あやかママが、亡くなった人?
俺は酔った頭でぐるぐると考える。
ということは、あれは幽霊だったのか。
いや、とてもそんな風には見えなかった。
あんなケラケラと笑う明るい幽霊なんて、おかしいだろう。
それに肩を叩かれた。頭にチョップをくらわされた。ちゃんと感触があったのに。
そんなことを考えているうち、内ポケットにあるスマホが震える。
取り出して見てみると、先ほどの紗耶香ちゃんからのメッセージだった。
店内を見渡す。
先ほど入った男性客でちょうどカウンター席が埋まってしまったようだった。かえでママも樹里ちゃんも、忙しなく動いている。
「元木さん」
「あっ、はい」
何事かを考え込んでいた元木さんに話しかけると、ハッとしたように顔を上げてこちらを見てくる。
「もうカウンターが埋まっているから、そろそろ出る?」
「ああ、はい、そうですね」
かえでママや樹里ちゃんの手前、俺は声をひそめて言った。
「もしよかったら、なんだけど、さっき会った紗耶香ちゃんて子がいる店に行かない?」
「え?」
彼女は軽く眉根を寄せる。
これが本当にヤキモチ、とかいうものなら嬉しいけれど、どうなんだろう。
「いや今、営業メッセージ、来てさ」
俺はスマホの画面を元木さんに見せた。
『助けて! まだ流川におるんじゃろ? 坊主はマズいよー!』
というメッセージと、泣きながら土下座する犬のスタンプが押された画面だ。
元木さんは驚いたように目を見開いた。
「えっ? 髪を剃られるんです? 暴力? 警察は」
おろおろしながら元木さんはそんなことを言う。
ああなるほど。そう取られるのか。
「違う違う。営業メッセージって言っただろう? 坊主、っていうのは、客がゼロ、っていう意味」
「あ……ああ」
元木さんは、ほっとしたように胸を撫で下ろした。
そのときまたピロン、とスマホが鳴った。見てみると、『安くしとくから!』というメッセージが追加されていた。
「部長がよく使う店なんだけど、坊主っていうことは、いないと思うし」
「はあ……」
「もう少し、一緒にいたいと思って」
そう言うと、元木さんが目に見えて赤くなった。
可愛いな、と思う。
やはりあやかママが言う通り、これは恋というものなのだろう。
「かえでママ」
そう呼びかけると、彼女は振り向く。なので両手の人差し指でバツを作った。
「あら、もう帰られるんです?」
「また来ます」
そう言いながら、腰を浮かせる。ヘネシーのボトルは三分の一ほどが減っていた。
かえでママは料金を書いた小さな紙を、カウンターの上に置いた。二万五千二百円。ヘネシーを入れてこれは、安い。
あやかママが『高うないけえ、安心しんちゃい』と言っていた通りか。
財布を取り出すと、隣から元木さんが、スーツの袖を少しつまんで引っ張った。
なんだろう、と振り向くと、彼女は自分の財布を手に持っていた。
「あの、私も払います」
「いいって」
「でも、さっきも払うてもろうたし」
「甘えときんさい。好きな子にはカッコつけたいんじゃけえ」
そう樹里ちゃんがカウンターの端っこから声を張った。店内の他の客も、その言葉に肩を震わせている。
それで元木さんは顔を真っ赤にして、大人しくなって俯いてしまった。
うん、俺も顔を真っ赤にして俯きたい。
くすくすと笑いながら、かえでママが俺からお金を受け取る。
「ありがとうございましたー」
「ありがとうございました」
かえでママが俺たちについて、ドアまでやってくる。
これは、ビルの下までお見送りする、というヤツだろう。
「ここまででいいですよ。忙しそうだし」
「あら、ほんま? ごめんなさいね」
「いえ」
「でも、二人きりの時間は長いほうがええですしね」
そう言って、微笑む。それでまた元木さんは、顔を真っ赤にしてしまう。
その様子を見ていると、これはなかなかの苦行なのではないか、という気になった。指一本触れずに帰したいのだが、俺の理性はどこまで耐えられるのか。
「またお越しください」
「はい」
「ありがとうございました」
かえでママは、そう言って腰を折る。
俺たちも、会釈しながらその場を離れた。
エレベーターに乗り込む直前、また振り返ってみると、かえでママはまだそこにいて手を振っている。
ふと、店の扉の上にある看板が目に付いた。
『エスケープ』。
ああ、そうか。
「この店くらい、緩うやろうや」、という言葉がよみがえる。
「堅いこと言いんちゃんな」と言っていたあやかママ。
「確かにウチは面倒くさがりよ」とも言っていたか。
『エスケープ』。なるほど、『逃げ場』か。
確かに、逃げ場なのかもしれない。
正しいことにがんじがらめにさせられてしまったとき、お酒を飲んで、愚痴を言って。それでちょっとスッキリして。
人間には、そういう場所が必要なのかもしれない。
確かにその店名は、あやかママが名付けたものなのだろう、と感じられた。
エレベーターの扉が閉まる直前、かえでママが頭を下げているのが見えた。
また近いうちに二人で来れたらいいな、と俺は口の端を上げた。
