「海吏、暇なら水守さんの家に回覧板を持っていって」


パチパチと油の跳ねる音と特製ソースのにおいにつられて、晩ご飯の支度をするお母さんの後ろについて回っていたら、眼前に回覧板を突きつけられた。

ゲッと顔を顰めるけれど、お母さんは僕を一瞥もすることなく、メンチカツをひっくり返している。

サラダのレタスをちぎってと頼まれたときに素直に頷いていれば良かった。まだどこかに逃げ道を探し、咄嗟にそばに置いてあった大皿を持ち構え、両手を塞ぐ。


「明日、お母さんが行けばいいじゃん」

「暇なんでしょ? すぐそこじゃない。行ってきてよ」

「すぐじゃねえし、全然遠いし!」


台所の窓から覗いたずっと先にとんがり帽子の先のような建物が見える。片目を瞑って手を伸ばしたらつまみ上げられそうなほど小さく、遠近法ですぐそこにあるように見えるけれど、実際には結構な距離がある。

平坦な道ならまだしも、道は緩い傾斜になっていて、窓から建物の全貌が見えないのは、坂をのぼりきったあとしばらく下らないとたどり着かない場所に建っているからだ。


「水守さんの家に電話してさ、取りに来てもらえば」

「へえ。海吏、八枝さんにそんなことを頼める?」

「いや、ハツエばあちゃんじゃなくて。あいつだって。ほら、あいつ……」

「あいつじゃないでしょ」

「だから! あいつだよ、水守……」


お母さんは『あいつ』が誰のことなのかわかっているはずなのに、知らん振りをする。

変に濁したせいで余計に口にしづらくなってもごついていると、いい加減に片手を空けたいお母さんが、僕の両腕の間に回覧板を押し込んできた。

ついでに大皿を取り上げて、まだいらない、とテーブルに戻される。


「今日行かないなら明日頼むだけだからね」

「いつもはお母さんが持って行くじゃん」

「たまには海吏が行ってくれてもいいじゃない。 雨香(うか)ちゃんにも会えるんだから」


やっぱり、僕が言わなくてもお母さんはあいつの名前を知っていた。


「……会いたくないんだよ」


水守雨香。

同じ小学校。四年生の今までずっと同じクラス。

二クラスしかないから、四年間同じやつは他にもいるけれど、雨香と一緒のクラスだと毎年ロクなことがない。

まず、家がいちばん近いからって配布物を押し付けられる。ついでに、元気にしているかだとか、勉強でわからないところはあるかとか、それとなく聞いておくように頼まれる。

クラスメイトや友人を誘っても一緒に行こうとはしてくれなかった。

家までの距離が遠いこと。それと、面識がないこと。雨香はこれまで一度も小学校に通ったことがないから。

入学式の日のことは覚えていないけれど、写真に写っていないということは、その日もいなかったのだと思う。

それに、雨香は一言も話そうとしない。何を尋ねても黙りこくっていて、目も合わせようとせず、仕舞いには家に行くと僕を避けるようになった。

そのうち、届け物は玄関先に置いておくようになり、僕からも雨香を避けている。

取っ付き難いどころではなくて、会話が成立しないのだから、会いたくもなくなる。


何故か、お母さんが回覧板を届けたり用があって家に行くと普通に話しをするそうなのだ。

ハツエばあちゃんは気のいい優しい人だけれど、雨香にはなるべく関わりたくない。