「というわけで、祝杯を挙げよう」

 そう言って、自分のグラスを手に持つ。
 私も慌ててグラスを手に取った。

「乾杯」

 そう言ってグラスを差し出してくるから、私はそれに自分のグラスを当てた。
 ちん、という心地良い音がする。

「それなら、連絡先を交換したいんだけど」
「コミュニケーションアプリ、入れとります?」
「入ってるよ」

 言いながら、ポケットからスマホを取り出す。そして表面をなぞってから、少し眉根を寄せた。

「どうやるんだっけ。QRコードを出すんだよね。どこだっけ」

 と言いながら、いろいろつついてる様子だ。

「おじさん……」
「うるさいな」
「貸してください」

 私は半ば無理矢理スマホを奪い取ると、自分のスマホも取り出して、さっさと登録してしまう。
 けれど、やっぱり酔っているのかな、ちょっと強引すぎたかな、とふと思った。
 私は課長のスマホを手に持ったまま、訊いてみる。

「もしかして、スマホ、見られとうなかったです?」
「いや? なにもやましいことはないから」
「へえ?」
「ホント。どこ見ても大したことはないし。ゲームが入っているくらい?」
「ふうん」

 私は、ささっとスマホの表面をなぞる。
 本当に、あまりアプリが入っていない。基本的なものばかりだ。
 天気予報、スポーツ速報、カメラ、コミュニケーションアプリ、スケジュール。
 私はふと思いついて、気付かれないようにと思いながら手早く画面を操作した。

「はい」

 それから課長にスマホを差し出す。

「登録できとるでしょう? それ、私です」

 コミュニケーションアプリを開いて、新しく登録されたアイコンを指差す。

「わかった、ありがとう。テストね」

 そう言って、なにやら操作している。
 すると私のスマホがピロン、と鳴った。
 見てみれば、「よろしく!」と踊っている猫のスタンプが届いていた。イメージと少し違って、私は小さく笑いながら、それに返す。
 今度は課長のスマホがピロン、と鳴った。
 画面を見て口の端を上げると、課長は「うん」と言った。
 送ったのは、「よろしくお願いします」と言っているうさぎのスタンプだった。

「あまり、しつこくしないようにはするよ」

 言いながら、スマホをポケットにしまい込む。
 どうやら気付かなかったらしい、と私は心の中でほっと息を吐く。

 私がスケジュールアプリに私の誕生日を登録したことに、課長が気付くのはいつのことだろうか、と思うと少し、おかしかった。

          ◇

「ごめんなさいね、無うなっとったね」

 かえでママがこちらに歩いてきて、私たちの水割りを作り始めた。
 本当だ、二人とも、もう水割りが無くなりかけていた。
 これ、もしかしたら私たちの話を聞いていて、あえて私たちの前には立たなかったということだろうか。
 邪魔はしませんよ、みたいな。
 それは、ありがたいような、恥ずかしいような。

