかに出かける人もいない。
 未来を変えるなんて言っておきながら、生きて二十三日に得たものは空虚だった。急に日常が色あせて、白黒になってしまったように、寂しい。
「鬼塚さん」
 古手川さんに声をかけられ、我に返る。
「今日も寄るの?」
「うん。背負わされちゃったから、面倒みないと」
 どこに寄るのかみんなには話している。私が鍵を見せると古手川さんは「そっか」と頷いた。
 ふと見れば、篠原と藤野さんはまだじゃれ合っていた。これでは私のクラスも掃除が遅れそうだ。

***

 学校を出て慣れた道を行く。掲示板には町内会作成の真新しいポスターが貼られていた。『若者も高齢者も協力しあう兎ヶ丘』と書かれ、その下には防犯への意識を高めようと文言が書いてある。
 協力なんて言葉、以前の私は嫌っただろう。今は進んで協力し合いたいとは思わないけど、たまになら悪くはない。
 秋色に染まっていく街を眺めながらマンションに向かう。そこは鷺山が一人暮らしをしていた場所だった。
 鍵を使って、扉を開ける。閑散としている部屋は、住人がいないためより寂しくなっている。
「ゲンちゃん、小屋掃除しにきたよ」
 声をかけながらケージを覗くと、ゲンゴロウが出迎えるように立ち上がっていた。身を伸ばして天井付近の檻を掴む。
 私が背負わされたのはゲンゴロウの世話だった。今はクーラーをかけずとも涼しいけれど小屋の掃除や餌はやらなければいけない。小屋掃除の間はお散歩も。
 準備をしてからケージの扉を開けると、ガタンと床網を大きく揺らしながら、ゲンゴロウが出てきた。
 鷺山は、こうなることを予測していたのだろう。部屋にはゲンゴロウの世話についてまとめたメモが残してあった。A4用紙六枚分という細かさには正直うんざりしたけれど。
 ペットシーツを変えて、トイレも綺麗に片付ける。給水ボトルの水も入れ替えたら、あとはご飯の用意だ。
「えーっと……小松菜とセロリでしょ。あとは――」
 メモの内容はある程度覚えたけれど、野菜たちは毎回戸惑う。ゲンゴロウは野菜を好むので欠かさず入れて欲しいとのことだった。野菜が足りなくなったら買いに出て、部屋の冷蔵庫で保管している。
 あともう一種類用意するはずだったけれど思い出せない。もう一度お世話メモを確認しようと冷蔵庫に手を伸ばし――そこでゲンゴロウが走った。ぴょん、と足を斜めにしながら飛び上がる、嬉しい時の跳ね方だ。
 今日は随分元気だ。振り返ろうする私を止めるように、声がした。
「オヤツのリンゴをほんの少し、ですね」
 ここに私とゲンゴロウしかいないはずなのに。懐かしい声音を確かめるべく、おそるおそる視線をやる。
「え……どうして、いるの」
 体は硬直して、声が震えた。
 けれど対面する彼は、抑揚のない声で淡々と告げる。
「どうしてと言われても、ここは僕の家です」
「だって病院にいるんじゃ……」
「今日退院でしたので」
「え……」
「通院はしますが、家に帰っていいそうです。連絡入れましたよ」
 呆然としながらもポケットに入れたスマートフォンを取り出す。連絡はきていない。
「知らない。見てない。届いてない」
 頭が追いつかず、短文しか喋れない状態になっていた。鷺山は首を傾げながら自分のスマートフォンを見ていた。
「すみません。気が急いて、未送信のままでした。再送します」
 すると私のスマートフォンが光った。メッセージが一件、送り主は鷺山だ。その本文はというと『退院が決まりました』と淡泊な報告で、しかも目の前にいるのだから今さら送られても意味がない。
 ここに、鷺山がいる。
 頭からつま先までを舐めるように見て、それでも実感がない。
「幽霊じゃないよね? 生きてる?」
「生きてます。確かめてください」
 どうぞ、と付け足して鷺山が首を少し横に向ける。
 手が震えた。何も音が聞こえなかった時を想像して怖くなる。例大祭最終日の感覚がまだ指先に残っている。
 おそるおそる手を伸ばし、触れる。脈を取るなら手首にすればいいくせに私たちは不器用だ。頸動脈の方が探しづらいのに。
