そんなこと、ありえるのだろうか。私の言葉をすべて信じるだなんてこと。
 今までいろんな人が、私の言葉を鵜呑みにはしなかったことを見てきただけに、なにかあるのかと勘ぐってしまう。
 信じて欲しかったはずなのに、なんだか急にそわそわと不安になってきた。

「……聞いてくれとりますか?」
「ん? 聞いとらんように見えるん?」

 ママはこちらを見たまま、小さく首を傾げた。大きな輪っかのピアスが、ゆらりと揺れる。

「いえ……」

 私は目をそらして、膝の上でぎゅっとこぶしを握る。
 そうだ、信じて欲しかった。
 そしてようやく、信じてくれる人が現れたのだ。

 続けよう。
 聞いてくれると言っているのだから。

「そしたら今日……なんか、別部署の女の子がね、こっち見てひそひそしとるのが見えたんですよ」
「あー……それは」
「ですよね……」

 きっとまだ噂はあって、そっちのほうが信じられているのだ。
 私の弁明など、皆、信じてはいない。
 不倫女。他所の家庭に手を出す女。不誠実な女。
 それが今の私の評価だ。

「人間、面白そうな話に飛びつくもんじゃけえねえ」
「私は面白うないです」
「そりゃそうじゃわ」

 そう言って、あはは、とママは笑った。
 なんだか拍子抜けする。
 なんでも言いたくなる。

「きっとずっとこのまんまなんじゃろうなあ、って思うて」

 私は目を伏せて、そう言った。
 あやかママは落ち着いた声音で私に言う。

「人の噂も七十五日、って言うじゃん」
「七十五日、経っとるんです……」
「消えんかったんかあ」

 苦笑しながらそう言って、またビールに口を付けた。

「ほいで、どうしたいん?」
「私……会社、辞めたい……」

 仮に一旦この噂がなくなっても、またいつか再燃するだろう。
 もしかしたら私が誰かと結婚する、だなんてことがこの先にあったとしたら、そのときもまたひそひそと囁かれるのではないだろうか。
 そんな場所にいつまでも平然としていられるほど、私は強くない。

「辞めりゃあええじゃん」

 あやかママはさっくりと軽い口調でそう言った。けれど次の瞬間には、人差し指を立てて、手のひらを上にして私を指さした。

「あ、次の就職先とか心配なん?」
「それもあるんですけど……なんか……」

 もし今私が辞めたら、なんて言われるのだろう。
 そんなことを気にしてしまっている。

 ほらやっぱり。知ってて不倫したんでしょ。だからいたたまれなくなったんじゃない?
 本当に騙された被害者だっていうのなら、こそこそ逃げるような真似をしなくたっていいんだから。
 そんな風に思われたら。

「でも辞めてしもうたら、逃げたみたいで、なんか……」
「逃げちゃあいけんのん?」

 そう言ってあやかママは小さく首を傾げた。

「え?」

 私もつられて首を傾げる。
 それを見たあやかママは続けた。

「ウチじゃったら逃げるかも」
「ほう、ですか」
「人生、楽しゅう生きたいけぇね! わざわざ嫌な場所におることないわ!」

 そう言って、缶ビール片手にケラケラと笑う。
 やっぱり他人事なんだろうか。私にとっては人生の一大事なんだけれど。

「まあ、飲みんちゃい」
「え」

 あやかママは、ずっと私たちの間に置かれたままの一本のビールに視線を移してそんなことを言う。

「二本持ってくるいうんはね、二人で飲みましょう、いうことなんよ」
「ほうじゃったんですか」
「ほうじゃったんです」

 あやかママはしたり顔でうなずく。
 なので、じゃあ遠慮なく、と私はビール缶を手に取る。
 いや遠慮もなにも、私が買ってきたのだけれど。

 プルトップに手を掛けて引くと、プシッという音がする。私はあやかママがしていたように、ゴクゴクと飲んでみた。
 あまりこんな飲み方しないなあ、でもたまにはいいか、だなんて思いながら喉ごしを楽しんでいると。

「まあ、よう考えんちゃい」

 私はビール缶から口を離し、あやかママのほうにゆっくりと振り向く。
 彼女は小さく口の端を上げていた。

「どっちにしろ後悔するんかもしれんけど、人に言われて決めるよりゃあ、自分で決めたほうが後悔は少ないけえね」
「まあ……ほうですよね」
「ほうですよ」

 うん、と一つ首を前に倒すと、あやかママもビールを飲みだした。残り少ないのか、ビール缶の底は、ほぼほぼ真上を向いている。

 妖精が現れて、問題を解決してくれる、という話だったけれど。
 結局のところ、何の解決策も提示されていない気がする。
 まあ仕方ない。妖精じゃなくてホステスさんだし。

 それに何より、否定せずに話を聞いてくれたことが嬉しかった。不倫と聞いても眉をしかめたりしないし、逃げてもいいって言ってくれた。
 それだけで充分じゃないか。

 私は手に持ったビール缶を脇に置く。

「あー、なんだかすっきりしました」

 それから両手の指を組んで上に腕を伸ばしながらそう言うと、あやかママが小さく笑った。

「ほう?」
「はい、おかげさまで」

 私は姿勢を正してから、うなずく。
 妖精が問題を解決してくれる、なんて、馬鹿げた話だけれど、けれど吐き出せてすっきりした。

 すっきりした、のだ。

「ねえ」

 ビール缶を脇に置きながら、あやかママが言う。

「本当に?」