ビールをさらにクイッと一口飲むと、あやかママは言った。
「大学まで出したのに、なにも店を継がんでもええのに」
「経済学部出たし、役に立ってないことはないよ」
「ほうかもしれんけど」
私もレジ袋をガサガサとあさり、ビールを取り出す。そしてプルトップに手を掛けて開けた。
あやかママはまだブツブツと言っている。
「でもこう、普通の会社員とか、そういうのになるんかと思うとったんよ」
「それなりに、楽しゅうやっとるよ」
「絵里ちゃんがそう決めたんならええけど」
呆れたような口調でそう言う。
私は缶ビールをあやかママの前に差し出した。
あやかママは、真っ赤な唇の両端を上げて笑うと、持っていたビール缶をこちらに突き出してくる。
「乾杯」
「かんぱーい」
カシッ、と鈍い音がする。
うん、やっぱりここにいるのは、あやかママだ。
家にいるだらしない人は美代ちゃんで、流川にいるのはあやかママ。
仕事に全振り、というのはその通りで、流川と家とではまるで別人だ。家では食器一つ洗わなかったくせに、店ではシャキシャキと動いていたし、家の中ではスッピンに大きな黒縁メガネをして、上下スウェットでウロウロしていたから、姿形も同一人物とは思えないほどだ。
美代ちゃんは、流川に出るとき、あやかママに変身するのだ。
「絵里ちゃんも、ずいぶんママっぽくなって」
あやかママはしげしげと私を見て、そんなことを言う。
「がんばっとるんよ」
「そうみたいじゃね」
「もう、混乱したりはせんじゃろ」
『かえでママ』の名字は、『江利川』だ。
あやかママが頻繁に私のことをお店で「絵里ちゃん」と呼ぶものだから、やむなく名字を「えり」で始まるものにした。
かえで、という名前が源氏名であることはお客様にはバレバレではあるのだろうけれど、でもなんとなく別に本名があるというのは気まずい感じがするのだ。
だから「絵里ちゃん?」と首をひねるお客様に向けて、「名字が江利川なので」という理由付けをしなければならなくなってしまった。
私はあやかママと美代ちゃんの使い分けを、ほとんど間違ったことがない。
本人が、お店と家とで、きちんと自分を切り替えていたからだろうと思う。
つまり私はその頃、切り替えができていなかった。
お店でも家でも、私は「絵里ちゃん」だった。
けれど今はきっと、大丈夫だ。
「若いけえ舐められるし、お店ではしっかりせんとね」
私は胸を張って、そう言う。
「若いけえ舐められるいうのは、ほうじゃろうね」
うんうん、とうなずきながらあやかママが言う。
二十六歳。まあママとして、いない年齢ではないけれど、経験が浅いだけに同業者にも、それからお客様にも舐められやすくはある。
だからなるべく大人っぽくなるように、化粧やら衣装やら仕草やらは気を付けているのだ。
「ほいじゃけ、今の私は、『かえでママ』」
「ええんじゃないん?」
特に関心はなさそうなそんな返答をされて、私は唇を尖らせる。
そんな私を見て、あやかママは小さく笑った。
本当に生きているみたいだ。ここにいるのはあやかママだ。私の大好きな美代ちゃんが変身した、大好きなあやかママだ。
私はあやかママに訊いてみる。
「……ところで、なんで妖精なんて名乗っとるん?」
「妖精じゃけえ」
お前は何を言っているんだ、とでも言いたげに、あやかママは私に向かって言う。
「妖精?」
「妖精」
もぐもぐと口を動かしながら、そう断言する。どこにそんな妖精がいるのか。
「幽霊じゃん。そろそろ成仏しんさいや」
私の言葉を聞いて、あやかママは少しだけ下を向いて、苦笑いを浮かべた。
あやかママは、この公園で死んだ。
あの店が開店してから三ヶ月後のことだった。
ようやく自分の店を持てたと喜んでいたのに、店を閉めて自宅に帰るために公園を突っ切ろうとした途中、くも膜下出血であっけなく。
あやかママは、軽く肩をすくめて言った。
