腹減ったなぁ。
 ビールが詰まった段ボールを抱えながら好物を想像する。焼き肉、寿司、ラーメン、カレー、たこ焼き……。
 ダメだ。そんなこと考えたって、食べられない。首をぶんぶん振って、頭を空にする。いや、もしかしたら……。
 もしかしたら俺の勘違いで、財布の中に小銭が入っていたかもしれない。しかし、財布の中は空っぽで、ポケットの中を裏返しても一円すら出て来ない。金の代わりに、くしゃくしゃに丸まったレシートが出てきた。給料日まであと一日だったが、家に帰ってすぐさま布団に入り、空腹を紛らわすしかないだろうと、諦めた。
 コンビニと酒屋のアルバイトを掛け持ちしていた。深夜のアルバイトから、一旦家に帰り少し仮眠を取った後、酒屋のアルバイトに向かっていて、もうくたくただった。
 このフリーター生活は、俺が大学を卒業してから今日でちょうど三年だった。在学中は就職を決め就職活動をしていたものの、内定をもらった直後にどうしても諦められない夢があると、内定を蹴ってしまった。その、どうしても諦めきれない夢とは、イラストレーターになることだった。バカだということは、自分自身が一番よくわかっている。
「お疲れ様です」
 仕事終わりに、店長に声をかけた。
「加藤、ちょっと待て」
 いつもと様子の違う店長に、少しドキッとした。なにかやらかしたことはあっただろうかと、今日の行動を一瞬で振り返る。店長は車のキーを手に取った。
「腹、減ってんだろ。ラーメン食いに行くぞ」
「え?」
「えじゃねぇ。いらないのか?」
「い、いいえ! いります! でも」
 金がないんです、と言えずうつむいた。
「いいから早く乗れ」
 車でほんの五分くらいのところに、安いラーメン屋があった。安いと言えども、今現在一銭も持たない俺にとっては高級だ。
 平日の夜だからか、店内はガラ空きだった。店員は「お好きな席にどうぞ」と言い、案内はしなかった。
 席に着き、メニューを広げた。
 俺は硬直したままメニューを眺めた。一番安いラーメンで、二百八十円だった。当たり前だが、水しか飲めない。
「あの、店長。実は俺、今金欠で……」
「そんなことは知ってる。好きなものを頼んだらいい」
 好きなもの、と言われ、パッと目についたのは得盛りチャーシュー麺だった。でも、チャーハンも食べたいなぁ、なんて思いながら、やっぱり一番安いラーメンにしようと決めた。
「すいません」と店長が店員を呼び「頼め」と言われた。
「あの、ラーメンを一つ」
「それはなしで。得盛りチャーシュー麺を二つ。あと、チャーハン一つ」
「ラーメンはなしでよろしいですか?」
「はい」
 俺はぽかんと口を開けてしまった。
店長はタバコを胸ポケットから取り出し、吸いはじめる。
「あ、あの。お金は明日払いますんで……」
「いらねぇよ」
 ぶっきらぼうにそう言って、白い煙を吐き出す。
「お前、そんな遠慮ばっかしてねぇで、おごられるときは思いっきりおごってもらえばいいんだよ。だから、最近の若者は弱いだとか言われるんだ」
「えっと、その、ごめんなさい。いや、ありがとうございます」
「それにしてもさ、お前、いつまでそんなことやってるつもりなんだ。フリーターを続けて何年になるんだよ」
「三年……くらいです」
 店長に、自分の夢について語ったことは一度もない。就職に失敗したか、正社員になるつもりがない奴と思われているかもしれない。
「なんで三年もフリーターなんだ。大学は卒業したんだろ」
「はい。卒業はしました。でも……」
 小さいころから、イラストレーターになるのが夢だった。憧れのイラストレーターが講師をしている大学に入りたくて、両親の反対を押し切り上京した。特に頭のいい大学ではなく、金を積めば入れる大学で、両親は渋々授業料を払ってくれていた。大学ではその先生の金魚のフンのようにずっとくっついて、暇さえあれば先生の研究室に入り浸っていた。
 先生に指導してもらい、イラストレーターになった生徒がひとりいた。俺よりひとつ歳上だった。先輩は、卒業式の後のパーティーで「お前はイラストレーターには向いてない」と遠回しに言った。もしかしたら、それが原因で絶対にイラストレーターとして有名になると頑なに決めたのかもしれない。馬鹿なのは重々承知だ。いつか見切りをつけなければならない年齢があると知っていた。しかし、諦めきれなかった。バイトを二つ掛け持ちし、画材やらを買いそろえ、時間があるときはスケッチブックを片手に外に出て、絵を描いていた。駅前に座り込んで、絵を売ったこともある。代金は、客に決めてもらっていた。その方が、高値で売れることがあるのだ。「全くのアマチュアだから」と一枚の絵を百円で売っていた頃、通りがかりのサラリーマンにそう助言されたのがきっかけだった。
「俺、馬鹿なんです。よくわかってます。でも、諦められない夢があって」
 ぽつり、ぽつりと話す言葉を、店長は黙って聞いていた。俺も、一度話し始めたら止まらなくなっていた。
「イラストレーターになりたくて大学に行って、有名な先生に見てもらって四年間を過ごしました。でも、自分以外の人が褒められたり、何かの賞に当選したりすると、その作品は絶対に見られませんでした。自分との差を見せつけられるような気がして、そしたらもう絵なんて描きたくないって思うんじゃないかって、怖くて。ひとつ上の先輩に言われたんです。『お前は、全然成長してない』って。『お前には向いてない』って言われたような気がして、傷付きました。その頃は就職活動をしていて、でもイラストレーターで有名になりたいなってただ漠然と思っていて。俺だってやればできるんだって見せつけたくて、そこから就職活動を辞めました。ちょうどその頃、一社内定が出ていたんですが、辞退しました」
 店員がラーメンを運んできた。その瞬間、ものすごい腹の音がした。
「麺が伸びるから、さっさと食え」
 そう言って、割り箸をくれた。
 目が染みるのは、ラーメンの湯気のせいだと心の中で言い聞かせた。