俺は酔った頭でぐるぐると考える。
ということは、あれは幽霊だったのか。
いや、とてもそんな風には見えなかった。
あんなケラケラと笑う明るい幽霊なんて、おかしいだろう。
それに肩を叩かれた。頭にチョップをくらわされた。ちゃんと感触があったのに。
そんなことを考えているうち、内ポケットにあるスマホが震える。
取り出して見てみると、先ほどの紗耶香ちゃんからのメッセージだった。
店内を見渡す。
先ほど入った男性客でちょうどカウンター席が埋まってしまったようだった。かえでママも樹里ちゃんも、忙しなく動いている。
「元木さん」
「あっ、はい」
何事かを考え込んでいた元木さんに話しかけると、ハッとしたように顔を上げてこちらを見てくる。
「もうカウンターが埋まっているから、そろそろ出る?」
「ああ、はい、そうですね」
かえでママや樹里ちゃんの手前、俺は声をひそめて言った。
「もしよかったら、なんだけど、さっき会った紗耶香ちゃんて子がいる店に行かない?」
「え?」
彼女は軽く眉根を寄せる。
これが本当にヤキモチ、とかいうものなら嬉しいけれど、どうなんだろう。
「いや今、営業メッセージ、来てさ」
俺はスマホの画面を元木さんに見せた。
『助けて! まだ流川におるんじゃろ? 坊主はマズいよー!』
というメッセージと、泣きながら土下座する犬のスタンプが押された画面だ。
元木さんは驚いたように目を見開いた。
「えっ? 髪を剃られるんです? 暴力? 警察は」
おろおろしながら元木さんはそんなことを言う。
ああなるほど。そう取られるのか。
「違う違う。営業メッセージって言っただろう? 坊主、っていうのは、客がゼロ、っていう意味」
「あ……ああ」
元木さんは、ほっとしたように胸を撫で下ろした。
そのときまたピロン、とスマホが鳴った。見てみると、『安くしとくから!』というメッセージが追加されていた。
「部長がよく使う店なんだけど、坊主っていうことは、いないと思うし」
「はあ……」
「もう少し、一緒にいたいと思って」
そう言うと、元木さんが目に見えて赤くなった。
可愛いな、と思う。
やはりあやかママが言う通り、これは恋というものなのだろう。
「かえでママ」
そう呼びかけると、彼女は振り向く。なので両手の人差し指でバツを作った。
「あら、もう帰られるんです?」
「また来ます」
そう言いながら、腰を浮かせる。ヘネシーのボトルは三分の一ほどが減っていた。
かえでママは料金を書いた小さな紙を、カウンターの上に置いた。二万五千二百円。ヘネシーを入れてこれは、安い。
あやかママが『高うないけえ、安心しんちゃい』と言っていた通りか。
財布を取り出すと、隣から元木さんが、スーツの袖を少しつまんで引っ張った。
なんだろう、と振り向くと、彼女は自分の財布を手に持っていた。
「あの、私も払います」
「いいって」
「でも、さっきも払うてもろうたし」
「甘えときんさい。好きな子にはカッコつけたいんじゃけえ」
そう樹里ちゃんがカウンターの端っこから声を張った。店内の他の客も、その言葉に肩を震わせている。
それで元木さんは顔を真っ赤にして、大人しくなって俯いてしまった。
うん、俺も顔を真っ赤にして俯きたい。
くすくすと笑いながら、かえでママが俺からお金を受け取る。
「ありがとうございましたー」
「ありがとうございました」
かえでママが俺たちについて、ドアまでやってくる。
これは、ビルの下までお見送りする、というヤツだろう。
「ここまででいいですよ。忙しそうだし」
「あら、ほんま? ごめんなさいね」
「いえ」
「でも、二人きりの時間は長いほうがええですしね」
そう言って、微笑む。それでまた元木さんは、顔を真っ赤にしてしまう。
その様子を見ていると、これはなかなかの苦行なのではないか、という気になった。指一本触れずに帰したいのだが、俺の理性はどこまで耐えられるのか。
「またお越しください」
「はい」
「ありがとうございました」
かえでママは、そう言って腰を折る。
俺たちも、会釈しながらその場を離れた。
エレベーターに乗り込む直前、また振り返ってみると、かえでママはまだそこにいて手を振っている。
ふと、店の扉の上にある看板が目に付いた。
『エスケープ』。
ああ、そうか。
「この店くらい、緩うやろうや」、という言葉がよみがえる。
「堅いこと言いんちゃんな」と言っていたあやかママ。
「確かにウチは面倒くさがりよ」とも言っていたか。
『エスケープ』。なるほど、『逃げ場』か。
確かに、逃げ場なのかもしれない。
正しいことにがんじがらめにさせられてしまったとき、お酒を飲んで、愚痴を言って。それでちょっとスッキリして。
人間には、そういう場所が必要なのかもしれない。
確かにその店名は、あやかママが名付けたものなのだろう、と感じられた。
エレベーターの扉が閉まる直前、かえでママが頭を下げているのが見えた。
また近いうちに二人で来れたらいいな、と俺は口の端を上げた。