「そうじゃー、これこれ」

 樹里ちゃんがふいに声を上げて、後ろの棚の引き出しから、なにやら取り出した。

「忘れとった。書いといてください」

 言いながら、なにかをカウンターの上に置いて滑らせる。
 なにかと思って見てみたら、ボトルの首に掛けるネームタグだった。ペンも一緒にカウンターの上に置かれる。
 私は、ボトルは課長が入れたのだから課長が書くべきだろう、と課長のほうにそれらを滑らせる。
 けれど課長は、タグの上に手を置いて、こちらに返してきた。

「悪いけど、元木さん、適当に書いておいてよ」
「えっ、私ですか」
「元木さんのほうが字が綺麗だし」
「じゃあ……」

 確かに課長に比べたら、私のほうが字は綺麗かもしれない。私はペンを手に取る。

「木佐貫、でええですか」
「わかればなんでもええんよー」

 樹里ちゃんが、そう口を挟んでくる。

「番号も振るけど、パッと見て、わかりやすいほうがええかなー」
「わかりやすい……」

 私はそうおうむ返しにする。
 彼女たちにとってわかりやすいのは、どういう書き方なんだろう。

「木佐貫さんは他にもおるけえ、下のお名前のほうがええかな」

 樹里ちゃんが棚のボトルを見つめながら、そんなことを言う。
 彼女の視線の先を追うと、本当だ。木佐貫、と書かれたタグがあった。しかもヘネシーだ。

 樹里ちゃんはこちらに振り向くと、タグを指差して言った。

「ゆみちゃんも飲むんじゃろ? じゃったら、ゆみちゃんのお名前も書いといて欲しいな。わかりやすいけえ」
「じゃあ、優美、って書いておいて」

 急に名前を言われて、ドクンと心臓が跳ねた。いや、深い意味などなにもない、話の流れで名前が出てきただけ、というのはわかるのだけれど。
 いけない。頬が熱くなってきた。いや、お酒のせいだ、これは。そうに違いない。

「でも、課長のボトルだし……」

 そうぼそぼそと言っている間に、樹里ちゃんは自分の名刺を課長の前に差し出していた。

「樹里です、よろしくお願いしますー」
「あ、木佐貫です、よろしく」

 そう言って、二人は名刺交換をしている。

「美しい夜の蝶は、おビールが大好物なんだー」

 笑いながら、樹里ちゃんがそんなことを言っている。

「ああ、どうぞ」
「やったあ」

 苦笑しながら課長が返した言葉に、樹里ちゃんは手を合わせて喜んでいる。そしていそいそと冷蔵庫から瓶ビールを取り出し、課長の前に置いた。
 そしてグラスにビールを注がれると、

「かんぱーい!」

 と明るい声でグラスを差し出し、課長と、そして私のグラスに当ててから、そして一気に飲み干した。
 私たちは二人で目を丸くする。

「おいしー!」
「強いねえ」
「ほんと」

 あっという間に空いたグラスに、課長はまたビールを注いでいる。

「ええと、こっちがかえでママのでー、こっちがウチのじゃけえね」

 私たちの前に二本並んだ瓶ビールを指差しながら、樹里ちゃんが言う。
 そして二杯目もぐいっと一気に飲んでみせた。本当に、強い。

「あとで飲むけえね。とっといてよー」

 と言いながら、別のお客さんの前に去っていく。
 明るくてハキハキしていて、かえでママとはまた違うタイプの子だなあ、と思う。

「本当に、夜の蝶って言ってたね」

 課長がこちらを見て苦笑する。

「あ、前のときも、あんな感じで言うとりました」
「なるほどね。決まり文句なのかな」

 そう言って、くつくつと笑っている。
 それから、私の手元を指差した。

「書かないの?」
「あ、すみません」

 なんと書けばいいのか迷ってしまって、手が止まったままだった。

「でも、課長のボトルなのに、私の名前を書くのは」
「これからも一緒に飲もうと思って、ボトルを入れたんだけど」
「あ、あの……」
「まあいいよ。俺と一緒じゃないときでも、自由に飲んで」
「でもそれじゃあ」
「ま、とにかく、二人の名前、書いておいてよ。元木さんが嫌だと言うなら、それは俺がそのうち一人で消費するから」