「成仏は、したんよ。けどそのあと、妖精に生まれ変わったんよ」
「どこからどう見ても、妖精には見えんのんじゃけど」
「そんなことはないじゃろ。背中に羽、あるけえね」
「あるんっ?」
私は思わず、あやかママの背中を覗き込んだ。けれど羽なんてなくて、普通にあやかママの背中だ。
「あるんよねえ、これが。隠しとるんよ」
くすくすと笑って、面白そうにそう言う。
「酔ったら出てくるんよ」
「嘘くさい……」
私は額に手を当てて、大きく息を吐いた。
何にも返せなかった、何もかも奪ってしまった、美代ちゃん。
もし会えたらきっと、泣いてしまうと思っていたのだけれど。
そういう情緒とは無縁の再会だ。
「ほいで、なんでこんなところにおるん?」
第二新天地公園。あやかママが亡くなった場所。地縛霊、ということならここから離れられないのだろうか。
それならやっぱり、幽霊というものなのではないか。
「神社が近いし、店が見えるし、ウチは流川が好きじゃけえね」
けれど、悲壮な気配はまるでなく、サラッとそんな風に言う。
その様は、幽霊、というものからは程遠いように感じた。
もしもあやかママに会えたら、話したいことがいっぱいあった気がするのに。
全部吹き飛ぶ、能天気さだ。
「ここの神社、店のすぐ近くじゃけえ商売繁盛を願って、店に行く前に必ず立ち寄ってお参りしよったんよね。それで神様が妖精にしてくれたんじゃわ」
「はあ……」
まあ、そんなこともあるのかもしれない。
なにがあっても驚くことでもない。すでに目の前に信じられない現象が起こっている。
「ほいで妖精になったとして、なんで、営業までやりよるん?」
やっぱりあのお店を潰したくないんじゃないだろうか。
私が頼りないから、幽霊になってまで客を呼ぼうとしているのだろうか。……いや、妖精だったか。
「営業?」
けれどあやかママは、きょとんとした顔をして私のほうを見た。
どうしてそんな、訳がわからない、という表情をするのか。
私は、人差し指を立てて手のひらのほうを上にして、あやかママを指差した。
「営業、しよるじゃろ?」
「しとらんよ。そんな面倒なこと、死んでまでウチがするわけないじゃろ」
ひらひらと顔の前で手を振っている。
そう言われるとそうなんだけれど。
でも、実際に、あやかママに出会った人が店に来ているわけで。
「でもほら、最近じゃったら、優美ちゃんと木佐貫さんとか」
「木佐貫? ああ、健太くんね。あーあー、あの二人ねー」
苦笑しながらウンウンとうなずき、そしてまたクイッとビールを飲んだ。
それから、「沁みるわー」と言って、こちらに振り向いた。
「別に、営業したわけじゃないわ。店はどこかぁ訊かれたけえ、『エスケープ』教えただけ。訊かれんかったら言わんかったわ。まあどうせなら、『エスケープ』に行って欲しい、くらいの気持ちはあったかもしれんけど」
「店に来てくれそうな人に声を掛けたんじゃないん?」
「ええー? そんなんせんよ」
あやかママは面倒そうに、またひらひらと手を振る。心外だ、とでも言いたげだ。
「じゃあなんで、あの二人に声掛けたん?」
「なんか、辛気臭い顔しとったけえ、話を聞いただけ」
「そんな理由?」
「ほうよ。流川は楽しく過ごさんと。あんな顔でウロウロするところじゃあないわ」
そう言って肩をすくめる。
「ウジウジするんは嫌いよ」
それから人差し指を伸ばしてきて、私のおでこを突いた。
「痛っ」
本当はまったく痛くなかったけれど、そう反応してみる。あはは、とあやかママは笑った。
「絵里ちゃんもよ。いつまでもウジウジと、辛気臭いわ」
私は突かれたおでこを両手で隠して、じっとあやかママを見る。
「だって……」
「だって?」
「あんな急に、死んじゃうから……」
そう口にすると涙が溢れてきそうになって、私は口元をきゅっと結ぶ。たぶん、あやかママは私が泣くのを見たくはないだろうから。
