あの店を続けているのは、私たち二人の妄執でしかない。
 『エスケープ』がなければあのとき、私たち二人は立ち上がれなかった、それは間違いない。

 けれど、もしかしたら、あやかママ自身は、そんなことは望んでいないのではないか。
 そのことが、ずっと心に引っかかってしまっているのだ。
 だから、訊きたかった。
 幽霊でも妖精でも、……もしかしたら私の夢の中でも、こうして訊けたのは、幸運でしかない。

 嫌じゃない、ありがたい、とあやかママは言ってくれた。
 けれど、「あやかママのおらん『エスケープ』なんか、『エスケープ』じゃないわ」というのは、まさにその通りで、思うようには店を経営できていない。

 再開店当初は、それでも忙しくしていたけれど、次第に客足は遠のいていった。
 私と樹里ちゃんだけでは、お客様を繋ぎとめることは難しかった。やはり『あやかママ』の存在は大きかった。

 流川は甘くない。小娘二人で乗り切れるような場所ではない。

 まして『かえでママ』は、経験の浅いママだ。お客様をたくさん抱えているわけでもなく、お客様を引っ張れるような力もない。

 けれどどうしても潰したくなくて、美代ちゃんから受け継いだ貯金を崩したりもした。昼間は帳簿を付けてはため息をついた。

 坊主、つまり客がゼロの日だって何度かあった。そんな日は、樹里ちゃんと二人で営業電話をしまくった。それがなければ、坊主の日なんて、もっとたくさんあったに違いない。

「落ち込んどる場合じゃないわ。営業電話も、同伴も、もっと積極的にやっていこう」
「一見さんは慎重にせんといけんけど、お断りはしとる場合じゃないわ」

 と樹里ちゃんと私で励まし合って、ここまで繋いできた。
 斎藤さんのような常連さんが、私たちを支えてくれて、最近ようやく軌道に乗ったようなものなのだ。

「でも……あやかママの目指した店じゃないような気がして……」

 勝手に受け継いで。勝手に引っ掻き回して。遺産にまで手を付けて。
 やっぱり、『エスケープ』は続けるべきではなかったのではないかと、そういう思いが拭えない。

 あやかママは、軽く肩をすくめたあと、笑いながら言った。

「そこは、自由にやりゃあええよ。ウチみたいにすることはないわ。絵里ちゃんの好きなように経営して、絵里ちゃんの店にするとええわ。潰しても文句は言わんけえ、自分の店を作りんちゃいね」
「自分の店……」
「ほうよ。もう『エスケープ』は、『かえでママの店』よ。ウチが認めてあげるけえ、自信を持ちんちゃい」

 そう言って、また手を伸ばしてきて、私の頭に手を乗せた。

「ほんま、手のかかる娘じゃわ。いつまでもウジウジと。のんびり死ぬこともできんわ」

 そう言いながら、わしゃわしゃと髪を撫でまわした。
 娘。
 書類上は確かに娘だけれど、本当は姪で。
 あやかママはどう見てもお母さんという人でもなくて、お母さんらしいことをされたこともない。

 でも、あやかママは、ママだし。
 私は娘で、あやかママはママで。それでいいんじゃないかという気がした。妹みたいな樹里ちゃんも、きっとあやかママにとっては娘みたいなものなんだろう。

 あやかママはまた、缶ビールに口を付ける。もう無くなってきているのだろう。缶の底は空のほうに向いていた。
 私も同じように、自分のビールを飲み干そうとしたけれど、横から伸びてきた手が、缶を奪い取った。

「あー! 私のなのにー!」
「ケチくさいこと言いんちゃんな。絵里ちゃんは店でもう飲んだじゃろ。そもそも、二本以上いうて言いよるのに、なんで皆、二本しか持って来んのよ」

 そんなことをブツブツ言いながら、私のビールに口を付ける。
 それからなにかに気付いたように、あ、と言ってからこちらに振り向く。

「そういや、健太くんは四本持って来とったわ。今度来たら、サービスしときんちゃい」
「わかったわかった」

 私は言いながら、立ち上がる。

「ビール、買って来ようか?」
「ええわ。今日はお開きにしよ」

 そう言って、またチーズ鱈をつまみに、ビールを飲んでいる。
 まあ、訊きたいことも訊けたし、面倒くさがりな人だから、「ウチのことは放っといて」とか言い出す前に、退散するが吉なのだろう。

 とても……とても、名残惜しいけれど。

「また、会いに来てもええ?」
「もうええわ。面倒くさい」

 ひらひらと手を振りながら、心底面倒そうに言う。
 やっぱり。言うと思った。

「絵里ちゃんも、もうおらんようになった人間に会わんだって、一人でやっていけるんじゃないん?」
「人間じゃないんじゃろ」

 そう言うと、ああ、と気が付いたようにあやかママは声を出した。

「ほうじゃわ。ウチ、妖精じゃったわ」

 そう言って、缶ビール片手に、あはは、と笑う。
 私もつられて、笑ってしまう。

「じゃあ、また来るけえね」
「来んでもええわ。早よ帰りんちゃい」

 しっしっ、と追い払うように手の甲を見せてこちらに振る。
 ひどい。

「あっ、次来るときは、サラミ持ってきてや。サラミ」

 思いついたように、そんなことを言う。
 やっぱり来てもいいんじゃないか。

「はいはい。なんか適当に見繕うて持ってくるわ」
「頼むねー」

 そう言って手をひらひらと振る。

 夢みたいな時間だったのに、夢じゃないような。
 あやかママはやっぱりあやかママのままで。
 死んでも、妖精になっても、なんにも変わらなくて、可笑しかった。

「じゃあ、またね」
「はいはい」

 あやかママはビール缶に口を付けたまま、こちらのほうは見ないまま、ひらひらと手を振る。
 私は一つ、小さくため息をつくと、あやかママに背を向け、歩き出す。
 けれどやっぱり名残惜しくて。離れがたくて。

 私は第二新天地公園の階段を下りる直前、振り返る。
 あやかママはまだベンチに座って、ビールを飲んでいた。

 そしてその背中から。
 見えた。

 羽。

 薄くて、繁華街の明かりが透き通っていて、けれど大きく広がっていて。
 青いような、黒いような、大きな羽。
 小さいころ図鑑で見た、カラスアゲハのような羽。

 妖精の、羽。

 あやかママの背中から、大きく広がっていて。
 羽の向こうの繁華街のきらびやかな光を映していて。
 それはとても幻想的な光景で。
 なんだか胸の奥から何かが溢れてきて、視界がぼやけてしまって、目の端を指先で拭う。

「ほんまに、『夜の蝶』になることないのにね」

 まあでも、あやかママらしいかな、という気はした。

 美しい羽をはためかせて、悩んでいる人を見つけては呼び出して、そして一緒にビールを飲み交わす。
 この第二新天地公園は、あやかママの新しいお店なのだ。

 また話を聞いて欲しいとき、きっと彼女は現れる。
 そして、「いらっしゃいませ」と笑って言ってくれる。

 広島の繁華街の片隅で。
 彼女は夜の街を彩る、『夜の蝶』になったのだ。

          了