 そしてゆっくりと、指先に伝わる音。とくん、と一つ音が刻まれるたび、例大祭最終日の感覚を上書きしていく。
 生きている。指と首の皮膚の下で、優しい音色を奏でる生存証明。
「生きてる」
「はい。幽霊ではありません――そもそも、僕が生きていることは知っていたじゃないですか」
 鷺山が呆れていたので手を離す。
 彼の言う通り、一命を取り留めたことは知っていた。あれから一度だけ病院に見舞いも行った。けれどこうして病院外で合わなければ生きている実感がない。私のいない間にあっさりと亡くなって、幽霊になって会いにきたんじゃないかと怖くなる。
「だって鷺山は勝手に私を置いていこうとするから」
「大丈夫です。僕はみなさんに助けていただきましたから」
 例大祭最終日。意識を失って倒れた鷺山は、危険な状態にあったらしい。一歩間違えれば亡くなっていた。彼を襲ったのは『致死性不整脈』だった。
 こうして助かった大きな理由は、初期対応が早いことだった。あの日、私たちは想像以上にたくさんのものを積み上げていた。鷺山が助かるための要素を私たちは揃えていたのだ。
 まず、あの場に古手川さんがいたこと。彼女の祖父は鷺山と同じ致死性不整脈で突然倒れて亡くなった。祖父の死に何もできなかったことを悔やんでいた彼女の目の前で、鷺山が同じような倒れ方をしたのである。すぐに脈を取り、周りの人たちに指示を出した。
 町内会は不審者を取り押さえるのに忙しく、旧道にいた人たちも距離を空けていたためこちらの騒動に気づくのは遅れた。
 それをカバーしたのが、藤野さんと篠原だった。彼らが所属する剣道部は先日救命講習を受けていた。内容はAEDを用いた救命の練習。もしも藤野さんが怪我を負っていたのなら、ここで適切な処置をすることはできなかっただろう。後にお祭りにきていた看護士の人が駆けつけたけれど、一分一秒を問われる場面で無駄な時間なく動けたのは、剣道部の二人のおかげだ。
 また、AEDもすぐに見つけることができた。もしも町内会員たちが酒に酔っていたのなら、事件などおきないと油断をしAEDの保管場所も変わっていたかもしれない。いつ起こるかわからない危機に備え、すぐ持ち出せるよう長机に置いていたのも功を奏した。
 これらのことが積み重なり、鷺山悠人は一命を取り留めた。
 情けないことに私は何もしていない。あの日、神社の奥で滑って落ち、気がついた時にはスマートフォンが光っていて、鷺山が運ばれた病院や容態を伝えるメッセージだった。つまり事が終わった後。
「……みなさんって言うけど、私、何もできてないから」
 みんなは冷静に動いていたのに私だけパニックだった。自嘲しながらゲンゴロウを撫でる。
 ゲンゴロウは座りこんだ私たちの間で、体や足を伸ばしてリラックスしている。うさぎは額を撫でられるのが好きで、ゲンゴロウも例外ではない。額の部分をそっと撫でると気持ちよさそうに目を細めた。その部分だけ毛はふわふわとせず、少し脂っぽい。たくさん撫でられているのだとわかる証拠だ。
 鷺山はゲンゴロウに目を落とし、それから思い出したように呟いた。
「香澄さんは何もできていないと言いますが、僕は違うと思います」
「どうして?」
「意識を失っている間、夢を見ました。その夢が少し、変だったので」
 変とはどういう意味だろう。気になってゲンゴロウを撫でる動きが止まった。急に撫でられなくなったので不安になったのかゲンゴロウの瞳が開く。耳がぴんと張った。
「真っ暗な中に、白くぼんやりとした光が見えました。その場所は強く風が吹いていて、僕は吸いこまれそうでした。例えるならそうですね、風の音や吸引力は掃除機でしょうか」
「掃除機の夢……それは変な夢」
「例えですよ。とても恐ろしく感じて、何かに掴もうとしたけれど何もなく、僕は吸いこまれかけていました。その時に、うさぎが見えたんです」
「うさぎって、ゲンちゃんが出てきた?」
「ゲンゴロウではないと思います。はっきりと見えなかったのですがなぜか僕にはうさぎだとわかりました。そのうさぎが、鳴いていたんです」