「大学まで出したのに、なにも店を継がんでもええのに」
「経済学部出たし、役に立ってないことはないよ」
「ほうかもしれんけど」
私もレジ袋をガサガサとあさり、ビールを取り出す。そしてプルトップに手を掛けて開けた。
あやかママはまだブツブツと言っている。
「でもこう、普通の会社員とか、そういうのになるんかと思うとったんよ」
「それなりに、楽しゅうやっとるよ」
「絵里ちゃんがそう決めたんならええけど」
呆れたような口調でそう言う。
私は缶ビールをあやかママの前に差し出した。
あやかママは、真っ赤な唇の両端を上げて笑うと、持っていたビール缶をこちらに突き出してくる。
「乾杯」
「かんぱーい」
カシッ、と鈍い音がする。
うん、やっぱりここにいるのは、あやかママだ。
家にいるだらしない人は美代ちゃんで、流川にいるのはあやかママ。
仕事に全振り、というのはその通りで、流川と家とではまるで別人だ。家では食器一つ洗わなかったくせに、店ではシャキシャキと動いていたし、家の中ではスッピンに大きな黒縁メガネをして、上下スウェットでウロウロしていたから、姿形も同一人物とは思えないほどだ。
美代ちゃんは、流川に出るとき、あやかママに変身するのだ。
「絵里ちゃんも、ずいぶんママっぽくなって」
あやかママはしげしげと私を見て、そんなことを言う。
「がんばっとるんよ」
「そうみたいじゃね」
「もう、混乱したりはせんじゃろ」
『かえでママ』の名字は、『江利川』だ。
あやかママが頻繁に私のことをお店で「絵里ちゃん」と呼ぶものだから、やむなく名字を「えり」で始まるものにした。
かえで、という名前が源氏名であることはお客様にはバレバレではあるのだろうけれど、でもなんとなく別に本名があるというのは気まずい感じがするのだ。
だから「絵里ちゃん?」と首をひねるお客様に向けて、「名字が江利川なので」という理由付けをしなければならなくなってしまった。
私はあやかママと美代ちゃんの使い分けを、ほとんど間違ったことがない。
本人が、お店と家とで、きちんと自分を切り替えていたからだろうと思う。
つまり私はその頃、切り替えができていなかった。
お店でも家でも、私は「絵里ちゃん」だった。
けれど今はきっと、大丈夫だ。
「若いけえ舐められるし、お店ではしっかりせんとね」
私は胸を張って、そう言う。
「若いけえ舐められるいうのは、ほうじゃろうね」
うんうん、とうなずきながらあやかママが言う。
二十六歳。まあママとして、いない年齢ではないけれど、経験が浅いだけに同業者にも、それからお客様にも舐められやすくはある。
だからなるべく大人っぽくなるように、化粧やら衣装やら仕草やらは気を付けているのだ。
「ほいじゃけ、今の私は、『かえでママ』」
「ええんじゃないん?」
特に関心はなさそうなそんな返答をされて、私は唇を尖らせる。
そんな私を見て、あやかママは小さく笑った。
本当に生きているみたいだ。ここにいるのはあやかママだ。私の大好きな美代ちゃんが変身した、大好きなあやかママだ。
私はあやかママに訊いてみる。
「……ところで、なんで妖精なんて名乗っとるん?」
「妖精じゃけえ」
お前は何を言っているんだ、とでも言いたげに、あやかママは私に向かって言う。
「妖精?」
「妖精」
もぐもぐと口を動かしながら、そう断言する。どこにそんな妖精がいるのか。
「幽霊じゃん。そろそろ成仏しんさいや」
私の言葉を聞いて、あやかママは少しだけ下を向いて、苦笑いを浮かべた。
あやかママは、この公園で死んだ。
あの店が開店してから三ヶ月後のことだった。
ようやく自分の店を持てたと喜んでいたのに、店を閉めて自宅に帰るために公園を突っ切ろうとした途中、くも膜下出血であっけなく。
あやかママは、軽く肩をすくめて言った。
