「え、あの……」

 どう反応していいのかわからなくて、私は思わず目を逸らす。
 そこにかえでママがやってきて、新しいヘネシーのボトルを目の前に置いた。

「お二人とも、水割りで?」
「あ、はい、私は」
「俺も」

 私たちの返事にかえでママは軽くうなずき、水割りを作り出す。
 それで課長の視線も逸れて、私はこっそりと、ほっと息を吐いた。
 二つの水割りがそれぞれのコースターの上に置かれてから、かえでママは課長の前に、両手で名刺を差し出した。

「ご挨拶させてください。ママのかえでです。よろしくお願いします」

 課長は少し驚いたように顔を上げて、かえでママの顔を見てから。
 そして名刺を恐る恐るといった体で受け取っていた。

「……ママ? ええと、ママはかえでさん……?」

 名刺に書かれた名前と、かえでママを見比べながら、課長がそんなことを言う。
 なんなんだろう、この反応。
 まるで、私が初めてこの店に来たときのような、そんな疑問を持っているように見える。まさか。

「ほうですよー。嫌じゃ、ママに見えんですか?」

 にこにこしながら、かえでママが返している。

「あ、いえ……」

 少し考えるような素振りを見せてから、課長も笑顔になって言った。

「ママにしては、若いな、と思いまして」
「あら、お上手」

 言われたかえでママは、口元を手で押さえて、ふふ、と笑う。

「ほいじゃあ、私もお名刺いただいても?」
「ああ、はい」

 課長は内ポケットに手を入れ、名刺入れを取り出している。中から一枚抜き出すと、それをかえでママに差し出した。

「木佐貫です。よろしく」

 課長の名刺を受け取ったかえでママは、あら、と声を上げた。

「課長さん? お若いのに」
「小さい会社ですから」

 そんなことを二人でやり取りしている。
 そして課長は、手のひらでカウンターの上を指した。

「かえでママも、何か」
「ええですか? じゃあおビールいただきます」
「どうぞ」

 冷蔵庫から瓶ビールを取り出して栓を抜くと、かえでママはトン、と課長の前に置いた。流れるように課長はそれを手に取り、かえでママが傾けているグラスに注いでいる。

「では、いただきます」

 そう言ってかえでママは課長とグラスを合わせ、そしてこちらにも差し出してきた。私は慌てて自分のグラスを持つと、かえでママと乾杯をする。
 かえでママは、くいっとビールを一口飲むと、「美味しい」と言ってにっこりと微笑んだ。

 そこでまた、カラン、とドアベルが鳴る。

「いらっしゃいませー」

 かえでママと樹里ちゃんが同時に動き、新しいお客さんを迎え入れる。
 なので私たちの前からかえでママはいなくなった。

「……課長、慣れとりますね」
「うん?」

 課長は水割りを飲みながら、首を傾げる。

「私、こういうところって、どうにもあたふたしてしもうて」

 苦笑しながらそう言うと、課長は小さく笑った。

「俺がどれだけ部長の愚痴に付き合わされてると思ってる」
「いっつも飲み行くぞ、って言われてますもんね」
「そう。愚痴三昧だよ。今の若いのはー、とか、ワシの若いころはー、とか」

 簡単に想像がつく。あはは、と声を出して笑った。

「でも、ワシも若いころはけっこう悪かった、っていうのは本当かもしれない、と今日思った」

 口の端を上げて、課長がそう言う。
 今日の部長の怒鳴り声。確かに、迫力があった。
 まさか昔はヤンキーとかだったんだろうか。今はただの中年太りのおじさんにしか見えないのだけれど。
 そして部長が今日、そこまで怒った理由はなんだったのだろう。

「あの」
「なに?」
「部長、なにを怒っとっちゃったんですか」
「ああ、あれ? あれは、仕事中の私語は慎め、とかそういう話」

 少しの間、次の言葉を待っていたけれど、課長はそれだけしか言わなかった。
 たぶん、私のことだろう。フロアの外で聞いた話の流れ的にも、そうとしか思えない。

「部長に……お礼を言うといてください」
「言わなくていいよ。部長も俺も、結局はなんにもできていないから」

 私はそれになんと返せばいいのかわからなくて、自分の水割りを、ぐいっと飲むしかできなかった。