二人して気を取り直して歩き出す。
 いろいろごちゃごちゃと考えていたけれど、今のやり取りで全部吹っ飛んでしまったような気がする。

 まあいい。いろんなことはきっと、なるようになる。
 と、酔った頭で考える。

 課長は気にしているのかいないのか、妬いているかどうかにはそれ以上、特に言及することはなかった。

「それにしても、『夜の蝶』って言い回し、よく知ってたね」

 隣を歩く課長が、少し首を傾げてそう言う。

「ほうですか? けっこう知られとると思いますけど」
「いや、若い子が言うのはちょっと珍しいかな」
「今から行く店の若い子も言うとりましたよ。自分のこと、『夜の蝶』って」
「へえ、どんな店だろ」
「普通のスタンドと思いますよ」

 と言っている間に、そのビルに到着した。

「ここです。『エスケープ』」

 私はビル入り口の案内パネルを指差しながら、そう言った。

「え?」

 なぜか課長は、少し眉根を寄せた。
 おかしいだろうか。
 確かに『エスケープ』は女の子が接客する店で、私が行くような店ではないかもしれない。
 けれどパネルだけではそんなことはわからないはずだ。

「もしかして、来たことあります?」
「いや? ないよ」

 それならどうしてそんな不審そうな表情をしているのだろう。口元に手をやって、何かを思い出そうとしているような顔をしているのだろう。

「前に来たとき、次はボトル入れますね、って言うたんです。じゃけえ来ておきたい思うて」
「来たことあるんだ?」
「はい、いいお店でしたよ」
「……へえ、いいお店だったんだ」
「女の子の店ですけど」
「ああ、うん」
「まずいです?」

 店を変えたほうがいいのだろうか。
 まさかこんな反応が返ってくるとは思っていなかった。

「いや、ここ、聞いたことがあるなって」

 なるほど。それで。
 私は一つうなずく。

「ほうなんですか。私はまだ一回しか来たことがないんですけど、有名なんですね。そういやあ、情報サイトに載っとるって聞きました」
「ふうん。じゃ、行こうか」

 私たちはエレベーターに乗り込む。私は三階のボタンを押した。

          ◇

 そっと店のドアを開けると、ドアベルがカランと大きな音を鳴らした。
 今日はカウンター内にいたのはかえでママだった。ドアベルに反応して、こちらに顔を向けながら言う。

「いらっしゃいませー」
「二人、いいですか?」
「あら! ゆみちゃん、また来てくれたんじゃね」

 にこにこと微笑みながら、そう言う。
 覚えてくれていたことにホッとしながら、中に足を踏み入れる。

「覚えとっちゃったんですか」
「女の子は珍しいけえね」

 言いながら、おしぼりを二つ、保温器の中から取り出している。

「どこでもお好きな席にどうぞ」

 店の中には、かえでママしかいなかった。
 樹里ちゃんも、お客さんもいない。

「えっと、じゃあ、課長……」

 席をどこにするか、課長に委ねてみる。すると店の中に歩き出して、そして真ん中より少し奥寄りの席に手を掛けた。

「この辺でいい?」
「あっ、はい」

 課長が手を掛けた椅子の右隣に、私も手を掛け、引いて座る。
 かえでママは広げたおしぼりを課長の前に差し出して待っていた。課長が受け取ると、今度は私の前に差し出す。

「今日はどうします?」
「ボトル入れに来たんです」

 笑いながらそう言うと、かえでママはうふふ、と笑った。

「覚えてくれとっちゃって嬉しいわあ」

 そう言って、棚のほうに目を向ける。

「どれにします?」
「えっと……」

 そのとき、ドアベルが鳴り、元気な声が響いた。

「おはよーございまーす!」

 樹里ちゃんだった。その後ろには、あのときにいた男の人がいる。
 もしかして、これはあのとき言っていた、「回らない寿司に今度連れて行って」が叶ったということか。

「いらっしゃいませ、斎藤さん。樹里ちゃん、おはよう」

 穏やかな声で、かえでママが返している。
 斎藤さんという男の人は、前のときと同じように、奥の席に座った。どうやら常連さんで、そこが彼の指定席ということだろう。それに合わせてかえでママもそちらに動いた。
 そしてカウンター内に入ってきた樹里ちゃんは、肩からバッグを下ろしながら、私のほうに目を向ける。

「いらっしゃいませー、あー、えーと」

 樹里ちゃんは、私のほうを見て、しばらく唸ってから、ぽんと手を叩いた。

「ゆみちゃんだー、いらっしゃいませー」

 そう言ってにっこりと微笑む。
 すごい。かえでママが私を覚えていたのも驚いたけれど、私にほとんどつかなかった樹里ちゃんまで私を覚えている。

「よく覚えとってですね」
「ウチ、人の顔と名前覚えるの、得意なんじゃー」

 誇らしげにそう言いながら、奥の小部屋に入って行き、そしてすぐに出てきた。
 それを見て、かえでママが私たちの前に戻ってくる。見れば斎藤さんの前にはきちんと水割りがセットされていた。

「決まりました?」
「あっ、えーと」

 ぼうっとしていて、何のボトルを入れるのか決めていなかった。
 何にしよう。こういったところでは、値段表が出ていないところが多い。訊けば答えてくれるだろうけれど、それはなんとなく気まずい。
 私の財布に優しそうなのは、ハーパーか、ローゼズか、と悩んでいると。
 今まで黙っていた隣の課長が、ふいに言った。

「ボトル、俺が入れます」
「えっ」

 驚いてそちらに顔を向ける。かえでママは、さも当然だ、と言わんばかりに課長に向かって訊いた。

「何にします?」
「ヘネシーで」

 棚に並んだボトルを見て課長がそう言った途端、かえでママは声を張った。

「ヘネシー一本、ありがとうございまーす!」
「ありがとうございまーす!」

 それに応えるように、樹里ちゃんも声を張る。
 私はあたふたしながら、課長に言った。

「課長、いいんですか?」
「うん」
「……高くないです?」

 かえでママがボトルを準備するために背中を向けた瞬間、こっそりと耳打ちしてみる。
 ヘネシーなら、二万くらいするんじゃないだろうか。

「ガブガブ飲むならそりゃあ痛いけど」
「私はそんなには」
「飲んでもいいけどね」

 そう言って、課長は頬杖をついて、こちらをじっと見つめてきた。