「成仏は、したんよ。けどそのあと、妖精に生まれ変わったんよ」
「どこからどう見ても、妖精には見えんのんじゃけど」
「そんなことはないじゃろ。背中に羽、あるけえね」
「あるんっ?」
私は思わず、あやかママの背中を覗き込んだ。けれど羽なんてなくて、普通にあやかママの背中だ。
「あるんよねえ、これが。隠しとるんよ」
くすくすと笑って、面白そうにそう言う。
「酔ったら出てくるんよ」
「嘘くさい……」
私は額に手を当てて、大きく息を吐いた。
何にも返せなかった、何もかも奪ってしまった、美代ちゃん。
もし会えたらきっと、泣いてしまうと思っていたのだけれど。
そういう情緒とは無縁の再会だ。
「ほいで、なんでこんなところにおるん?」
第二新天地公園。あやかママが亡くなった場所。地縛霊、ということならここから離れられないのだろうか。
それならやっぱり、幽霊というものなのではないか。
「神社が近いし、店が見えるし、ウチは流川が好きじゃけえね」
けれど、悲壮な気配はまるでなく、サラッとそんな風に言う。
その様は、幽霊、というものからは程遠いように感じた。
もしもあやかママに会えたら、話したいことがいっぱいあった気がするのに。
全部吹き飛ぶ、能天気さだ。
「ここの神社、店のすぐ近くじゃけえ商売繁盛を願って、店に行く前に必ず立ち寄ってお参りしよったんよね。それで神様が妖精にしてくれたんじゃわ」
「はあ……」
まあ、そんなこともあるのかもしれない。
なにがあっても驚くことでもない。すでに目の前に信じられない現象が起こっている。
「ほいで妖精になったとして、なんで、営業までやりよるん?」
やっぱりあのお店を潰したくないんじゃないだろうか。
私が頼りないから、幽霊になってまで客を呼ぼうとしているのだろうか。……いや、妖精だったか。
「営業?」
けれどあやかママは、きょとんとした顔をして私のほうを見た。
どうしてそんな、訳がわからない、という表情をするのか。
私は、人差し指を立てて手のひらのほうを上にして、あやかママを指差した。
「営業、しよるじゃろ?」
「しとらんよ。そんな面倒なこと、死んでまでウチがするわけないじゃろ」
ひらひらと顔の前で手を振っている。
そう言われるとそうなんだけれど。
でも、実際に、あやかママに出会った人が店に来ているわけで。
「でもほら、最近じゃったら、優美ちゃんと木佐貫さんとか」
「木佐貫? ああ、健太くんね。あーあー、あの二人ねー」
苦笑しながらウンウンとうなずき、そしてまたクイッとビールを飲んだ。
それから、「沁みるわー」と言って、こちらに振り向いた。
「別に、営業したわけじゃないわ。店はどこかぁ訊かれたけえ、『エスケープ』教えただけ。訊かれんかったら言わんかったわ。まあどうせなら、『エスケープ』に行って欲しい、くらいの気持ちはあったかもしれんけど」
「店に来てくれそうな人に声を掛けたんじゃないん?」
「ええー? そんなんせんよ」
あやかママは面倒そうに、またひらひらと手を振る。心外だ、とでも言いたげだ。
「じゃあなんで、あの二人に声掛けたん?」
「なんか、辛気臭い顔しとったけえ、話を聞いただけ」
「そんな理由?」
「ほうよ。流川は楽しく過ごさんと。あんな顔でウロウロするところじゃあないわ」
そう言って肩をすくめる。
「ウジウジするんは嫌いよ」
それから人差し指を伸ばしてきて、私のおでこを突いた。
「痛っ」
本当はまったく痛くなかったけれど、そう反応してみる。あはは、とあやかママは笑った。
「絵里ちゃんもよ。いつまでもウジウジと、辛気臭いわ」
私は突かれたおでこを両手で隠して、じっとあやかママを見る。
「だって……」
「だって?」
「あんな急に、死んじゃうから……」
そう口にすると涙が溢れてきそうになって、私は口元をきゅっと結ぶ。たぶん、あやかママは私が泣くのを見たくはないだろうから。