 私はその言葉に、少し考えたのち、ペンを置いた。
 やっぱり、ちゃんと訊いておかなくちゃ、という気になったのだ。
 曖昧なままでは、進んではいけない。どちら側に進むにしても。

「あの……私、その……今まで全然気付かんかったんですけど」
「うん、だろうね。自覚したのはごく最近だから」
「え……」

 私はその言葉に、課長のほうに振り向いた。課長は軽く肩をすくめる。

「気付いた途端に、会社辞めるって言うから、これはとにかく繋がっておきたいと思って誘った」

 そう言って、またこちらをまっすぐに見つめてくる。

 ごく最近。
 ということは。

「……それは、私のあの話を聞いてからということですか」
「うん」

 間髪入れずにそう返してきた。
 私はカウンターの上で手を組んで、ぎゅっと握る。握る力が強すぎて、私の手は白くなる。

「わ、私が簡単に騙されるような女だからですか」

 確かにその通りかもしれない。簡単に騙されて、そして騙されたと気付いても、気付かないふりをした。愚かで、酷い女なのだろう。

「だから、簡単に落ちるって思っちゃったんですか」

 けれどそれは、いくらなんでも侮辱ではないのか。
 すうっと頭の上から血が引いていくような感覚がする。
 ほんの少しだけれど、誘われて嬉しかった。本当は私は、浮かれていたのだ。その気持ちをどこにやればいいのかわからなくて、途方に暮れる。

「他の男に取られたのが我慢ならなかった」

 ふいに、そう言葉が降ってきた。
 私はゆっくりと顔を上げ、課長を見つめる。彼はどこまでも真剣な表情をしていて、これはからかおうとしているのではない、とわかった。

「それで自覚した。俺のことが嫌なら、このボトルはあげるよ。一緒に飲まないのなら、俺にとっては意味がない。辞めるんだ、もう会うこともない。気にすることはない」

 そうして、ネームタグを指差した。

「だから、それなら自分の名前だけ書けばいいよ。大丈夫、俺は悲しいかな、振られ慣れているんだ」

 そう言って、笑う。

「それは……ずるいです」
「そう?」

 私はペンを再び手に取る。

「……名前、なんでしたっけ」
「……健太」
「漢字は」
「健康の健に、太い」

 私はネームタグに、健太、と書き込む。そして一つ点を打つと、その隣に、優美、と書いた。
 そしてそのタグを、ボトルに掛ける。
 私は目を逸らしたまま、口を開く。

「別に、これでどうこういう話じゃあないんですよ」
「うん」
「ただ、また飲みに来てもええかってだけなんですよ」
「うん」
「ヘネシーは高いし。もったいないなと思うて」
「うん、それでいいよ」

 課長はそれから一つ、安心したように大きく息を吐いた。
 私はおずおずと顔を上げる。そして、ちら、と課長の顔を見てみた。

「よかった」

 そう言って、心底ほっとしたように笑うから、また、私の心臓が跳ねる。
 けれど笑顔から一転、これみよがしに、がっくりとうなだれている。

「というか、俺の名前、知らなかったんだ……」
「いや、なんとなくは」
「なんとなくか……」
「だって、課長、としか呼びませんもん。書類とかでたまに見かけるくらいで」
「眼中になさすぎじゃない?」
「課長だって私のこと、あの話までは意識しとらんかったんですよね?」
「でも名前は知ってた。優美、って漢字で書けるし」

 そう言いながら、空中を指差して優美、と書いていく。少し得意げだった。
 なんだかそれが、こそばゆい。

「なんの意地ですか」
「なんだろうね」

 そうして、にやりと口の端を上げる。

「まあとりあえず、今日の目的は達成したよ」
「はあ……」
「これからも、よろしく」

 そう言って課長は、にっこりと笑った。