「ほんま、やれん(やっていられない)のー」

 カウンターの端っこの辺りから、突如そんな大声が聞こえて、かえでママと私たちはそちらに視線を移す。

「帰りとうないわ、ワシャあ仲裁しとうないで」

 そんなことを言って、斎藤さんという人が、がっくりと肩を落としている。

「どうしちゃったんです?」

 かえでママが声を張って、そちらにそう問いかける。

「息子さんが家出してきとるんだって。結婚したばかりなのに」

 笑いながら斎藤さんを指差して、樹里ちゃんがそう返している。

「なんでまた」
「息子さんの奥さんがね、総菜とか一切買わんのんだって」
「なんかの、出来合いのものは良うないとか言うて」
「あら、いい奥さんじゃないですか」

 なぜか店内の人が、うんうん、と皆うなずいている。
 しかし斎藤さんは、右手をひらひらと振った。

「ほいじゃが、たまにはラーメンとか唐揚げとかハンバーガーとか食べとうなるじゃろ? ほいで買って帰ったら捨てられたんと」
「あらまあ」

 ああー、とこれまた皆がうなずいている。
 気が付いたら、店内にいる人たちが皆、斎藤さんの話に耳を傾けている様子だった。

「ほいで喧嘩よ。それで家出してきとるんじゃが、嫁さんが来るけえワシに帰ってこい言うて、今、連絡があったんじゃ」

 斎藤さんは、スマホの画面を前に差し出しながら、そう言った。
 声が大きいので、ついつい、私も聞いてしまっていた。
 これはもしかしたら、課長と私の話も全員が聞いていたのかな、と思いつく。少し頭を抱えたくなった。

 樹里ちゃんが小首を傾げて斎藤さんに問う。

「ほいじゃあ、帰るん?」
「嫌じゃ! ワシャあ帰らん!」

 斎藤さんは、どん、と両手でカウンターの上を叩いた。

「帰らんでもええん?」
「正直、ワシはあの嫁さんが苦手なんじゃ……。なんでも、それは正しい、正しくない、言うてのう。酒なんか許してくれんで。こないだも電話で『もう止めちゃったらどうです?』とか言われてのう」
「なるほど。それはウチも苦手かもー」

 樹里ちゃんは大きく何度もうなずき、かえでママは苦笑している。
 確かに、健康を考えたら止めるべきかもしれなくて、そのお嫁さんという人は、心から心配して言ってくれているのかもしれない。けれど、斎藤さんにとっては窮屈なのだろう。

 斎藤さんは、腕を組んで不動の姿勢だ。

「帰るほうが正しゅうても、ワシは帰らんで」
「ええよ、ええよ。おりんさい(いなさい)

 きゃはは、と笑いながら、樹里ちゃんが言う。
 他人事ながら、少し心配になってしまう。後で面倒なことになるんじゃないだろうか。

 すると斎藤さんが言った。

「正しさは、時に刃になるけえの」
「斎藤さん、哲学的ぃ」

 樹里ちゃんが、おおー、と言いながら拍手して、大げさに感心している。
 斎藤さんは、それにちょっと笑っている。

「かえでママは詩的、て言いよったで」
「哲学的でもええですよ」

 言われたかえでママは小さく笑った。

「ほうよー、最近は何でもいけん、言うてからー。ウチなんか肩身狭いわ」

 肩をすくめながら、樹里ちゃんが言う。

「最近は、血液型の話もご法度じゃけえね。これ言うちゃいけん、あれ言うちゃいけん、って考えながら店に出るの、面倒くさいわー」
「ええで、この店くらい、緩うやろうや」

 斎藤さんがそんなことを言って、そうだそうだー、と樹里ちゃんが上げた腕を振って同意している。
 その辺りから、他のお客さんも「そういえば、『髪、切った?』って言ったらセクハラなんだと」とか喋りだした。

「まあでも、それで嫌な気分になる方もおってじゃけえねえ」

 眉尻を下げて、かえでママが言う。

「かえでママは真面目じゃけえなー」

 呆れたように、樹里ちゃんがそう返す。

「でも、かえでママは真面目じゃないと、かえでママじゃないっていうかー」

 その言葉に、うんうん、と斎藤さんがうなずいている。
 確かに、樹里ちゃんに比べると、かえでママは真面目な感じがする。
 やっぱりママだから、羽目を外せないのかもしれない。

 樹里ちゃんは続けた。

「この店は、あやかママの店じゃけど、もう、かえでママの店じゃしねえ」

 その言葉に、弾かれたように私は顔を上げる。隣で課長もなぜか、反応していた。

 そんな私たちの動きには気付かない様子で、彼女らの会話は続いている。

「樹里ちゃんは好きにやったらええよ。樹里ちゃんは、そのままのがええわ」
「かえでママ、やっさしー! 大好き!」

 そしてかえでママは困ったように笑っていた。