                ***


 今の俺があるのは、親父がこの店を持っていたからだと思う。年を取ると、そうやって誰かのおかげで今まで生きてこられたと感謝したくなることが多くなった。俺が二十歳の時に店を継ぎ、二十三歳で結婚してもう二十年近くになる。残念ながら、この店を継いでくれるわが子には出会えなかった。店は俺と嫁とアルバイト数人でなんとか切り盛りしている。
 本当は、酒屋なんて仕事には全く興味がなく、しかし何の夢もなかった。若い頃はただただ飲み歩いてぶらぶらしていた。このままだらだらして、いつか親父の店をもらえば職には困らないと思っていた。
 ちょうど二十歳になった頃、親父が倒れた。余命は残り三か月。母は泣き、寝込んでしまった。それでも俺は、入院する親父に会いに行くわけでもなく、母の面倒を見るわけでもなく、相変わらず酒を飲む毎日だった。
 俺は何もできない。両親を助けることなんて無理だ。そう見切っていた。
 いつもの飲み屋を出て「もう一軒回ろう」と俺が言うと、「いい加減遊ぶのはやめて、親父のところへ行ってやれよ」と連れに言い返されてしまった。
 やけくそになり、一人で居酒屋を転々とした。どれだけ飲んだか、何を飲んだかすら思い出せないくらい意識が朦朧としている中で、隣に座っている男に声をかけられた。
「何かあったのかい」
 いまだに何を話したのか思い出せなかった。でも、気が付いた時には餓鬼みたいに声をあげ大泣きして、男に慰められていた。カッコ悪い姿だった。思い出すだけで恥ずかしい。でも、もしもう一度あの男に会えるならお礼が言いたい。
「できるよ、君なら」
 その言葉だけはしっかりと覚えていた。今も時々茂は思い出す。
 店を出るとき、男は俺の分まで金を払った。そしてタクシーを呼ぶと、病院まで行くように運転手に伝えた。車に乗り込んだ時には少し酔いが醒めていたが、酔ったふりをしたまま男の言うままに身を任せた。
 あの男は、親父に会いに行けなかった俺の背中を押してくれた。あの男に会えなかったら、父の死に目に間に合わなかっただろう。馬鹿だ、間抜けだ、何もできないクズだ、と周りに言われた俺を、男は全て受け入れ、慰めてくれた。たった一度、居酒屋で隣り合わせになっただけの男に。
 世界は俺の敵だと思っていた。人間なんて、冷たい生き物だ。俺を含めて。自分がかわいくて、傷つけたくない。他のものには興味はない。誰かが助けてくれと頼んだって、「どうか俺に声をかけてきませんように」と心の中で祈っているのだ。そんな世界で、生きていたくないと思った。
 でも、世界は俺が思うほど冷たくなかったかもしれない。顔すら思い出せないけど、確かにあの男に助けられた。そして、両親にも。俺は、生かされた。

「諦めちまうのか、その夢」
 俺が訊ねると、加藤は「うーん」と唸った。諦めると言いつつも、諦めきれていないのがわかった。
「俺が『お前には才能もない。そんな夢辞めて、俺の後を継がないか』って言ったら、どうする」
 顔を引っ叩かれたような顔をして、俺を見る。
「店長、それ冗談っすよね?」
「当たり前だ」
 ホッと胸を撫で下ろしている。やっぱりまだ夢を追いかけているのだ。全然諦めきれてないじゃないか。
「お前なら、やれる。その先輩やらなんやらに言われた言葉が間違ってるかもしれない」
「でも俺、もう何年もフリーターで、彼女はいないし、このままじゃ……」
「誰の人生と比べてるんだよ、バカたれ」
「え?」
「人それぞれ人生があるんだ。誰かがそうだからとか、お手本にするんじゃねぇ。そんなもん、手本にしたところで自分は幸せになんかなれねぇよ。自分の中でけじめつけろ」
 そうだ。昔の俺も、どこかの誰かと自分を比較していた。そいつらより、俺はできない。ずっとそう思い込んでいた。あのままだったら、俺はただ酒を浴びるように飲むことしかできない男になっていただろう。
 加藤は、汁まで飲みほした器をじっと覗いている。
「汁まで飲まなくたっていいんだぞ」
「いえ、汁が美味しくて……」
 震える声でそう言った。俺は何も言わず、水をすすった。
 飲み歩いていたあの時間を悔いてはいない。むしろ、必要な時間だと思ってる。誰にだって、迷う時間が必要だ。どれだけ迷うかは、その人次第。俺は散々悩んだ。でも今、誰かの背中を押してやる順番がめぐりめぐってやって来た。
「ごちそう様でしたっ!」
 加藤の馬鹿でかい声は、ガラガラの店内に響き渡った。