 私は首を傾げた。うさぎは声帯がないはずだ。鳴いていたとしてもそれは食道からの音や空気を鳴らしているだけのはず。
「鳴き声は人間の泣き声に似ていました。すすり泣いている。本当のうさぎならあり得ないことです。だから香澄さんが泣いていると思いました。香澄さんの涙を止めなければいけないと強く想って――その時、うさぎが跳ねたんです」
「……あ」
 うさぎの跳ねる音。
 違うかもしれないけれど、私は例大祭最終日にその音を聞いている。境内の奥に滑り落ち、意識を失う直前に。
 鷺山は顎に手を添え、記憶を辿りながら続ける。不可解な夢が鷺山を戸惑わせているようだった。
「うさぎの後ろには赤い光がありました。けれどうさぎは赤い光でも、白い光でもない、別の道に向かって跳ねていきました」
「別の道……」
「夢はそこで終わるので、面白い結末はありません」
 変な夢ですみません、と鷺山は結んだけれど。何か意味があるのかもしれないと考えていた。
 二つの月のうちどちらか。その選択によって後悔し続けたうさぎ様が、どちらでもない未来を与えてくれたのかもしれない。後悔はない、誰も死なない未来を。
「夢の話はともかく。僕が助かったのは、香澄さんのおかげだと思っています。あの場面にみなさんを集めてくれたのは香澄さんです」
「……そう、だといいけど」
「僕が生きるために必要な人たちを繋いだのは香澄さんです」
 友人たち、町内会、幽霊話にうさぎ。十六日間で出会ったものはすべて繋がっていて、私たちは生きている。
 鷺山は煩わしそうに前髪をかき上げていた。入院していた間野放しにされた前髪は、だいぶ伸びてて不便そうだ。
「ねえ。せっかくだからさ、髪切ってあげる」
「今ですか?」
「生きたら前髪を切ってあげるって約束したじゃん。ハサミどこ?」
 彼は渋々といった様子で棚の引き出しを指でさす。開けてみるとヘアカット用のハサミが入っていた。
 ゲンゴロウを小屋に戻し、新聞紙はないのでペットシーツに鷺山を座らせる。穴を開けたゴミ袋をケープ代わりにしてかぶせた。たかが前髪のカットに大げさだと笑っていたけれど、部屋に髪の毛が散らかるよりはいい。
 そして、ハサミを入れる。重たく長い前髪がばっさりと切られて、ケープに落ちた。
「……あ」
 少し切りすぎたかもしれない。まあ、何とかなるだろう。動揺を悟られぬよう平常心を装って、再び切っていく。
 綺麗な瞳が見えた。前髪を切られていることで緊張しているのか目を伏せている。まつげが長い。
「このまま後ろも切ってあげようか」
「前髪が仕上がってから判断させてください」
「大丈夫。私、鷺山よりもうまいから」
「根拠がない発言すぎて不安になります」
 こういう時だって信じてくれればいいのに。
 そして、しばらく無言が続いた。ハサミの動く音と切られた髪がケープに落ちる音だけが響く。
 心地よい時間だ。この幸せを手に入れたかった。やっぱり私は、鷺山悠人が好きだ。
「ねえ、もし三度目の予知を視たらどうする?」
 聞くと、鷺山は間髪いれず「勘弁してください」と答えていた。
 私はというと。九月に置いてきたはずの夏の香りを思い出していた。駆け抜けていった十六日間。私たちが作った奇跡。
 この未来を掴んだ今だから、この男に告げたいことがある。
「次は、自分が死ぬって言わないで」
「……はい」
「私のことが好きなら、生きてよ」
「はい……約束します」
 それは、ずっと聞きたかった言葉。やっと約束してくれた。
 前髪の長さを切りそろえ、最後の仕上げとして確認する。すっと通った鼻筋や綺麗な瞳。私はこっちの鷺山の方が好きだ。爽やかで格好いいと思う。
「できたよ。目を開けて」
 言うと、おそるおそる瞼が動いた。
 鏡を見るそのまなざしは、驚きに揺れている。
「どう?」
「世界が明るくなりました」
 鷺山は笑っていた。さっぱりとした前髪の向こう、眼鏡の奥で優しく細められた瞳。
 前髪を切っていない私も、世界が明るくなった気がした。

<了>